チャプター 2-2

 土曜日。僕は美術室を利用する為に学校へと来ていた。

 職員室に入り、美術室の鍵を借りる時、顧問に『部活熱心で感心、感心』と賞賛された。僕からすると別にそういう訳じゃない。ただ私的に利用したいだけだ。

 休日の美術室へ向かう足取りは枷が外れているかのように軽く、あっという間に着いた。


「ほんと美術室って埃っぽいな」


 中学生の頃も美術室を利用していると同じ事を思った。どうして何処の美術室も埃っぽくなるんだろうか。美術室を利用する人間はいても、掃除をする人間はそういないから、自然とそうなるのだろうか。

 とりあえず、着いて最初にするのは掃除だ。一応、私的に利用させて貰っているので、それぐらいのボランティアはしておこうと思って始めた事だけど、今ではルーティーンの一つになっている。


「よし、これくらいでいいかな」


 無心で掃き掃除をする事、約二十分。これで完璧とは言えないが、来た時よりは綺麗になったので十分だ。掃除を終え、いよいよ本来の目的に取り掛かる。無論、その目的とは絵を描く事だ。

 普通の学生なら、絵を描くだけなのにわざわざ休日の学校に来てまで美術室を利用する必要があるのかと思うだろう。だが、理由二つはある。

 まず、一つは静かで誰もいない事。ここに響く音は外の運動部の掛け声と金属音だけで、他に人はいない。他人に絵を描いてるところをあまり見られたくない僕にとってベストな環境だ。

 もう一つは、単に美術室の道具、主に絵画用のイーゼルを使いたいだけだ。画家っぽい雰囲気を楽しみたいなんて我ながらミーハーだと思う。だが、絵を描いている実感がほしい僕にとっては重要な事だ。それこそカレーを作る時にいきなり具材を煮込むのではなく炒めてから煮込むぐらい重要だ。

 道具室からイーゼルを運び出し、ポジション決めをする。といっても、何かを見て描く訳じゃないから、気分で決めている。今日は陽に当たりたい気分なので、窓の側に置く。

 自分のロッカーから描きかけの絵を取り出し画板にセットし、イーゼルに立てかける。よし、これで準備完了。


 ──シャッ、シャッ、シャッ。


 外からの喧騒が途絶え、静寂の中に鉛筆を滑らせる音が鳴り響く。それは、一種の音楽のようで、僕の頭の中に譜面が流れる。

 トン、タン、トトン。細く描く線は軽快に、リズミカルに。

 ドン、ダダダ、ダンッ。指先に力を込め、力強く影を。

 ポン……ポロン……。絵を擦り、か細く、今にも消えてしまいそうな儚さを。

 あらゆる要素を織り込み、絵は──終わりへと少しずつ、向かっていく。


 ──シャッ。スゥ。


 鉛筆を滑らせる回数が減っていく。画用紙には、僕の記憶に残っている風景が完成していく。

 どうして色褪せず、何度も、何度も描いてしまうんだろうか。この──。


「あの」

「い゛ぃっ!?」


 僕だけの静寂の世界を破り、聞き覚えのある少女の声が耳に入ってきて、盛大に驚く。恐る恐る背後へと視線を移す。実際に、目にするまでは何かの間違いであって欲しいと願ったが、それは叶わぬ願いだった。


「み、都ちゃん。 どうしてここに……?」

「紗枝さんに、お兄さんがお弁当を忘れたから届けてきてと頼まれたんです」

「そう、なんだ」


 笑顔でお弁当の入った袋を掲げた都ちゃんに『忘れたんじゃなくて今日は必要なかったんだよ』とは言えなかった。というか、母さんには要らないって言ったはずなんだけど……相変わらずの母さんのテキトーっぷりに首が項垂れる。

 それは、さておき。どういう訳か都ちゃんの手には二人分のお弁当があった。母さんがどういうつもりで都ちゃんの分も用意したかは分からないけど、今はそんな事はどうでも良かった。

 それよりも、この後に起こり得るかもしれない展開に恐れ慄き、手に汗を握っていた。べっとりと。


「わざわざありがとうね」

「いえ。 ところで、お兄さん。 それ」


 都ちゃんの手からお弁当を受け取り、固まってしまう。このまま後ろにあるものを気にせず接してくれるなんて都合のいい展開になっていたら、こんなにも焦らなかっただろうに。


「えーと。 これは、その……」


 頭の中で何度も『cool it』と連呼し、自分を宥める。まだ絵を見られただけだ。それだけで、アレに触れられたりしない。だから、平常心を保て。クールになれ。


「お兄さんが描いたんですよね?」

「あ、あぁ……うん。 そうだよ……一応」


 我ながら歯切れの悪さに辟易する。


「公園の絵ですよね。 夕景……綺麗ですね」

「えっ……!?」


 都ちゃんの放った衝撃の言葉に驚きを隠せない。僕は都ちゃんの両肩を掴み、取り乱した様子で問う。


「ねぇっ! 今、今なんて!?」

「えぇっ!? あ、あの」

「頼むよっ! もう一度言って!」

「公園の絵って」

「そのあとっ!」

「夕景……綺麗ですね、と」


 聞き間違いじゃなかった。確かに、都ちゃんは『夕景』と言ったのだ。

 僕は曲がりなりにも美術部員だ。素人の目から見れば、僕の絵でもそれなりに上手く見えるので、何の絵か分かったかなんて大して驚くようなことじゃない。だから、公園の絵だと分かったのは驚くような事じゃない。

 なら、何をそんなに驚いているのかというと都ちゃんは僕の絵を見て『夕景』だと分かった。それは絶対にあり得ない事だ。

 何故なら、僕の絵には色がない。ただ、鉛筆で描いただけの白黒。だから、『夕景』だと分かる訳がない。


「あの……もしかして、違いましたか?」

「ううん、合ってるよ。 どうして夕景って分かったの?」


 事態は急変し、その理由が気になって仕方なくなっていた。それは僕の希望になり得るかもしれないから。


「……笑いませんか?」

「笑わないよ。 絶対に」

「……その。 お兄さんの絵を見たら、そうイメージ出来ました」


 それは単純かつ不明瞭で漠然とした答えだった。理由なんてない。ただそう思っただけの事。浅ましくも理論じみた明確な理由を欲していた僕にとっては拍子抜けな答えだった。

 もしかして、白黒の絵でも色を理解してもらえる方法があるかもしれないと淡い希望を抱いてしまった。頭ではそんな魔法みたいな事ある訳ないって分かっているのに……。

 全く、歳下の子どもに何を期待していたんだろうか……どうかしてる。


「すごいね。 僕の絵は白黒なのに」

「い、いえ……イメージするのが人よりほんの少し得意なだけです」


 そういえば、母さんの地図の時もイメージ出来たと言っていた。あの時は理解力がすごいと勝手に思っていたけど、本当は文字通り道筋をイメージ出来たって事だったのか。実は、想像力が豊かだった?

 でも、想像力で道が分かるって……ニュアンス的に違和感があるけど、気にする事でもないか。


「………」

「そんなに気になる?」


 じっと絵を見つめる都ちゃんに、そう尋ねると無言のままコクコクと頷いた。

 そして、少し間を置いてからくりっとした真っ直ぐな瞳をこちらに向け、口を開く。


「お兄さんが絵を描くところを見ててもいいですか?」

「……。 いいよ」


 ──ギュゥルルルルッ。


 その音が鳴り響くと同時に都ちゃんが俯く。


「あ、うぅ……」

「でも、その前にお昼にしよっか」


 都ちゃんと少し早めの昼食を摂り、再び絵の前へと座る。

 さっきとは違い、隣には都ちゃんがいる。普段なら他人に絵を描くところをジロジロ見られるのは絶対に嫌だったが、この時は何とも思わなかった。

 それから都ちゃんは僕が絵を描く姿を何も言わず、じっと眺めていた。時折、お茶を飲むフリをして都ちゃんの顔を伺うと、頰を緩めニコニコとしていた。どうして見ているだけなのに、そんなにも楽しそうなのか。僕には分からなかった。

 絵は大方出来上がっていたので日が沈み始める少し前には家路を辿っていた。

 未だに、楽しそうにする都ちゃんにある事を尋ねた。


「退屈じゃなかった?」


 返事は分かりきっているが、そう聞かずにはいられなかった。 思っていた通り満面の笑みで『退屈じゃなかったですっ!』と返ってきた。

 それが、山彦のように頭の中で響く。

 分かっている。本当はそんな事が聞きたいんじゃない。僕が聞きたいのは、君が楽しそうに笑う理由だ。

 でも、聞けなかった。聞いてしまうと泡のように弾けて消えてしまいそうだったから。


 ♪


 -都の日記-


 4月21日 お兄さんがお弁当を忘れたので、学校まで届けに行きました。

 中に入るのは難しいかと思っていたのですが、守衛の方にお兄さんの事を話すとすんなり入れました。ついでにお兄さんの居場所も教えてくれて本当に助かりました。

 美術室へ入ってすぐに声をかけようと思っていたのですが、いざ絵を描くお兄さんの姿を見ると足が止まってしまいました。

 また、あの時のお兄さんに会えた気がして……。こっそり見ていました。

 でも、こっそり見るだけでは満足出来ません。もっと近くで、見ていたいです。ずっと、ずっと……。

 だから、紗枝さんにお願いして、私の分のお弁当も用意してもらっておいて正解でした。やっぱり、お兄さんの絵……好きです。紫さんのおっしゃっていた通りキラキラですっ!

 夕景……少し、ドキッとしました。

 そういえば、校内で紫さんによく似た方を見かけたのですが、他人の空似だったのでしょうか?

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