終章
終章
二、三日たったある日のこと。
禎子は、ほとんど動けないで、布団で泣きはらす日々を過ごしていた。もう、命よりも大事なものを、公共福祉に取られてしまったのなら、自殺してもいいのではないか、そんなことも考えていた。
その日、お風呂の洗剤を飲んで自殺しようと思った。でも、ただ自殺というだけではもったいない。この際だから、ちゃんと理由を書いておきたい。しかもワープロではなく直筆で。そのほうがより、社会への訴えも増すだろう。
禎子は、レポート用紙とボールペンを出して、遺書を書き始めた。
するとその時。
「おーい、いるかい?」
インターフォンがなった。この大事な時に誰だろう?もう出る気になれず、無視をすることにした。
「いるんだろ?ドアが開いているぞ。まさかドアを開けっぱなしのまま、外出してしまうことはないよな?」
そうか、あの福祉局がきた後から、ずっとドアを施錠するのを忘れていたよなあ。
「杉ちゃん、後で出直そうか。」
別の男性の声も聞こえてきて、禎子はハッとした。
「ど、どうして、、、。」
「お、声がしたぞ。じゃあいるんだな。それなら居留守なんかする必要もないじゃないか。入らせてもらうぞ。」
と言ってどんどん入ってきたのは、間違いなく杉三であった。それに続いてお邪魔しますと言って、水穂も入ってきた。
「あ、突然きてすみませんでした。こいつがどうしても、禎子さんの赤ちゃん見たいっていうもんだから。」
と言って、杉三は、水穂を指さした。
「何言ってるの。今日は咳き込まないようだから、禎子さんのところに行ってこようぜ、なんて言い出したのは杉ちゃんでしょ。」
確かに、今日は、冬らしくなく、比較的暖かい日でもあったから、今日は咳き込むこともないのだろう。
「調子がいいときは、こうして立って歩かせたほうがいいのよ。布団に寝てばっかりいると、体も鈍っちゃうから。寝ているより、立っていたほうが、いいってときもあるわな。」
そういうことか。でも、水穂本人からしてみれば不思議な気持ちだった。先日、診察にやってきた影浦先生が、もう、好きにさせてやれ、と、恵子さんに言っていたのを、丸聞こえで聞いてしまったからである。杉三ときたら、好きにさせろということは、どこかへ連れ出してもいいんだな、よかったぜ、なんてでかい声で大喜びしていたが、それはむしろ逆のことを意味しているということは、誰でもわかった。
「で、太君はどうしている?姿が見えないけど。」
杉三がふいにそんなことを言い出した。禎子はドキッとする。杉三の目が、部屋の中を観察しているのが、見て取れた。杉ちゃん、そんな注意深く観察しなくてもいいじゃない、と言おうとしたその瞬間、
「盗られたの?」
と、杉三が言った。
「盗られた、という言い方はちょっとふさわしくないのかもしれないけど、、、。」
水穂はそう訂正するが、
「そんなこと言わなくていい。盗られたものは盗られたんだからな。前々から、福祉局にマークされてて、それで、どうのこうのとか難癖付けられて、結局盗られたな。」
杉三がまたいった。そういう言い方をしてくれたほうが、もしかしていいのかもしれない。そのほうが禎子の心情に合っているかもしれなかった。
「そうよ。連れていかれちゃった。今の社会って、ちゃんと初めからしっかり準備しておかないと、何もさせてくれないのね。結局、あたしは、人生失敗しちゃったのかな。新しいスタートが切れたと思ったんだけど、もう、遅すぎたっていうか。先日、あのハチ公さんにもそういわれたの。不幸な子どもを作らないために、福祉局というものが働いてくれるんだってね。」
「そうですね。事実上言えばそうなんですけど、それが、果たして個人の幸せに結びつくかというと、そうはいかないんでしょうね。個人的な幸せは、どうしても得にくいのかな。日本社会は個人的にどうのではなくて、どうしても全体の幸せってほうに、持って行ってしまうので。」
禎子は、やっと、今までのことを素直に話すと、水穂もそういった。それこそ、日本社会の一番大きな欠点なのかもしれなかった。それがいいのかまずいのか、明確な視点が全くなく、両者どちらも互いの良いところを主張しあって、けんかしているのが、今の社会と言える。
「だから、もう、ダメかなあと思って、もうこの世とおさらばしようと思ってたの。あたしは、生きてる価値がなかったんだなあって。」
禎子は、そう結論を出したつもりであったが、
「それはいかんな。生まれたからには生きてやるって気持ちでいかなくちゃ。」
と、杉三は、否定した。
「いくらなんでも、それを捨ててしまうってことだけはやってはいかんのだ。人間だもん。そこだけは間違えてはいけないよ。この水穂さんだって、何回もそう思ったでしょうけど、そのたびにたたかれて、一生懸命頑張ろうと考え直してるんだからな。それだけはやってはいかん。」
「すごいわねえ、杉ちゃんは。でも、私はちょっとできないかなあ、、、。」
「できないじゃなくて、できるようにするのが人間というもんだけどなあ、、、。よし、具体的に考えよう。どうして、太君を盗られたのか、その理由を考えようぜ。」
「必要あれば、紙に書いたほうがいいかもね。」
「おう。ちょっと座らせてもらおうぜ。」
杉三たちは、そう言ってテーブルに座ってしまった。禎子は、お茶を出そうと思ったが、あいにくお茶の葉が切れていたので、仕方なく白湯を二人に出した。
「まず福祉局の人たちは、何をしろと君に言っていたの?」
「え、ええ。まず、ベビーベッドとか、そういう必要なものを何も用意していないことを指摘されて。私は、まだ注文して届いていないって、ちゃんと言ったのに。それでは、いけないのね。ちょうど制作していた会社がね、九州のほうにあったんですって。それで、発送が遅れているらしいのよ。」
「九州?」
「そうか、一月の頭くらいに、大きな地震があったと聞いたよ。さほど被害があったわけではなさそうだが、道路が分断されたとかなんとか、ニュースでそういってましたね。」
確かに水穂が言った通り、九州地方は今大変なことになっているらしい。大津波があったというわけではないので、それはまだ安全なのであるが、あちらこちらで、大地震の被害が出ているのだろう。
「なるほど。通販は便利なところもあるが、いざ、何かあると、そういう風になっちゃうのね。じゃあ、もうそこはいい加減にあきらめろ。僕、幸いなことに、木で何でも作ってくれる家具屋さんを知っている。望月家具、だったかな。そこで作らせよう。そのほうが、九州から持ってきてもらうよりはるかに速いよ。ほかにも、足りないものがあるんだったら、、、。」
杉三がそう言い出した。私が、さんざん悩んだことを、そうやってすぐに解決できてしまうとは。禎子は少し驚いた。
「それに、このアパートも、子どもを住まわせるには適さないって。子供ようのスペースを確保できないからって、さんざん福祉局の人たち、言っていたわ。」
「あそう。それじゃあ、丸吉不動産でも行くかい?あそこのおじさんは、とっても優しくて親切だから、ちゃんと、注文通りの部屋を見つけてくれるし、変に契約を押し付けることもしないよ。そして、引っ越し屋は、大手よりも、いいところがあるんだよ。親子二代でやっている運送会社だが、すごく丁寧に運んでくれることで有名なんだ。名前はえーと、」
「泉運送、だったと思うよ。杉ちゃん。」
杉三の話に、水穂もつけ加える。
禎子は、何かきょとんとして、二人の話を聞いていた。
「このあたりは、まだ、そういう会社のほうが強いんです。以外に口コミサイトに載っていない企業のほうが、評判がよかったりすることも、珍しくありません。」
つまり、それだけ、田舎ということか。インターネットよりも、誰かに聞いたほうが、早いよということである。
「そう。君が間違えたのは、一人で全部やろうと思って、一人で何でも解決しようとしたところだ。そんなことしたら、必ずどこかで間違えるわな。それよりも、誰かに聞くとかが一番確実だよね。そこをしっかり改めれば、今回のことは解決する。それくらい単純な間違いだ。すぐに改められるよ。」
杉三は、からからとわらった。
「杉ちゃん。」
ふいに禎子は何か、を感じ取った。ちゃんと、自分の間違いを改めようと思った。
「あたし、ほら、周りに身寄りもないでしょ?だから、何でもインターネットで済ませてたんだけど、それではいけなかったのかしら?」
「まあ確かに、インターネットは何でもそろうように見えるけど、時と場によるのではないでしょうか。結果だけわかっても、そこへ至るまでが公開されていないこともありますよね。」
水穂は、考え込むように言った。
「あ、ああ、あんなの、こういう時には何も役には立たんよ。ちゃんと昔からある企業のほうが、こういうときはちゃんとやってくれるよ。特に、家族が増えたときとか、そういう人生の節目の時はね。」
それを打ち消すように杉三が言う。禎子は、対策をどうしたらいいかは思いつかなかった。
「じゃあ、対策としてこうしよう。まず、ベビーベッドとか、そういう家具類は、望月家具で作ってもらうこと。そして、アパートを、子供さんの住みやすいところに速球に変えること。こっちのほうが先かな。えーと今日は平日だから、丸吉さんもやっているだろうし、ここからさほど遠いところでもなさそうだから、行ってみようか。」
「丸吉不動産ね。」
二人の言葉に、禎子は従ってみることに決めた。とにかく今まで自分は何も知らなかったのだ。それなら知っている人に任せるのも、よいことかもしれない。なんでも自分でやれという時代ではあるけれど、こういうときはまた別なのかもしれない。知らないのなら、知っている人に聞くしかない。
「わかったわ。私、杉ちゃんの言うとおりにしてみるわ。そのほうが、いいのかもしれないもんね。」
「そうだよ。禎子さん、今回だって、太君を盗られてしまったなんて、泣いている暇はないぜ。もし、それが嫌なら、どうやったら一緒に暮らせるか、考えな。福祉局の人が変なあら捜しして行くんだったらよ、次に来たときは、悪いところは直しました、と言ってやれ。本気で、育てたいというところを見せてやらなきゃだめだ。口で言うだけではやつらは信用してくれないから、態度で見せてやることが、一番のコツよ。」
杉三が、そういってくれたのが、本当に素晴らしい励ましだった。そうやって、具体的にこうしろああしろと指示を出してくれるのが、一番の強い味方なのだろう。
「とにかく、足りないものは、すべて調達するんだな。今は、太君を盗られてしまって、悔しいと泣いている時ではなく、調達する時だと思え。その際に、インターネットに頼ってはだめだ。ちゃんと建っている店で、ちゃんと店長と言葉交わして、しっかり買ってくる事。これを間違えてはいけないよ。しかし、禎子さんの間違いはそれだけで、そこさえ克服できれば、何とかなると思うから、今度こそちゃんとやってみろ。」
「そして、可能であれば、自ら福祉局に行ったほうがいいですね。そうしたほうが、やる気があるんだってはっきり態度で示せますしね。」
水穂も、それに参戦してくれたが、水穂には別の感情があった。でも、それは、口に出して言うことはできなかった。
「わかったわ、ありがとう。杉ちゃん。じゃあ、私、支度してくるから、すぐに決行しましょう。」
女は一度決断すると強くなれる。変な理屈に凝り固まらず、感情で動いていける。基本的に、それを恥とする人が多いが、こういう時は、女の強さというものは役に立つのかもしれなかった。
数分後、禎子は杉三たちと連れ立って、丸吉不動産まで歩いて行った。
さらにその数日後のことである。
「どうしたの?蘭。そんなに落ち込んじゃって。」
郵便物を眺めながら、蘭は大きなため息をついた。アリスが心配そうに彼に言った。
「引っ越し、するんだってさ。」
「誰が?」
「禎子さん。」
アリスはそれでやっと澤村禎子が、今のアパートから、別の場所に引っ越すんだなということを理解した。
「どこへ行くのよ。富士市内?それとも、富士宮とかそういうところ?」
「いや、福祉局に一度目をつけられていて、そこへ何回か通わなきゃいけないから、市役所の近くある、マンションに住むそうだ。なんとも、福祉局と子育てについて話し合わなきゃいけないらしい。」
「あーそうか。最近、福祉局は、うるさくなっているもんね。ちょっとでも、欠損があるとすぐに子供がどうのこうのってうるさく言うしね。でも、そういわれて親御さんたちは、いい気持ちするかはわからないわ。もしかしたら、変な扱いされて、悲しむ人も少なくないでしょうね。」
アリスは、ちょっと感慨深く言った。
「まあねえ。日本は少子化だし、それで、かなりガタが来ているから、せめて将来を担ってくれる子どもには健康でいてもらいたいから、そうやって福祉が手を出してくるのよ。昔だったら、多少事情がある親子でも、周りの人が助けてくれたんだけど、今はそれもないしね。ほら、蘭も覚えてない?隣のおばさんが助けてくれたりとか、今、ぜんぜんないでしょうに。」
「確かにそうだ、それに育っていくにつれて、子どもが健康に育っていくのも難しくなっている。育っていく過程で傷ついて、働けなくなって、何もできなくなっていく子供が多すぎる。それではいけないということで、福祉局がてを出してもいいことになったのかあ。なんかちょっと意味が違うのでは?」
蘭は、腕組みをしてそう言ったが、
「いや、違う!それじゃないんだ。市役所はここから遠いだろ。製鉄所からも遠いじゃないか。それではだめということじゃないか!」
と言い直した。つまり、秘密の計画第二弾は、失敗に終わったのである。
「ちなみに、禎子さんはこれからどうしていくつもりなのかしらね。ほら、何か収入がなければ、子どもは育てられないでしょ。それはどうするつもりなんだろう、、、?」
アリスはそこが心配だったが、
「うん、太君を、そばに置いておきたいので、暫くは新しいマンションで、バイオリンの個人レッスンをして、時に、杉ちゃんに教えてもらった手芸をして、お小遣い稼ぎしたりするんだってさ。ほら、今、よくあるじゃないか。メルカリ、だったっけ?自分の作ったものをスマートフォンで販売するやつ。」
と、蘭は答えた。確かに、メルカリを使って自分の作った半襟などを売り買いする人は多い。最近は、質問などにお金をかけて、売買するアプリも登場しており、収入を得るうえで、かなりの割合を占めている人もいる。
「そうかあ、まあつつましい生活かもしれないけど、子供がいると世界観も変わるしね、それに禎子さんは、意思の強い人だから、すぐにやっていけるわよ。」
アリスにしてみれば、おめでたいことだ。同じ女性として、思いっきりやってもらいたかった。だが、蘭は、がっかりとしている。
「どうしたの蘭。何をそんなに落ち込んでいるの?」
「いや、何でも無いけどさ、、、。」
蘭は、秘密の計画が失敗したなんて、アリスにはとても言えないなと思った。同時に、その太君と名付けてしまった赤ちゃんをちょっと恨めしくおもった。もし、彼さえいなければ、澤村禎子が水穂のほうを向いてくれたかもしれないじゃないか!
もしかしたら、澤村禎子の腹の子を、一番ねたんでいたのは蘭だったかもしれない。
一方。
吉原駅では、今日も今西由紀子が勤務していた。
時折、吉原駅で、バイオリンのケースを持った、中年の女性が、電車を乗り降りするのが見えた。そのケースが革のにおいを放つので、かなりの高級品であることは間違いなかった。きっと、音楽大学で、優秀な分野を専攻していた、という色がかなりわかる女性だった。
でも、彼女は、どこか落ち込んでいて、何となく覇気がなかった。
駅員であるから、あえて彼女に声をかけることはしなかったが、その女性は、大変な美女で、その黒く長い髪が、特徴的であり、風になびかせて歩くと、同じ女性の由紀子としても、うらやましくなるほどだった。
こういう女性であれば、蘭さんが、もしかして水穂さんとくっつけようとするのではないか、と、ふいにそんな考えが頭をよぎった。蘭さん、もうあんな危険な作戦はやめてくれませんか!由紀子は、あたまの中で、そう抗議した。
でもある時、その女性が、大喜びしているのを隠せない顔をして、電車を降りて来た。手にはバイオリンのケースではなく、白い布に包まった、なにか、を抱えている。
その何かを見るたびに、近くのベンチに座っていたおばあさんが、彼女を見て、あら、赤ちゃん帰ってきたのね、よかったじゃない。これからはずっと一緒にいてやって頂戴よ、なんておせっかいをしている。これはおせっかいというよりも、注意点だろう。もしかしたら彼女は、バイオリンの仕事に絡みすぎて、ネグレクトをしていたのを、福祉局に叱られてしまったのだな、なんて由紀子は想像した。
もちろん、そういわれている彼女自身も、それはそれは嬉しそうだった。おばあさんに、ずっと一緒にいてやってと言われたときは、ええ、もちろんです。もう二度と福祉局のお世話になることは絶対にしません、なんて、選手宣誓するように、喜びを表している。
二度と、福祉局のお世話になることは絶対にしない。それを必ず遵守してくださいよ。と由紀子は彼女にそういいたかったが、駅員故に、いうことはできなかった。
でも、その様な状態では、水穂さんに近づいてくる必要もないかな、なんて思い直して、由紀子は安堵し、ため息をついた。
ちょうどその時、電車がやってくる時間になったことを思い出し、駅員帽をかぶりなおして、停車用の旗を持った。
「まもなく、岳南江尾行きが、二両編成で到着いたします。危ないですから、黄色い点字ブロックの内側まで下がってお待ちください。」
いつも通りの挨拶をすると、岳南江尾行きの電車が、でかい音を立ててやってきて、全員の前に停車した。
その母親は、隣の席のおばあさんとおしゃべりをしながら、電車に乗り込んでいった。たぶんこれでいいだろう。彼がいてやってくれたほうが、水穂さんには近づいてこなくなるんだ、なんて由紀子は考えながら、発車ベルと一緒に電車を見送った。
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