第七夜 アルモーギの『プラネタリウム・ボックス』 1
「美術鑑賞は素晴らしいな」
ウォーター・ハウスは展覧会を眺めていた。
「此処にあるのは複製画なのだが、それでも素晴らしいと思う」
二人は展示室を見て回っていた。
主に、テーマとして、聖書を中心としたものが展示されている場所だった。キリストや聖母マリア、キリストの弟子達の絵画が壁には掛けられている。
「なあラトゥーラ。何故、人間はキリストを崇めるのかな?」
彼はグリューネヴァルトの複製画を眺めながら、そんな事を呟いた。
グリューネヴァルトのキリスト像は、生々しい死体のように磔刑にされたキリストが描かれている。その顔からは苦悩の表情が浮き上がっていた。
この美術館は主に、聖書を題材にした作品の複製画が多く展示されているみたいだった。
「多神教ってあるだろ。色々な神様がいる宗教だとかさ。だが、何故、キリスト教において、神の子たるイエス・キリストは崇められるんだ? 普通の人間の筈だろ? 俺はキリストの描かれている絵画を見ながら思うんだ。歴史的に様々な画家達がキリストの磔刑図を描いたり、キリストの復活を描いたり、キリストが処刑される前の最後の晩餐などの絵を描いたりするよな」
彼の独白は続く。
「おそらく人類ってのは、自分よりも絶対的な存在が無いと生きていけないのかもしれない。生き方の道筋を示して欲しいんだろうな。そして、大いなる存在に祈る事によって、自分達を救ってくれる強大なものの存在を信じたいんだろうな」
ウォーター・ハウスは展示されている宗教画をまじまじと見ていた。
そして彼は時に、キリストの磔刑図と、キリストの復活の絵に興味を惹かれているみたいだった。
「そして、今の世界では、それは金(マネー)だ。金が信仰対象なんだよ。俺は金かキリストかっていうと、キリストを選ぶ。無神論者なんだがなあ。重要なのはだ、ラトゥーラ。キリストが凄いんじゃないんだ。キリストの奇跡を信じてきた奴らの精神が凄いんだよ。俺は芸術が好きだ。文学が好きだ。俺が好きな芸術や文学は、キリストとの対話を行い続けている。だから、俺は神なんざ信じないし、キリスト教徒でもないが、キリストが好きなんだよ」
彼はそう言いながら、ムリーリョ作のキリストが復活する絵画をまじまじと眺めていた。
そして、死者の復活とは、案外、滑稽な事なのかもしれないなあ、と呟いた。
「なあラトゥーラ。この俺も、キリストのように、俺の精神を、思想を、意志を歴史に刻んでやりたい。思想ってのはウイルスみたいなもんだ。蔓延し、増殖し、人々の在り方を変化させる。俺は思想というウイルスを撒き散らしたい。それが俺の最終的な願いであり、祈りなんだよ」
ウォーター・ハウスは自信満々で、常人とは掛け離れた思考を語っていた。
この男、完全に…………、イカれている。
ラトゥーラはそんな事を思った。
「ウォーター・ハウスさん…………」
ラトゥーラは彼の言っている事を理解する。
「つまり、貴方はキリストになりたいと……」
「そうだぜ。いや、俺の思想は資本主義の撲滅だし、人類の大量殺戮だから。神の敵対者である大悪魔(サタン)? いや、考え方自体はキリスト教が基盤になっていた西洋哲学を否定したニーチェとかかもな。ちょっと過激なくらいのニーチェだ!」
「貴方、ちょっと狂っていると思います……」
「そうか。俺はこれが自然体(ナチュラル)なんだがなあ……」
彼はとても、楽しそうな顔をしていた。
「どうせ人間の寿命なんて、せいぜい数十年。生きて百年くらいだ。俺は不老不死の能力者じゃねぇ。だから、俺は自分が死んだ後も、俺の生きた痕跡を出来るだけ可能な限り、多くの者達に知らしめてやる。終わらない燻る炎となってやる。完治しない病気を齎してやるんだ」
「何故、資本主義と関係があるんですか?」
「資本主義ってのは、人間の命も思想も宗教も全部、商品だからだよ。全部、売り物。金で買えるもの。俺の思想や金で買えないし、俺の撒いたウイルスは金で買えない。俺はそういうものになりたいんだよ。本当に切実に願っているんだ」
ラトゥーラは、ウォーター・ハウスの願望を聞いていて、引き攣った顔になっていた。
…………、完全に彼は狂っている。
ただ、もしかしたら、天才なのかもしれない。
確かなのは、彼は矜持を持って、自分自身の考えを持っているという事だ。
彼の思考が見る先に、ラトゥーラは興味を持ち始めた。
ふと。何か奇妙な事に気付く。
何かが辺り一面に漂っていた。
それは、どうやら、魚のように見えた。
魚の群れだろうか。
ラトゥーラは息を飲む。
明らかに、敵だろう。
魚達の姿は、他の観客達には見えないみたいだった。
ラトゥーラは敢えて見えていないように振る舞う。
ふと。
美術館内の観客の一人が倒れる。
男だった。彼は口元を押さえている。
陸の上で窒息している。
水も無いのにだ。
「ウォーター・ハウスさん……っ!」
ラトゥーラは絵を見ている、ウォーター・ハウスに訊ねる。
「ああ、分かっている。敵からの攻撃だ。何か知らないが」
彼は大きく息を吸い込んで、吐き出した。
そして、左腕を見せる。
彼の左腕は…………。
…………大量の肉食魚が喰らい付いており、骨が見え始めていた。
「なんだろうな? これは一体」
彼は魚を腕から引き離していく。
辺りにはタコやクラゲなども浮かんでいる。
クラゲが揺らめきながら、ウォーターとラトゥーラの処へと向かっていく。その数は数十体にもなっていた。
「能力者がこの美術館の何処かにいる。……いや、外かもしれないな」
ウォーター・ハウスは冷静に周囲を観察していた。
大量のウツボが空を泳いでいる。ウツボは肉食だ。二人の肉を喰らおうと迫ってくるだろう。尻尾が毒針になっているエイの姿も見えた。
「ウォーター・ハウスさん、あれっ!」
ラトゥーラが指を指す。
巨大なサメの影が現れる。
「敵を探すぞ」
二人はまるで無重力のように、全身を浮遊させていた。
「……この敵のやっかいさは、人喰い魚などを生み出す事の方じゃなくて……、……クソ、俺達の全身が…………っ!」
彼はラトゥーラの方を見る。
ラトゥーラの方も“何も無い陸”の中で“溺れ始めて”いた。
彼の腰まで伸びた長髪が、何故か海水に浸り始めている。
「……、個人差があるのか分からないが。クソ、俺もだんだん呼吸が出来なくなっている。身体がのろい。この敵は……、本当にやっかいだ。何処に潜んでいる……? 見つけ出さなければ………」
彼は自分の両手が重い事に気付く。
どうやら、何か鎖のようなものが巻き付いているみたいだった。何処から出現した?
ウォーター・ハウスは背後を見る。
どうやら、それは錨だった。船の錨だ。
錨が美術館の床に深々と突き刺さっている。
すぐに腕力で切れる筈だが…………、全身が水の中を漂っているようで、切れずにいる。
巨大なクジラのようなものが近付いてきた。
クジラは、一般客には見えないみたいだった。
一般客達は、普通に歩いている。
ウォーター・ハウスとラトゥーラの二人は、まるで同じ世界にいながらも、別世界に閉じ込められたような感覚に陥っていた。彼らに自分達の姿は見えるのだろうか? 少なくとも、魚は見えていないみたいだが……。
ウォーターの首に鎖が巻き付く。
そして、錨の先は、美術品の彫像の一つに絡み付いていた。
ウォーターは彫像の一つに絡み付いて固定されていた。
さながら、キリストの磔刑のような状態にされている。
彼は敵の悪意のあるユーモアに対して、心の中で爆笑していたが、すぐに事態の深刻さに気付く。
ウォーター・ハウスの下へと、大量のクラゲが襲い掛かってきた。毒針で全身を貫いてくるタイプの奴だ。普通の人間なら、二時間程度で死亡する種類の奴だ。
「クソ、敵を見つけなければ……、おい、ラトゥーラ、お前が戦うんだ。お前がやるんだ」
ウォーターは、ラトゥーラの方を掴む。
そして、彼に美術館の外に出るように指示する。
このまま、この能力を操作している敵を見つけなければ……。
二人共、水の無い場所で溺れ死ぬか、クラゲの毒針かサメの餌になって死亡してしまうだろう……。
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