第九章

第九章

それからしばらくの間は平穏な日々がつづいた。特に禎子にとって、困ったことはまず、おこらなかった。いつも通りバイオリンの練習をするときも、必ず太をそばにおき、目を離さなかった。声がちいさくて、聞き逃してしまうことは、相変わらずだったけど。ミルクもよく飲んでくれるし、微笑みかければ微笑み返してくれるから、順調そのものだと、勝手に思っていた。

その日も、太をテーブルに敷いた座布団に寝かせてバイオリンの練習をしていた。いまは、太のそばにいて、いずれは、どこかのアマチュアオーケストラに、再雇用してもらうつもりでいた。だからこそ、練習は続けなければならないのだ。

指のウォーミングアップをして、太にミルクでもあげようかと、バイオリンをテーブルに置いたそのとき、インターフォンが鳴った。

宅急便で、洗剤を注文していたため、もうきたのか、と思い、確認もしないでドアをあける。

「澤村さん。」

そこにいたのは、スーツ姿に身を包んだ二人の女性で、配達員ではなかった。

「私たちは、社会福祉局の者ですが。」

「な、なんでしょう。」

「ちょっと、お部屋を拝見させてもらいたいのですが。」

行きなり来てなんだと思ったが、

「太くんが、どんな育ちをしているかを確認するためです。

先日、勝又小児科の先生からうちへ連絡がありました。太くんがあまりにも発育がよくないから、生活の様子を見てくれないか、と。」

発育がよくないって、そんなこと、、、。

「とにかくあがらせてください。外で問答しても困ります。」

福祉局は、また強引にそういうので、禎子は仕方なく、部屋に上がらせた。

二人は、いち早く太を確認した。

「ほほう、テーブルに寝かせているのですか。」

「ええ。だってまだ、ベビーベッドが、通販で注文していてまだ、来ないんですよ。災害で、配達が遅れていて。」

一人の職員が、部屋の間取りや家具の位置等をノートに記入していた。禎子はそれが頭に来た。

「なんですか!人の部屋をそうやってメモ書きして何をするんです!」

「澤村さん、この部屋は子育てには適しておりませんね。赤ちゃんに必要な物を置くスペースも、なにもないでしょう?」

「だからそれは、少しずつ用意していくっていったじゃありませんか。生まれる前に完璧に準備しておきなさいとでもいいたいんですか!」

「そうじゃなくて、あなた、用意する気がないんじゃありませんか?今のいままでバイオリンの練習をやっていたでしょう?ちゃんと、聞こえてきましたよ。メンデルスゾーンのバイオリン協奏曲。」

「バイオリンは私の仕事です。やってはいけませんか!」

「澤村さん、あなた、音楽家ですから、音楽への情熱があるのは、わかりますよ。でもですね。赤ちゃんを育てる方にそれ以上のやる気をだしてもらわないと。あなた、産婦人科に行ったときも、散々おろしたいといって、口論していたそうじゃありませんか。それが、いまさら、産んで育てる気になったなんて、できるはずもありません。だからこそ、いろんな物を揃えていないのではないですか?」

福祉局は、彼女を嘲笑うようにいった。

「そんなことありません。確かに生む前は、そんなことを言ったかも知れませんが、生んだあとはちゃんと、太が独立するまでしっかり面倒を見ようって誓いを立てました!それを破るなんてことは、絶対にありません!」

「そうですねえ。そういう言い方をする人ほど、疑いを持ちたくなるのが、私たち福祉の建前なんですよ。」

「なにが福祉よ!人の家に勝手に入って勝手に難癖をつけるのが福祉というものですか!」

「澤村さん。」

もう一度、福祉局がいう。

「そうやって、すぐにがなり立てる性格を自覚しなきゃ。」

「すみません。」

禎子がそういって、軽く頭をさげると、

「また、伺います。」

福祉局は、静かに部屋を出ていった。

その日からバイオリンの練習は取り止めにして、とにかく太のそばにいてやるようにした。食事するときも、寝るときも、お風呂も、太のそばにいた。それをしてやらないと、なんだか、この子が、遠ざかっていく、、、。

そんな気がした。


その数日後。

いつも通り、太にミルクをやり、彼をテーブルの上で寝かしていたときのことである。

ベビーベッドは、発送が遅れていて、まだこなかった。あるいは、発送通知を、忘れているだけで、今日くらいに届くのではないだろうか?なぜか、そういうことを、考えてしまう禎子だった。店に催促の電話をしようかと思ったが、スマートフォンの電池が切れていたし、固定電話もしいていなかった。

また、インターフォンが鳴った。

今度こそ、ベビーベッドが届いたのではないかと予想して、禎子はいそいで玄関先にいった。しかし、ドアを開けると、いたのは、二人の男女。一人は先日来た福祉局の職員であるとわかったが、もう一人の男性は、

「局長の、増村です。よろしくどうぞ。」

といった。つまり、福祉局の局長か。さらに偉い人をつれてきて、どういう事だと禎子は思った。

「とりあえず、あがってください。」

禎子はふたりを中へはいらせる。太をテーブルに寝かせたままだったのが、致命的な間違いであった。

「どうぞ。」

二人をとりあえずテーブルに座らせて、お茶を出すと、局長は、お構い無くといった。

「あの、今日はどういうご用件でこちらにいらしたのでしょうか?」

禎子は、本能的に太を腕に抱いた。

「はい、先日調査にうかがいまして、福祉局の職員で話し合った結果、澤村さんは母親としてふさわしくないのではないか、という結論にいたりました。ですので、太くんを施設にいれたらどうでしょうか?」

局長は、静かに語るが禎子には、晴天の霹靂だった。どういうことですか!と思わず怒鳴り付けると、

「澤村さん、あなたご自身のことをしっかり振り替えって見てください。あれほどおろしたいといっていたあなたが、子育てなんかできると思う?あなた、産婦人科の先生に、自分のバイオリニストとしての人生を、全部子供にとられてしまった、これでは非常に困る、とかいって、罵ったのよ。そんな態度で、すごしていたら、いずれは太くんに躾だとかいって、暴行したりだとか、食事を与えるのが面倒になったとか、そういう気持ちに変わっていくわよ。澤村さん、よく最近は子供が殺されるニュースを聞くでしょ?そういう子達は、澤村さんのいうように、親が、子供を邪魔だとおもうから、そうなってしまうのよ、わかる?」

女性の職員が、禎子に説教するようにいった。

「ほら、よくあるじゃないの、いまの虐待死事件は、大体そういうことが動機で起きているでしょう。男と遊びたいから子供が邪魔になったとか、それとおなじなのよ。」

そんな身勝手な理由とは、全然違うじゃないか!と、禎子は思ったが、

「澤村さん、私たちは、子供の命を守ることが役目なんです。そのためには、危険な親から引き離すことも、時には必要なんですよ。だから、今回、太くんをこちらへ引き渡していただけませんか?」

例の局長がそういったので、禎子は怒りが収まらず、

「福祉局は、子供なんか守ってません!ただ、親を、危険人物だと勝手に決めつけて、命より大切な子供を引き離して、不幸にさせているだけです!」

と怒鳴った。

「澤村さん、そうした方が子供さんが幸せになれることも、あるんですよ!それは、貴方にも言えることだ。あなたがもし、太くんに暴行を加えるようになれば、あなたが、犯罪者となってしまう。そうなれば、太くんはこれからどうなるでしょう?犯罪者の家族というものは、自殺するしか行き場がないほど、追い詰められるんですよ。小さな子供に、そんな現実を押し付けることができますか?よく考えてみてください。」

「今の時代は何でも予防の時代なのよ。それを考えて、私たちは、太君をあなたと一緒にいさせないほうがいいと思ったのよ。だから、太君を、こちらに渡して。お願い。」

二人の職員は、そんなことを言いながら、本気で心配しているようにはみえないので、禎子はより怒った。

「嫌だっていったら?」

「いやなら、警察沙汰になる可能性もあります。」

それだけは、誰でもなりたくないのは、禎子もわかった。禎子は悔し涙を飲みながら、静かに太を職員に渡した。その時は、何も言えなくて、非常に悲しかった。本当に悲しかった。

「大分、衰弱しているようですな。どうして、ここまで放置したんだろう?」

「ええ、医療的な知識を得ようとかしなかったんでしょう。こういうことに気がつかないんですから、やはり、私たちが介入した方がよかったのよ。それで、太君も、救われるわ。今度は、もっとしっかり育児をしてくれるお宅に行って、しっかり育ててもらわなきゃ。」

渡された、太を見て、局長と、職員はそんなことを呟いている。禎子は、返して!と頭の中で怒鳴っているつもりだったが、どうしても声が出なかった。足も動かなかった。手も動かなかった。ただそれだけのことである。何か叫びたかったけど、何か言いたかったけど、何も、何も、何も言えなかった。

禎子はそのあとなにがあったか、まったく覚えていない。

気がついたときは、わずかばかりの太の匂いがついている座布団に、顔を埋めてなきはらしていたのだった。


遠くで、電池が切れていたと思われていた、スマートフォンが鳴った。それがなぜなったのか、理由はわからなかった。それすら。

「はい、、、。」

力なく、電話を取る。

「澤村さんですか?あの、富士中央図書館の小宮です。」

ああ、ハチ公さんか。なんでこんな時に電話なんかよこしてくるんだろう?

「なんなのよ、あんた。」

思わずそう言ってしまった。

「あ、ああ、ごめんなさい。もしかして、バイオリンのレッスンでもされていたんですか?そうですよね、禎子さんは、バイオリニストですものね。もし、それなら、また別の機会に、、、。」

「待って!」

ハチ公の誠実さに、禎子は、そんな言葉が出てしまう。もう、さんざんダメな奴と言われ続けたときに、自分の肩書をいってくれるなんて、うれしいというか、なんというか、、、。

「ごめんなさい。なんか落ち込んじゃって、思わず声を上げてしまったわ。要件は何?」

「あ、はい。あの、澤村さんが取り寄せを依頼していた、和裁上級書、取り寄せできましたよ。近いうちに、取りに来ていただけないでしょうか?」

そうか、そういえば、次は袷の着物を作るんだと言って、参考書として、図書館に本をお願いしたのだった。そうか、そんなことしていたっけ。でも、その着物を縫うための対象物は、もう、とられてしまっている。

「あの、禎子さん?どうしたんですか?急に黙り込んでしまって、、、。」

「もういらないわ。ほかの人に借りるように言って。」

「そんなこと言わないでくださいよ。一度予約をした本はキャンセルはできません。それに、取り寄せたんですから、必ず、借りてくださらないと、僕たち図書館も、法に触れちゃうじゃないですか。」

そうか、何でも法律で縛り付けるのね。法律なんてなければいいのに。法律で、人の赤ちゃんを取り上げることもできるようになっているのね、日本は。

「禎子さん、本当に取りにきてくださいよ?取りに来ないと、こっちも、ルールを破ったことになりますよ!」

「わかってるわ!もう、そんなこと言わないで頂戴!」

ハチ公の言い方に、禎子は怒ってしまった。

「禎子さん。どうしたんですか?そんなにやけくそになって、、、。何かあったんでしょうか?もし、何かあったら、図書館に来てくれますか?もしかしたら、やけくそになった理由を、鎮めてくれる本があるかもしれない。僕は、学校へ行けない子たちにそういっているんです。変な人の物まねではないですよ。もしかしたら、本のほうが、最近の学校で教えてくれないことを語りかけてくれるかもしれないって、僕は本気で思っているのです。」

ハチ公は、図書館の職員らしく、一生懸命禎子を励ましている。それは、もしかしたら、人にとっては、いい励ましになるかもしれないが、今の禎子には、何も役に立たなかった。

「そうね。その本を書いた偉い人たちは、勝手に他人の子をとっていいと、言っているのね。なんだか、、、。」

思わずほろっと涙がこぼれて、そんな言葉を言ってしまった。なんでだろう。なぜかそういうことを言ってしまったのである。それはなぜかわからないけれど、そう出してしまったのである。

「どうしたんですか?禎子さん。何か、ありましたか?」

「聞かなくていいわ。もう、あなたみたいな人にはわからないでしょうから。」

そこで、ああ、そうですかと電話を切ってくれればと思った。あるいは、僕が一生懸命答えを出しているのに、なんでそんな反応をするですかとか、そういう反応でもよかった。彼の反応は予想以上につらくて、厳しいものだったからである。

「いいえ、わかりますよ。赤ちゃん、盗られちゃったんでしょう?社会福祉局に、、、。」

図星だ。

「まあ、最近虐待事件が非常に流行っていますから、それを予防するために、法律が厳しくなったと聞いてますし。それを阻止するために福祉局が非常に活発になっているんですよね。本当に、殺し方が残酷になってますもの。それでは、ああして福祉局が子供に対して敏感になって、早めに引き離してくれるほうがいいのかもしれませんよ。小児科も、ちょっと変だなと思われる子供を見つけたら、すぐに福祉局に電話するようにって、うるさく言われているみたいですし。」

そうか、そういう背景があったのか。子供なんて相手にしたことがないから、まったく知らなかった。

そんな法改正。

「でも、私は、子どもにたいして暴行したわけでもないし、ミルクだって十分に上げていたし、着物の作り方も、杉ちゃんに教えてもらったりして、一生懸命お母さんになろうと頑張ってたのに。」

「禎子さん、遅すぎたんですよ。それでは。赤ちゃん作るなら、ちゃんと色んなこと準備してからやらないと。生まれてからどうのこうのでは遅すぎるんです。それを、しなかったから、福祉局が出てきたんでしょ。」

「何よ!あたしが、何も自覚がなかったっていうの!その理由だけで、太を持っていくの!」

「そうですよと言ったら、ちょっときついことを言うかもしれないですが、でも、答えは一つしかありません。その通りですよ。それは、子どもが不幸にならないためという、福祉局の言い分も理解できます。だって、今は、昔とは違います。昔は、親がいなくても子は育つというか、誰か代理人がいましたけれども、今はそうじゃないでしょ。個人個人で分断されて、一つの家庭で凝り固まったている時代ですよ。だから、少しでも欠損がある大人は子供を作っちゃいけないんです。そうなると、子どもは決して幸せな人生を送ることはできません。そうならないために、福祉局というものがあるんです。そういうものなんですよ。だから、もし、本当に母親になりたかったら、ちゃんと父親がいて、十分なお金があって、十分な食べ物があって、十分な教養とか知識があって、そういう人じゃないと、できません。でないと、子どものほうが壊れてしまいますよ。」

「どういう意味?」

禎子は、そう説教をしているようにしゃべっている、ハチ公の言葉が気にくわなかった。どうしてそういうことばかり強調されてしまうんだろう?それが一つでもかけていたら、親にはなってはいけないなんて、誰が作った法律なんだろう。それでは、私は、今までのキャリアを捨てて、母親になるっていうことは、そんなに悪いことなのだろうか?

「だから、禎子さんのような人は、親には向かないってことなんですよ。もちろん善とか悪とか、そういうことをつけてはいけないというのは、わかってますよ。でも、世の中には、向き不向きというものはあるんです。禎子さんのような人は不向きなんですよ。だって、よく聞くでしょう?有名人の子供が、覚せい剤とか、そういう者で捕まる話。そういう風になってしまうんです。きっと禎子さんだって、今はよいのかもしれないけれど、いずれは、子供さんが煩わしくなって、放置したりするようになるんじゃないですか?今は、お金があっても、いずれは稼がないといけないし、音楽という仕事は、意外に収入には結びつきにくいじゃないですか。禎子さんは、もともと激しやすい性格なんですから、きっと当たり散らされた子供も、余計に怖がって、心の傷は大きくなりますよ。そうなったら、どうなるか。わかりますか?そういう人間は、この時代を生き抜くことはできません。刑務所か、精神病院しか居場所がなくなるんです。それではかわいそうでしょう?そうならないために、親のほうから身を引くこと、も大切なんですよ。」

一生懸命、説得してくれるハチ公であるが、禎子はどうしてもハチ公の説得を受け入れることはできなかった。

「ハチ公さん。そう説得してくれるのはわかるけど、どうして、そういうことがわかるの?あなたは。」

思わずハチ公にいってみる。

「僕がその被害者だからです。僕は、母親からあまり十分な愛情を受けていませんでした。愛情が欲しかったあまりに、変なやり方で愛情を求めてしまって、それで精神がおかしくなって、何十年も入院生活を強いられてきたんです。それでは、いけない。そんな人間を、相手にしてくれる人なんてどこにもいませんよ。あるのは、偏見と侮蔑だけだ。だから、それでは、いけないんです。そういう人間は、作ってはいけないんです。存在してはいけない。だから、そういう人間を作らないために、あなたと、子供さんを引き離そうと福祉局は思ったんでしょう。それだって、子どもへの愛情じゃありませんか。それでいいと思って、あきらめてください。そして、二度と同じ失敗を繰り返さないように、務めてください。」

静かに語るハチ公の言葉に嘘はないとおもった。でもどこか納得できなかった。

「いいじゃありませんか。被害者と加害者という関係になってしまうけど、社会から排除されるべき行為をしたのは同じです。また図書館に来てください。それで、いつまでも、悲しんでいないで、よく反省して、毎日をしっかり生きるように頑張ってくださいね。」

ある意味ハチ公の意見は正しかった。自分にはそうするしかできないんだなということも、彼の話で、何となくわかった。そういう人は世の中に対して否定的というけれど、まさしくそうなんだと思う。

「ありがとう。じゃあ、また本は取りに行きます。それでは、今日はこれで。いいお話を聞かせていただき、ありがとうございました。」

「はい。役に立てれば光栄です。」

静かに電話は切れたのであった。

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