第八章

第八章

それから、一週間ほどたった、ある日のことである。穏やかな冬の午後で、その日はさすがに冷たい風が吹くことはなかった。製鉄所では、いつも通りに、製鉄が稼働しているが、ちょっと変な出来事もあったことがわかる空気になっていた。

「水穂さん、ちょっと起きてくれませんかね。さっき寝たばかりだから、大変なのはわかりますが、ちょっと起きてほしいんですよ。」

ブッチャーは、眠っている水穂の肩をゆすぶった。水穂にしてみたら、いい迷惑になるにちがいなかった。つい先ほどまで、激しくせき込んでいて、やっと薬で眠ったばかりである。そこをいきなり起こされたわけだから、頭はぼんやりして、返答も思いつかなくて、暫くぼんやりとしていた。枕元には、いくつかチリ紙が置かれていたが、その一部には赤いものが付着しているものがある。その近くには、吸い飲みが置かれていた。例の白い粉を、水で溶かしたものだ。

「一体どうしたんです?何かあったんですか?」

やっとそれだけ口にすると、

「禎子さんが見えたんですよ。ほら、あの澤村禎子さんです。なんでも、赤ちゃんが生まれたから、見てやってくれないかって、言うんです。ほんのちょっとでかまいませんから、起きていただけないでしょうか!」

ブッチャーにそういわれて、やっと、同級生の澤村禎子が、赤ちゃんを連れて来訪したのだということは理解できた。

でも、それ以上にだるかった。そんな応答なんてできる気がしなかった。

「ごめんなさい、今日はできません。もうかったるくて、起き上がれない。また来てくれと伝えてください。」

水穂はそう言って断ったが、

「何を言ってるんですか。水穂さん、いわせてもらいますが、次に、赤ちゃん見せてもらえるのは、いつになるか、わからないでしょ。いま、断らないほうがいいんじゃありませんか?」

ブッチャーは、そう諭すように言った。確かに言われてみればそうだ。もう体が後どれ位持つのか、自分でも、予測はできていた。そうなったら、もう、赤ちゃんを見させてもらうことは、二度とできないのかもしれなかった。

「そうですね。すみません。ほんの短時間になってしまいますけれども、それでも良ければお通ししてください。」

「わかりました。じゃあ、お通します。」

ブッチャーは、静かにそう言って、玄関先へ戻っていった。水穂も、よいしょ、と、分銅みたいに重い体を何とか動かして、布団の上に座った。それだけでも、かなり苦労するようになった。普段であれば、立つこともできるが、時折、こうして、体の重さのせいで、立ち上がれない時もあった。六貫という数字は、まさしく軽くて重い数字だった。質量的には軽いのだが、同時に体を動かすための体力もないということも示しているからだ。

「さあ、禎子さんどうぞ。こちらにお入りください。」

「こんにちは。今日は、暖かくていい日ですね。」

ブッチャーの案内と一緒に、澤村禎子が部屋の中に入ってきた。両手には、白い布に包まれた小さな赤ちゃんを抱えていた。

「一週間前に生まれたのよ。見て。男の子。」

禎子は、布団のそばに正座して座った。

「あ、えーと、そうですか、、、。おめでとうございます。」

とりあえず、そう言って座礼するが、重たい体はうまく座礼の形を作ってくれなかった。座礼して、体を前に倒したら、後へ戻すのは本当に大変だ。ブッチャーが、転倒しないように、水穂の肩を支えた。

「名前は、蘭さんに付けてもらったの。あの人なら、それなりに知識もあるようだしね。澤村太。単に太いという字を書いただけだけどね。」

もしかしたら、笑われるかもしれないと、禎子は身構えた。

「いや、いいんじゃないですか?かえって、そういう単純素朴なほうが、いいのかもしれませんよ。今は変なキラキラネームが流行っていて、かえって虐待ではないかと思われる気もしてしまいますし。それより、よほどよいと思います。」

水穂は、軽く笑ってそう言ってくれた。

「まあ、水穂さんもそういうこと言うの?よかったわ。同じこと言ってくれて。蘭さんたちもそういうことを言ってこの子の名前をくれたのよ。」

なるほど、太君か、なかなかいい名前じゃないか。それにしても、生まれたばかりの赤ちゃんは可愛いな、、、。

ブッチャーは、それを聞いて、有名人の寺尾聰と同じとしか説明ができない自分の名を、親たちはどうやって付けたのだろうかと疑問に思った。いつも説明に一苦労するので、もうこの際だからあだ名のブッチャーで統一してもらいたい、と思ったことは何度でもある。

「ちょっと待ってください。俺、心配なことがあるんです。こんなこと言って失礼かもしれませんが、なにも太っていませんね。赤ちゃんって、ムチムチに太っていて当たり前だけど?」

確かに、新生児室などで普通に見られる赤ちゃんは、頭が大きくて、腹がぽこんと突き出ていることが多いし、手や足もむっちり太っていて、それで当たり前になっている。

余計なことを聞いてしまったか、と思ってしまったブッチャーだったが、禎子はにこやかに笑って、こう説明した。

「ええ、ここだけは、あたしが申し訳ないことしちゃったと思ってるわ。だって、あたし、本当に悪いことしちゃったの。ほら、予定日も何にもちゃんと管理していなかったでしょ?それすらちゃんと把握していなかったせいで、気が付いたら、胎盤の機能もかなり落ちていて、ちゃんと栄養が届かないで生まれてきちゃったらしい。なんでも、永続的に活動していくことはできなくて、いつかは衰えていくもんなんですってね。それに私、全く気が付かなかった。こういうのを専門用語で胎盤機能不全症候群というんだって。初めて知ったわ。」

「そうですか。でもよかったじゃないですか。無事に生まれてきてくれたわけですから。彼に感謝しなきゃいけないと思います。」

禎子の説明に、ブッチャーはへたくそな言い方で返答した。本当はこういうときに、もっとかっこいい、言い方があるんだろうなと思ったが、それはブッチャーには思いつかなかった。

「そうですよ。ブッチャーさんの言う通り、生まれた赤ちゃんはどんな姿をしていても、可愛いと思わないと。」

ありがとう、水穂さん、俺の代わりにかっこいいセリフを言ってくれまして!と、ブッチャーは頭の中で礼を言う。

「それじゃあ、お願いなんだけど、お二人にこの子を抱いてもらえないかしら。私だけでなくて、早く他人に慣れさせなければダメだって、アリスさんたちが言ってたから。」

ふいに、禎子はそう言い始めた。

「え!俺ですか!」

ブッチャーは、俺にそんな資格はあるかなあと思ったが、

「当り前じゃないの。できるだけ、そうしたほうがいいのよ。ブッチャーさんは、力持ちのようだし、子どもを持ち上げるなんて平気でしょ?」

と、言われてしまった。あまりにもさっぱりと、、、。

「それならですね。俺じゃなくてですね、水穂さんに抱かせてあげてくれませんかね。俺じゃなくて、水穂さんのほうが、絶対ふさわしいと思うんです。」

美男子だからというわけではない。ブッチャーはそうさせてやりたかったのだった。

「じゃあ、お願いしようかな。」

禎子から、赤ちゃん、つまり太君がそっと差し出される。水穂は、そっと受け取った。確かに近くで見ると、太君は、顔中しわしわであり、赤ちゃんというより、老人をミニチュア化したような感じだった。でも、その痩せぶりから、一生懸命生きようとしているのかなということも感じられた。

「本当はね。生まれるまでは、赤ちゃんなんて嫌だ!なんてわがままを言っていたのよ。でも、産んだときは、もうこれ以上の苦しさはなかったんじゃないかというくらい辛かったし、生まれた時も、この子すぐ泣かなかったから大騒ぎになっちゃって。でも、無事に泣いてくれたし、その後もミルクだって規定量をちゃんと飲んでくれて、意外と大食いだって言われたくらいよ。だから、一生懸命頑張っているなってわかったから、あたし、ちゃんと責任もって育てていくことに決めたの。」

「そうですか、、、。」

水穂は、そういわれて呆然としてしまった。

「もう、そんなわがままは二度としないって誓ったわ。暫く小児科に通い詰めることになるけど、がんばって普通の子並みに、体力が付くように育てて見せるから。あたし、思ったのよ。生きるって、偉い地位に就くことじゃないわ。それよりも、こうやって、あたしのことを必要としてくれる存在が、一人でもできてくれる方が、よほど幸せよ。」

そうですよ、禎子さん、俺も、姉ちゃんを見てよくわかりました。そういうこと。だから、俺も幸福は、富でも権力でも力でもないって、はっきり口に出して言える人間になりたいと思います。

ブッチャーは、頭の中でそう考えた。

「だからね、右城君。右城君もつらいこと、たくさんあったと思うけど、頑張って頂戴。今は、こうして臥せっているのかもしれないけどさ、いつか、また幸せになれるかもしれないじゃない。あなたは、ほかの人たちから、天才だ天才だって叫ばれて、ずいぶん苦労をしたと思うけど、そう言われてつらい思いをしたことが、いつかは役に立つ場合だってあるわよ。きっと。」

そういってもらえたけれど、答えはすでに知っていた。いくら天才であったとしても、日本にいる限り、花はつかめない。つかもうとすれば、必ず誰かが邪魔をして、拷問してそれを奪ってしまう。幸せになれるなんて、それは文字通り、この世を去るしか方法はないだろう。でも、禎子さんに、それを言っても、通用するはずはないだろうから、水穂はそれを口にすることはできなかった。

代わりに、魚の骨でも引っかかったような気がして、とっさにそれを出そうとせき込んでしまった。

「わあ、大変だ!しっかりしてくださいよ!なんでまたこのタイミングでこんなことするんですか!」

ブッチャーの手で、すぐに太君を母である禎子さんに戻してもらったのとほぼ同時、水穂は、生臭い液体を吐き出して、布団に倒れ込んでしまった。急いでブッチャーが、背中をなでてくれて、その場限りで収まったが、結句、また畳屋のお世話にならなければいけないことは、明白になった。

「あーあ、もう。こんなおめでたいときにやるもんじゃないんですけどね。もう、疲れちゃったんですかね。」

「ごめんなさい。長居をしすぎたかしら。悪いことしちゃったみたいで、もう帰るわ。」

禎子さんは、太君の顔が汚れていないか確認すると、よいしょと立ち上がった。

そうか、赤ちゃんを産んでしまうと、他人に何となく冷たくなってしまうんだ。それは、母親になったというある種の成長なんだけど、逆に、冷たくなったと見えてしまうことも少なくない。それをブッチャーは、今までの禎子さんのことを考えると、褒めてやるべきことだなと判断し、祝福してやることにした。

「じゃあ、私、帰るから。間が悪いときに来ちゃって、ほんと、ごめんなさい。」

と言って、よそよそしく澤村禎子は帰っていく。もうきっとこっちに来ることはないだろうなと、ブッチャーはそう思いながら、彼女を見送った。ようやく、咳がとまった水穂も、

「頑張って、大きくなってね。」

それだけ言い、ブッチャーに、鎮血の薬を飲ませてもらった。


その次の日、禎子は、アリス達と別れを告げて、自宅へ戻っていった。とりあえず、彼女の体力も回復していたし、太君も、よくミルクを飲んでいるので、やせていても、健康的には問題ないということになった。後は、彼らの助けなしで、禎子が子供を育てられるか、にかかっていた。

自宅に戻ると、確かにベビーベッドも用意していなかったので、テーブルに上に、座布団を敷いて、彼を寝かせ、タオルケットをかけてやった。確かにこれではいけない。布団は、杉ちゃんが縫ってくれたものがあったが、ベビーベッドを置く場所がなかった。少し部屋の模様替えも必要かなとおもった。杉ちゃんの家と違い、何にでも使える空き部屋というものはないので、もしかして、彼が大きくなって部屋が必要になったら、もっと部屋数の多いアパートに、引っ越さなければならないな、とも考えた。

暫く、太はテーブルの上に寝かせておくしかできなかったが、禎子は食事を作る時も、バイオリンの練習をするときも、常に彼のそばにいるようにした。風呂は抱きかかえて一緒に入ったし、寝るときは、自分の布団の隣に、杉ちゃんに縫ってもらった布団を敷いて、そこへ寝かせた。その生活で問題はなかったが、彼は泣き方が弱く、夜泣きをしても聞き逃してしまうことは多々あっった。禎子は、それを毎回毎回やるたびに、自分を責めてしまった。

もちろん部屋に閉じ込めておくだけではいけないから、時折、彼を抱いて、公園に散歩に出かけた。穏やかで静かで、治安も何も悪くないこの町の公園は、小さな赤ちゃんを連れた母親には、ゆっくりとした時間を提供してくれるようで、最適なのかもしれなかった。公園に来ていたのはほとんどが年寄りで、おう、可愛い赤ちゃんじゃないか、がんばって育ててやれよ。なんて声をかけてくれる、おじいさんやおばあさんも多かった。ある時は、きれいな顔をしたおばあさんが、これ、赤ちゃんに挙げて頂戴、なんて、小さな手編みの靴下をプレゼントしてくれたりしたこともある。きっと彼女は、孫はほしくてもできなかったのでそうするのだ、ということも直感的にわかったので、受け取ることにした。

そういう得をもらえるので、やっぱり赤ちゃんのいる暮らしは、幸せだなと、澤村禎子は感じ取っていた。


でも、ある日のこと。

「発育、ですか?」

太を連れていった小児科で、医師にそんなことを言われてしまった。

「はい。そうなのです。ほとんど栄養がとれておりませんな。なので、普通の赤ちゃんの三分の二程度しか、発育してないのですよ。」

三分の二と言われてもパッとしないが、赤ちゃんにとっては、結構危険な数字でもあった。

「で、でもです。ちゃんとミルクは飲んでます。最近はいくらでも欲しがるほど、旺盛な食欲があります。」

禎子は、そう言い返したが、医者は不思議そうな顔で、禎子をまじまじと見た。

「それはきっと、栄養が不足しているから、いくらでも欲しがるのではありませんかね?澤村さん。そこで満足してはだめですよ。ちゃんと、規定量に達しているかとか、そういうところをちゃんと見なくちゃ。」

規定量って、そんなもの知らない。ただ、ほしがって泣けばあげている。それだけのことである。

「澤村さん。本当に、太君が満足しているかどうか、わかっていますか?粉ミルクだって、安いものを買いためて、適当にくれている、それで、終わりではありませんね。」

「そんなことはありません!あたしはちゃんとしたものをあげているつもりです。」

ますます医師の顔が厳しくなった。

「ちょっと待ってくださいよ!あたしは、そんな育児放棄とかそんなことした覚えはありませんよ!この子が、普通の子とちょっと違うからって、なんでも私のせいにするんですか!そんなの、不公平ではありませんか!」

「澤村さん。そこですよ。そこ。」

ふいにそばにいた、比較的高齢の看護師が、禎子の顔を見た。

「そこ?そこって何ですか!あたしが何か悪いところがあるとでもいいたいの!」

「だからそこですよ。澤村さん。あなた、自分ではほとんどきがついてないと思うけど、その激しやすい性格は、医療関係者の間では、結構知られていたんだから。あたしたちは、心配なのよ。そうやって、すぐがーっとなって、怒るところ。それ、もしかしたら、精神疾患というものなのかもしれないのよ。それに、あなた、赤ちゃんができた時も、ほとんど検査も何もしないで、無名の助産師さんに取り上げてもらったんでしょ?そういう邪見な扱い方をして、赤ちゃんなんて育てられる?そこが心配なのよ。ほら、今、産んでも育てられない人も多いから、私も、心配で、、、。」

看護師は、禎子に向かってそういった。自分のことを言うばかりか、ああして親身になって手伝ってくれた、アリスさんたちのことまで過小評価するなんて、どうしても禎子は許せなかった。

「すぐガッとなって怒る?それは当たり前じゃない!理由がなければ怒ったりなんかしないわ!今そう怒ったのは、あたしが育児放棄した覚えがないのに、育児放棄したと言いふらすからでしょ!あたしだって、一生懸命この子を育てようとしているのに、なぜ一方的にみんな私が悪いんだって、怒鳴り散らすの!」

この時、ふんふん、ぶぶーという声がして、太が泣き始めた。禎子がすぐに気が付き、

「ああ、わかったわ。怖かったね。ハイハイ。もう外へ出ようね。」

にこやかに笑ってそういう禎子だが、医者と看護師は、大丈夫かなという顔をした。

「すみません。今日はこれで帰らせてくれませんか。」

「そうだねえ、まあ、そういうんなら、いいじゃない。それで帰っても。」

医者は、そう言ってくれたけど、看護師は、まだ大丈夫か不安そうな顔をする。

「看護師さん。変なこと言わないでください。あたしは大丈夫ですから。ちゃんと育てて見せますから!」

「そういう言葉を使う人ほど、、、。」

看護師は心配そうに言ったが、

「うるさいわね!」」

禎子は、そう言い返した。この権幕には、看護師も驚いたようで、一瞬たじろいだ。禎子は、すぐに、太を抱き上げて、診察室を出て行ってしまった。

後にのこった医者と、看護師は、顔を見合わせた。

「それでは、もしも何かあったときのために、福祉局に連絡しておこうか。」

「ええ、わかりました。私のほうから電話しておきます。」

看護師は、受付の電話を借りて、何か電話をかけ始めた。

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