7 狙撃
九月八日。今日の浅葉はこれまでのスーツ姿とは打って変わって、カジュアルな黒のシャツとジーパン姿でハンドルを握っていた。手頃な駅前で車を停め、後部座席の千尋の方を見やる。千尋は覚悟を決め、黙って一つ
事前に説明された手順は明快。ここから普段の通学ルートに合流し、電車を乗り換えて大学に向かう。図書館で三十分ほど時間を
千尋は深呼吸を一つすると、車を降り、ドアを閉めた。長尾が、
「じゃ、行ってくるわ」
と浅葉に声を掛ける。バックミラーの中から、二つの目が長尾を捉えていた。締まってかかれ、という顔だ。長尾は、
「わかってるよ。俺だってこんなやり方に賛成した覚えはねえからな」
と車を降りる。千尋はちょうど改札を抜けるところだった。
よく晴れた月曜の午前十一時。学生達は夏休みでもあり、ホームは結構な混雑だ。千尋には長尾の気配は全く感じられなかったが、きょろきょろと探すわけにもいかない。
(ほんとに近くにいるのかな……)
平常心、平常心、と自分に言い聞かせ、千尋は電車に乗る。ニュースでも見ようかとバッグに手を入れ、そういえば携帯は預けたままだと気付いた。本もないので何となく
二回の乗り換えも無事に済み、三本目の電車に乗る頃には不安も消えていた。むしろ図書館に行けることが楽しみにすらなってくる。学生証は財布に入っているから、暇潰し用の本でも借りようか。
最寄駅からはオフィス街を十分ほど歩く。千尋はいつも通り右側の歩道を歩いた。ちょうどランチタイムで通りは
行き
「やべっ!」
長尾は
千尋は、それなりに周りを気にかけて歩いているつもりだった。しかしそこへ、前方の道路脇に
気付いた時には遅かった。背後から「伏せろ!」という叫び声。……と同時に、
「あっ!」
長尾が走ってきて鋭く呼びかける。
「おい!」
千尋の上に
長尾はそれだけ見届けると、車道に飛び出した。歩道橋の上にいた革ジャンの男が反対側へと駆け下りていく。ブーッ、ブブーッと、
「警察です! 道を
千尋は何が起きたのかわからず、半ば放心状態でその場に横たわっていた。目の前に倒れた人物が浅葉であることをようやく理解した。
「浅葉さん……」
「
千尋は、歩道に手を付いた時に少し
「大丈夫……です」
千尋の返事が聞こえているのかいないのか、浅葉は、歩道に倒れたままの千尋の左肩の辺りに目を
浅葉の食い入るような視線が、その付近をしばらく
浅葉はふうっと息をつき、携帯を取り出した。ボタンを二つ三つ押し、
「現在地、三丁目南交差点。銃撃されました。男一人、四丁目方面に逃走中。長尾が追ってます。怪我人なし、田辺も無事です」
と告げると、ジーパンの腰に付けたホルダーに携帯を戻した。
ゆっくりと体勢を立て直し膝を付いた浅葉の右腕が、千尋の背中を支え、ぐいと持ち上げる。
(えっ……?)
一瞬ふっと抱き締められたような気がした。
(いやいや、気のせい、だよね……)
気が付くと千尋は、ビルの壁に背をもたれて座っていた。浅葉は歩道の隅に座り込んだまま、ジーパンの上に
千尋がその様子をぼんやりと眺めていると、パトカーのサイレンが近付いてきた。歩道橋の先の交差点を曲がった辺りでサイレンが止まる。野次馬がそちらへ向かい、辺りはざわついていた。
千尋は急に妙な寒気を感じた。自分がたった今殺されかけたという事実が、実感にまではならないまま、全身を包むように脅かしてくる。先ほどの銃声が思い出され、身震いした。ごく普通に生きてきただけなのに。こんな目に遭うような人生ではないはずなのに……。
誰かの恨みを買った覚えは全くない。軽い気持ちのいたずらだか、不注意による間違いだか知らないが、
しばらくすると、長尾が小走りに戻ってきた。
「どうよ」
と、浅葉の前にしゃがみ込む。
「かなりまともに食らったな」
覗き込む長尾の目線を
「いや、折れてはない」
「防弾
長尾は額の汗を
「どっから
浅葉は面倒臭そうに答える。
「たまたま通りかかっただけだ」
「よかったな、休憩中もきっちり装備してて」
と、長尾は浅葉のシャツの
「ま、そんなこったろうと思ったぜ」
目に付かぬよう、二十メートル以上離れて護衛しろという上からの指示。それよりも近付くには、休憩中に
長尾は力なく呟いた。
「これで取引はおじゃんだな」
「どうだろうな」
長尾は驚いて浅葉の顔を見る。
「それはどっちかというと一流の思考回路だ」
長尾は、
「なるほど」
と身を乗り出す。浅葉は辺りを見回し、
「場所が悪い。車に戻ろう。田辺を頼む」
と告げると、壁に手を付いて立ち上がった。長尾が千尋を
「千尋ちゃん、大丈夫? 歩けそう?」
「あ、はい。大丈夫です」
千尋は立ち上がって
車はオフィスビルの裏手に
「中で待ってろ」
千尋は言われるままに車に乗り込んだが、浅葉のシャツの穴が気になって仕方ない。防弾チョッキとは、一体どれぐらいの効果を発揮するものなのだろう。
何かの間違いで命を狙われた一般市民を守るために、自らを危機にさらさなければならないとは……。こうして現実に目の当たりにしてみると、実に因果な商売だ。
ドアを閉めた浅葉は長尾に尋ねた。
「お前ならどうする?」
「警察に情報が渡っちまったと。まあ日を改める、だな、普通は」
「奴らの頭で考えろと言ってるんだ。失うものが比較的少ない前提だ」
うーん、と腕を組んで靴の先を見下ろす長尾に、浅葉が続ける。
「質より量の奴らだが、それなりの金が動く。目先の金に目が
長尾の頭に一つのアイデアが
「場所だけ変えて決行する、か」
浅葉が満足げに
「俺なら時間もちょろっとずらすけどな」
「でもそんな急な動きとなると、手掛かりがなさすぎるな。さっきの革ジャン野郎は……」
「
「だよな。やっぱ中にいねえと無理か」
つまり、仲間のふりをして犯罪組織に潜入し、手の内を探る
「そりゃ今さら言っても遅い。ただ、急な展開になった分、こっちに有利な部分が出てきたろ」
「時間、場所を変えるとして……」
「その連絡はいつ回す?」
「今から……じゃねえの?」
長尾がぱっと顔を輝かせる。
「
「令状はとっくに出てるだろ。ピンポイントで今から数時間なら、何かヒットするかもな」
と、浅葉は運転席に向かう。長尾は携帯を手に、転がるように車に乗り込んだ。浅葉は、
「ちょっと寄り道だ」
とミラー越しに千尋に声をかけ、窓を開けて赤色灯を屋根に乗せた。
(ていうか、怪我の手当は……)
と案じながら、ハンドルを握る皮膚のめくれた手をただ見つめていた。
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