終わりの側で

北風邪

終わりの側で

 泥沼に手を引きずられるような感覚が私を襲う。

 その感覚に激しい嫌悪感を覚える。

 ──しばらく時が止まっているように感じた。

 脳がよく働かない。働こうとしない。

 それでも、自分で起こしたこの状況を把握しようとしていた。

 今は、今は、今は……。

 目の前の情報をしっかりと整理しようとする。

 そこで、不意に嗅いだ何とも言えない独特な嫌な臭いが私の脳の働きを活性化させた。

 生臭く酷く鼻に残り、何度呼吸しても慣れる事は決して無いような臭い。


 ──簡単なことだ。

 ここで私はようやくそう思った。

 誰もいない路地裏で持ち手と垂直に横になっている男。ここにあるとはただそれだけ。

 赤黒い血がじんわりと衣服に広がっていくのを見ると、嫌な臭いが更に増した様な気がした。もちろん、私が何をしたかも知っている。黒く染まりつつある空の中でもそれらはっきりと見ることができた。


 「はは……は」


 ここまでの一連の状況を整理出来た私は、不意にそんな言葉が漏れた。

 ついにやった。ようやくやった。やった。やった!やった!

 

 「はははは……!……はは」


 声は止まらない。後悔はなく、むしろ後悔の代わりに別の感情が湧いてくる。視界が少しグラっと歪む。しかし今の私にはそんな事気にも留めなかった。出てくる声はたったそれだけを繰り返し、他の言葉が出てこない。


 「ふふ……」


 声に出すことによって生まれる開放感。今の私にはそれがたまらなかった。

 ただひたすらに笑いながらこの惨状を見る。じんわりと広がっていく血の海をぼんやりと眺める。

 帰ろう。カランコロンと音がする中、目的を果たした私はそう思った。もうここでする事はやり果たした。次は──




 それはいつの事だっただろうか。男を殺した帰りかもしれないし、その夜晩御飯を買いに行った時かもしれない。時間帯は夜だったと曖昧にしか覚えていないのに、その時パーカーのポケットに手を突っ込んで歩いていたというのは何故か明確に覚えていた。

 そしてその時、一人の少年が話しかけて来た。少年は軽い防寒用の上着と黒いズボンを身につけており、少しその姿に違和感を覚えたがすぐに学校のクラスメイトである事がわかった。

 同級生のわりには身長があまり高くなく、子供っぽいイメージを抱いてしまう。

 少年は少し焦った様な表情で話しかけてきた。


 「ねぇ、このミサンガ……違う?」


 そして少年が取り出したのは糸が切れたミサンガだった。そしてそのミサンガには見覚えがある。理由は簡単で普段私が身につけているものだったからだ。

 パーカーから手を出して腕を見る。確かに私の腕にはミサンガがなかった。ミサンガは無いが、今ミサンガが無いというのは極めてどうでもいい。何故いちいち構おうと思ったのだろうか。


 「……確かに私のミサンガだわ」


 そう言って少年の持っているミサンガに手を伸ばそうとした時、少年が言った。


 「それは良かったよ。でもこのミサンガ……綺麗に切れちゃってるね」


 「確かにそうね。ところで、このミサンガどこで拾ったの?」


 このミサンガを身につけるようになったからは、一ヶ月も経っていない気がする。そのせいからか、ミサンガの糸も殆ど綻んでいない。


 「そ、それは……さっき歩いてたら落ちてたから……」


 それより、と少年は話題を変えた。


 「ミサンガって自然に切れないと願いが叶わないらしいよ……?」


 確かに、ミサンガがいつ切れてしまったのかはわからないが、それ以前に少年が何故そんな事を聞いてくるのかが私には理解できなかった。


 「……何が言いたいのかしら?何か言いたい事でもあるの?」


 「い、いや!別に僕はそんなつもりじゃ……!」


 結局、その会話はそこで途切れてしまった。後にミサンガを返してもらったか、そうじゃないかは覚えていないのだが、今私の手元に無いという事は返してもらった後、適当に捨てたかも知れないしそもそも返してもらっていないのかもしれない。

 ただ、今考えて見ると、あの少年は──



 次の日、私は普段と変わらない日常を送ろうとしていた。重たい瞼を無理やり持ち上げて、嫌がらせの様に差し込んでくる光を忌み嫌いながらカーテンを閉める。

 その後はルーティン。それが終わると間もなくいつも登校する時間になった。


 鍵をかけるのを忘れず、学校へと向かい歩き出す。太陽の光が私にスポットライトを当てるかの様に照らし付ける。気温はそこまで暑くないはずなのに、無性に暑く感じる。

 ちょうど大通りに差し掛かった時、同じ学校の生徒がちらほらと見え始める。その他にも沢山の通行人がいる。この大通りまで来た時、私は毎日もうすぐ学校に着きそうだと思う。思いながら、ぼんやりと歩く。ぼんやりと歩いていると大通りに響く雑踏も何も聞こえなくなったかの様に錯覚する。

 そこで私はふと思う。

 ──今日の授業は確か……三時半には終わるかな……




 空が茜色に染まりつつある中、泥に引きずり込んだ様な感覚を私の体全身に覚える。


 「ぐ……ぁあ……あぁ」


 声にならない声を上げながら、私の方へと少しずつにじり寄って来る。


 「く……ぅ……ぉ……!」


 来たかと思えば、男は私の方へと手を伸ばして来た。べつに伸ばしてもどうにかなる様な話では無いだろう。もしかしたら私に助けて欲しいという合図なのかもしれない。しかし、私の目を必死に見ているその姿は紛れもなく憎しみの感情を帯びていた。

 結局、私は手を差し伸べる事にした。

 男に刺さっているモノに。

 刺さったソレに手が届くと、私は勢いよく掴み引き抜いた。


 「がぁっ……?!」


 男の声と共にべっとりと気持ちの悪い血の付いた鋭利な刃物が見えた。刃物は血に濡れながらも煌びやかな光沢を出していた。

 刺された所を必死に押さえる男と刃物を交互に見る。そのまま刃物を私の腰辺りまで引いて、少しずつ男に近づいて行く。

 男の顔が憎しみから恐怖へと変化していくのがはっきりとわかった。

 ──それとは逆に私の唇の端が吊り上がった。

 グサり、と。

 確かにその生々しい感触が伝わって来た。

 それが余りにもおぞましく、私は身を震わせる。

 しかし。そのおぞましささえも心地よく感じてしまっている私がいた。

 結果、私はとある行動に出ようとしていた。

 既に声も出せなくなってしまって仰向けになって倒れている男を見ながら、再び鋭利な刃物へと手を伸ばそうする。

 刃物はもう刃の部分がすべて隠れてしまっている。取っ手の部分に手を当て、引き抜く。

 先ほどと同じような感覚が再び私を襲う。

 私は、ただ。

 もう一度その感触に浸りたかった。

 そう思い、私は上げた腕を勢いよく振り下ろした。


 


 感覚が、狂っている。いや、私が狂っている。

 いやそれとも狂っていなかったのか。

 判らない。どれほど考えて、どれほど思考を巡らして、どれだけの時間を費やそうともその答えは出てこない。

 そもそも、私は何故こんなことを……。いや、解かっている。そんなことは考えずとも答えは出ている。

 ──ならば何故、私は狂っていると思ってしまうのか。




 その夜もまた、少年に会ったのを覚えている。

 しかし前の日同様、どこで出会ったのかまでは、はっきり覚えていない。

 晩御飯を買いに行った時かもしれないし、気分転換に散歩に行ったときかもしれない。

 ただ、少年が話してきた事は確かに一言一句覚えていた。

 

 どこまでも続く闇の中、街灯だけが私を寂しく照らしつけている時に少年は現れた。

 

 「こ、こんばんは……」

 

 「ええ。こんばんは。……どうかしたの?」


 少年は何か言いたそうな顔をしていた。


 「奇遇だね……!」


 少年は何かを必死に抑えているように見えた。

 しかし少年はそれを抑えてばかりで吐き出そうとする様子はなかった。

 

 「確か昨日もここで会ったわよね。……また何か私落としたかしら?」

 

 「きょ、今日は別に何も見つけてないよ!……けど……」

 

 私は少年のもどかしい様子に少し腹を立てて来ていた。

 もしかしたら私が夜に少年と会うのもこの少年が仕組んでやっているのかもしれない。そう薄々疑っていた。

 

 暫く、少年が話すことは無かった。今思ってみればこの少年は私とあってから終始何かもどかしそうに、もじもじとしていた気がする。

 結局最後には私から話しかけることにした。

 

 「……どうかしたの?何か言いたいことでもあるのかしら?」

 

 「……ごめん」


 それだけ言うと少年は再び黙り込んでしまった。

 これでは埒が明かないと思った。

 ので、私は少年を放っておいて帰る事に決めた。

 

 私が少年の横を通り過ぎようとした時、


 「でも……!!」

 

 という声が聞こえた。

 その声の方を向いてみると、必死な表情が見えた。今考えて見るとそれは優しさに包まれているようにも思う。


 「気を付けた方が……良いと思う……!」


 言い終えた少年は走り出してどこかへ行ってしまった。

 恐らくこの時私は少年が言った事の意味なんて考えもしなかったのだろう。寧ろ苛立ちを覚えていたかもしれない。

 ただ、あの時も少年は──

 


 空は青く、活きのいい雲が沢山泳ぎ、心地の良い太陽が降り注ぐ中でここだけはまるで太陽の光など当たる気配はなかった。

 地面は赤く、完全に動かなくなってしまった死体、気色の悪い匂いが辺りに充満している事を考えるとそれも当然の事だった。

 腹に刺さっている刃物を見ていると私は胸の中から溢れ出てくる物を感じる。それは決して不快に感じず、寧ろ心地よく感じられた。

 暫くすると、そんな私の気持ちにも変化が表れた。

 こんなものじゃ足りない。もっと満足出来るものが欲しい。

 そう思うと、目の前に転がっている死体などには興味が無くなってきた。

 そのまま私は路地裏を出る。

 路地裏を出て、大通りへと向かっていく。

 誰もいない大通りで、雑踏の中私は学校へ向かっていった。

 こんな事を続けても面白くないわね。



 私は学校にいる間ひたすら一つの事を考えていた。

 それは私の行動を何かで制限されていると感じることだ。

 私が思う全ての事に何かの抑止力が働いているような気がした。

 

 「気を付けた方が……良いと思う……!」


 不意にその言葉が頭をよぎった。しかしこれは初めてではない。何度か、いや何度も私の頭の中でそう繰り返されている。

 その言葉がどうしたというのだろう。別に大したことじゃないだろう。

 しかし、その言葉は決して私から離れることは無かった。

 そして再び私は昨日覚えた苛立ちを、同じように覚えるようになった。

 それが後の私の行動に影響したのかイマイチよく分からないが、少年の事が頭を離れなかったのは確かだろう。

 暫くして、私が何かに制限されているという事を少年の所為にしてしまっていた。

 あの少年がいるから私は自由に出来ない。あいつが私の自由を奪っている。

 何故いちいち私に何かを言ってくるのだろう。放っておけばいいのに。

 しだいにそんな風に思うことが多くなっていった。その度に少年に対する苛立ちが増していく。

 六時間目の終業のベルが鳴り響いた時には、私のすることは既に決まっていた。




 ベルが鳴る。終業のベルだろうか。しかしそのベルが何のベルなのかと言うことを考える気は起きなかった。それどころじゃなかったのかもしれない。

 

 「……さあ」

 

 確かそんなことを呟いた。脳と口がリンクしない。何故言ったのかさえも分からなかった。

 

 「と、ところで何でここに呼び出したの?」

 

 少し時間が経った時、別の声が響いた。それが少年の声であるというのはしばらくの時間を要した。

 

 ──そうか


 言葉に対し、何と言ったか。

 

 「なにか……用があるの?」

 

 その時強い風が吹いた。

 風は少年の声さえも掻き消してしまいそうだった。

 しばらく経っても風は止まなかった。寧ろ、更に強くなっていっている気さえした。

 そんな中、少年は口を開けて、

 

 「用が、あるんでしょ?」


 その時私は頷いた。

 確かに私はこの少年に用があった。

 

 「ね、ねえ」


 「ねえってば」

 

 「……どうしたの?」


 その声が頭の中に響く。

 その響きに私の何かが強く揺れる。

 その声による揺れ、そしてふと見た少年の顔が深く私の記憶に焼き付ける。


 ─でも、私はこの時……


 「なるほど、そうだったんだね」

 

 気が付けば少年がそんなことを言っていた。

 どうやら私を理解してくれたらしい。しかし何故、どうやって少年が私を理解してくれたのか。

 私の横に座った少年が私に優しく微笑んできていた。

 その笑顔は私の心を癒し、穏やかにさせてくれていて。でも私の心を深く抉っていっている。

 少年はそれからずっと微笑みかけてくれていた気がする。

 もしかしたら、これが私の目的だったのかもしれない。

 そう。私は決して、決して。決してそんなつもりはない。いや、なかった。

 

 ─思い出した。


 「そんな……僕は……」

 

 最後に聞こえたのはそんな声だった。

 

 


 結局、私は、私は、私は。

 私は間違っていたのかもしれない。

 いや、今の今まで私の行いは正しいと思っていた。そう信じていた。

 私がしてきた事は、自分が正しいと主張しているだけのただの我儘だった。

 思えば、あの時少年と話をしようと思ったのも私の間違いを正して欲しかったのかもしれない。

 ならば何故。なんで!

 どうしてそうしなかったのか。しようとしなかったのか。 

 苛立ち?妬み?いや違う。

 そんな理由で私はあんな事はしない。

 もっと、単純で、自分勝手で、我儘な理由。 

 それが今、やっと終わりの傍──崖っぷちで気が付いた。

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終わりの側で 北風邪 @kazemaru

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