第六章

第六章

そして翌日。

ハチ公は、天にも上る気持ちになりながら、でも、それを一生懸命隠して、杉三の家に向かった。

その日はよく晴れた。でも、気温は上がらず寒い日だった。寒い日だからこそ、富士山は美しく見える、と考え直して、道路を歩く。

寒いけど、心の中は、燃えている。自分はそう思い込んでいた。

約束の時間ぴったりに、杉三の家に着くと、禎子はもう玄関先で待っていた。

よし、今日だけ、今日だけ僕が禎子さんのそばにいよう。そう思いながら、ハチ公は禎子に声をかける。

「おはようございます。」

「待ってたわ。じゃあ、行きましょうか。」

二人は、金物屋へ向かって通りを歩き始めた。でも、彼は、通りを歩いていながら、何か話さなければと思うのに、話しかけることが、できないのだった。ああ、昨日、こういうことを話そうかとか、話題を一生懸命考えていたのに、全部忘れている。全く、バカだなあ、自分。と、彼は自身を責めた。

「ハチ公さん。」

ふいに禎子さんにそういわれて、ハッとして足を止め、急いで後ろを振り向く。禎子さんは笑っていた。

「何?どうしたの?そんなに緊張しちゃって、、、。」

禎子は、ハチ公の顔を見て笑っている。

「い、いや、どうしたんですか?何かありましたか?」

緊張して、どもりながらそういうと、

「いえ、ハチ公さん、金物屋さんは、右じゃなくて左へ曲がるのよ。」

一瞬ぽかんとしたが、確かに間違った方向に曲がっていたのに気が付いて、

「あ、ああ、ああ、すみません!」

そう返答したが、顔から冷や汗が出るのを感じる。

「嫌ねえ。こっちよ。早く来て。」

「は、はい!」

禎子さんに言われて、ハチ公は改めて左へ曲がりなおした。そうして暫く道なりに歩いていくと、「伊藤金物店」と書かれた看板が見えてくる。

その看板を、左に曲がると、大きな建物が見えてきた。中には金盥や竹ぼうきなど、日常生活によく使われる金属製品が所せましと置かれていた。

「はい、いらっしゃい。何かお探しですかな?」

店長さんがやってきて、二人に声をかける。

「あの、澤村ですけれども、ロープが入荷したというので取りに来ました。」

「ハイハイ、あの一番太いロープをお願いしたお客さんだね。もちろん入ってますよ。じゃあ、こちらで、確認していただけますでしょうかね?」

と、店長は、二人を店の受付カウンターに案内した。

「えーと、これでいいかな?一番太くて強いのは、これだけど?」

店長さんは、カウンターの上に置かれているロープを二人に見せた。

「一応ね、これはロッククライミングの選手が、練習するときに使うとか、学校で綱引きをするときに使ったりするロープだけど、今時運動会でもあるのかい?」

店長さんは不思議そうな顔をする。確かに、今の季節に、運動会が、開催されることはまずない。なので綱引きとして使うことはまずないだろう。クライミングの選手にはどうしても見えないので。

「いや、私はそうじゃなくて、、、。」

素直に出産に使うのだといえばいいのにと、ハチ公はおもったが、それは言えないのだろうか。禎子さんは、口に出すのが嫌そうであった。

「お父さん、注文の電話。金盥を一つ欲しいって。野中保育園さんから。」

たぶん、奥さんだろう。強そうな中年の女性が、店の中に入ってくる。

「ああ悪いけど、今お客さんと一緒だから、後にするように言ってくれ。」

店長さんは、すぐそう応答するが、

「だけど、すぐほしいみたいよ。お客さんはあたしが相手をするから、お父さんは、ちょっと電話に出て頂戴。」

奥さんは、勝気な声でそういった。何処の家も、今時の家は亭主関白という言葉は死語になっていて、奥さんに勝気な声でそう言われてしまうと、旦那さんはわかったよと言って、すごすご引っ込んでいった。

「ごめんごめん、お客さん。ちょっと大事な注文なので、あたしがうかがうね。えーと、この綱引きようロープを、3メートルほしいんだよね。今切ってあげるから待っててね。」

奥さんは、真っ白なロープを、切ってくれた。

「えーと、ロープ一メートルにつき、1900円だから、3メートルって言うと、5700円ね。もちろん税込よ。」

「ありがとうございます。じゃあ、これでお願いします。」

禎子は、財布から、六千円を出して、奥さんに支払った。

「はい、じゃあ、お品物はこちら。」

と、奥さんは、ロープを紙袋に入れて、禎子に渡そうとしたが、ちょっとためらった。そこで、ハチ公が、ロープを受け取った。

「いいねえ、今は。病院に頼らないでも、赤ちゃん産めるもんね。昔は取り上げ婆っていう人がいて、お家で産んだのが当たり前だったんだから、そうやって、用意するのが当たり前だったんだよ。あたしも、病院を使うというのは苦手だなあ。だから、あたしも、下の子を産んだときは、お産婆さんにお願いしたよ。」

奥さんはちょっとうらやましそうにいった。

「でもあたしは、自宅ではなくて、助産院に行ったんだけどね。まあ、二人そろって、道具買いに来るなんて、ちゃんとしているよ。大体さ、お父さんは、仕事仕事でお母さんが一人で全部、道具を用意する羽目になるもん。」

「まあ、嫌ですわ。」

禎子はここで何か言ってもしょうがないなと思って、何も言わないで置いた。

「でもね、日本人は赤ちゃん産むときは、誰でもロープを引っ張ってやっていたんだから、ながく続いているってことは、それが一番いいんでしょうね。今じゃ誰でも分娩台に寝っ転がってやっているけど、それってどうなんだろうね。誰でも好きなやり方でやればそれでいいにすれば、いいのにね。」

奥さんは、中年のおばさんらしく、そんな話を始めた。

「あたしは、この店に、お嫁に来る前は、富士の中でも結構辺境のほうで暮らしてたんだけどね。何しろ、産婦人科が少ししかないところで、病院まで行くのに、一時間もかかっちゃうところだったのよ。だから、周りのお母さんたちは、お宅で産んじゃうのが当たり前だった。だから、おばあちゃんに、赤ちゃんの着物を作ってもらうとか、お父さんに産み綱を編んでもらうとか、周りの人もやってもらうことはいっぱいあった。上の子たちも、お母さんの世話をするとか、そういう役目があったから、家族全員で、赤ちゃんがやってくるって実感が持てたのよ。だけどねえ、今はそうじゃないでしょう。お母さんは、病院に連れていかれて、ぜんぜん知らんないお医者さんや看護師さんに囲まれるし、お父さんもおばあちゃんも、上の子たちも、外で待たされるだけ。それに規則があって小さい子は中に入れない病院もあるし。それじゃあ、下の子ができてうれしいっていう感情がわかないのも、ある意味しょうがないわよ。そうやって、隔離すればするほど、あまり良いものは出てこないんじゃないの。みんな、安全っていうけど、果たして、本当にそうなのかなあ。あたしは、いろんな人にかかわらせないのが、子どもを育てられなくなる一番の原因だと思うわ。」

そうだなあ。と、ハチ公は思う。たぶん、禎子さんはそうは思っていないかもしれないが、生まれたときから人のいるところにいさせてやることはけっこう大切だ。それも、母がすべての育児をするのではなく、おばあちゃんと分業して行うようにすればいいのではないか。自分の過去を思い出すと、

幼いころ、ハチ公の家は、核家族だった。兄弟もなかった。かれの家族である父も母も、生活費を稼ぐために、一生懸命働いていた。だから、ハチ公は家の中で独りぼっちだった。よく母が仕事から帰ってきて、お帰り!と玄関先へ駆け寄っていくと、母は仕事がうまくいかなかったのだろうか、不機嫌な顔をして、何も言わなかった。時折、アンタのせいよ!と八つ当たりされたことも多い。理由はわからなかったけど、ハチ公は八つ当たりを黙って受けた。本当は、もっと母ににこやかに接してもらいたかったが、それを口にすることはせず、黙っていた。

「生まれたときのことを見せていれば、邪見に子供を扱うこともできなくなるんじゃないかな。そのほうが今は絶対いいよ。だって、子どもが独りぼっちでがらんどうみたいな部屋の中で過ごすなんて、可愛そうよ。」

確かにそうである。ハチ公の少年時代もそうだった。母が働きに行っている間、ハチ公は家で一人で勉強していた。そうすれば母はこっちを向いてくれた。それでいいのだと自分に言い聞かせたが、なぜか、ものすごくさびしかったのを記録している。近隣の人たちは、一人っ子だからいいじゃないとか、いい成績取ってお母さんを助けてやりな、とか、そういう励ましをしてくれたが、年齢を重ねていくにつれて、だんだんに苦しくなった。大人になって、ハチ公は生きるのがつらくなってしまい、精神障碍者の仲間入りをしたのだ。

「だからねえ。生まれたときの感動ってのは、隠すのではなく、見せるべきだと思うのよ。そのほうが絶対にいいわよ。頑張ってね。」

ハチ公は、奥さんのいうことが、みんなに義務付けられるくらい、普及してくれればいいのになあと思った。

でも、男である自分がそんなことを言っても、意味はないことを知っていた。

赤ちゃんを作ってくれるのは、実質的には女でないとできないからである。

「まあ、これしか縁の持てない商売だけど、元気な赤ちゃん、産んでくれることを願っているから。はい、どうぞ、おつりね。」

奥さんは、禎子におつりの三百円を渡した。

「はい。ありがとうございます。」

やっとそれだけ言える禎子。

「じゃあ、気を付けて帰ってね。それでは赤ちゃんによろしく。」

「はい、ありがとうございます。親切にありがとう。」

禎子に代わって、ハチ公は奥さんに挨拶し、禎子にもう帰ろうと促した。

「はあい。また来てね。機会があったら。」

にこやかに挨拶する金物屋の奥さん。二人は彼女に一礼し、丁重に金物屋の中を出ていく。中に売られている商品たちが、武骨な顔で、二人を見送るのだった。

再び、道路へ出ると、

「ちょっとお茶しない?まっすぐ帰る気になれないわ。」

突然禎子さんが言った。この辺りにお茶ができるところなんてあっただろうかと考えるが、そういえば、少し離れたところに、喫茶店があったことを思い出した。

「じゃあ、そうしましょうか。えーと確か一軒あったはずなんです。」

記憶を頼りに、ハチ公は、禎子をその喫茶店のあるほうへ連れていく。ところがたどり着いた店は確かにお茶を飲ませてくれるところなのだが、スターバックスとか、ドトールでもなく、日本茶を販売している、個人経営の店だった。

「あれれ、ここにあったような気がするんですが、、、。」

「いいえ、疲れたから、座れさえすればどこでもいいわ。」

禎子がそういうので、ハチ公はそこへはいることにした。中へ入ると年老いたマスターが、二人を一番奥の席へ招き入れてくれた。そこはエアコンの音も、BGMとして流れてくる箏の音も、変に聞こえてくることがなく静かに会話できそうな場所だった。

「たぶんきっとあのおばさんの言ったことは本当なんだと思うけど。」

マスターが持ってきてくれた日本茶をすすりながら、禎子はそんなことを言い始めた。

「私、そうはならない気がするの。私、感動したとしても忘れてしまうような気がするの。生まれてきた子供だって、そう幸せにしてやれないと思うの。」

そういう彼女は、だんだんに言葉が泣き声に変わってしまったようだ。

「どうしても、子どもが憎たらしいという気持ちが取れないわ。どうしても、今までやってきたことを、全部盗られてしまうような。ほら、もう、弦楽アンサンブルのコンサートミンストレルも解任されちゃったでしょ。もとはといえば、コンクールで五連敗した時から、私はもう、音楽の世界から要らない存在になってしまったのかもしれないわ。だって、負けた後、もうどうしようもなく悔しくてね。どうして、あそこのサロンに登録したのか、私、はっきり記憶してないの。気が付いたらサロンで、バカな人たちの相手して。もちろん、子どもができたらサロンはやめさせられるのは知っていたから、すぐにサロンから脱出したのはよかったのかもしれないけど、、、。そしたら、今度は、子どもに振り回されて生活する羽目になるなんて、、、。」

この話を聞いて、澤村禎子さんの夫は水穂さんではないこと、そして、禎子さんの赤ちゃんの父親が、不詳であることも分かった。つまり、禎子さんは、音楽コンクールで連敗した腹いせに、ピンクサロンのような場所に足を踏み入れてしまったのだろう。もしかしたら、甘いことばに騙されたのかもしれない。たぶんきっと、音楽一筋で生きてきたと思うから、それ以外に収入を得る方法も知らないで来てしまって、困っていたところを、誰か悪い人に騙されたとかそういうことだ。

「私、子どものころから音楽家になろうと決めててね。幼いころからバイオリンの先生にも習ったわ。でも、ほかの子に比べると、経済力もなかったから、バイオリンを通して友達はできなかったの。その代わり、実力をつけて、いろんなコンクールに出て賞をもらって、それで名を挙げてという作戦で生き残ろうと思ったんだけど、ある時期から負けるようになってついに五連敗して。支持者も誰もいなくなって。気がつけば、ピンサロに足を踏み入れた、遊女になってた。そうしてこれでしょ。もう、完全に敗北ね。私、何があっても音楽家になりたかったから、子どもを可愛いと思えないし。いや、思わないで、全部そういうことを否定して生きてきちゃったから、もうできないというべきかしら。」

そんなことを言い続ける禎子を、もし人生順風満帆に生きてきた人だったら、何バカなことを言っている!新しい命ができてくれたのに、文句いうんじゃないよ!と湯気を立てて怒るに違いないのだが、ハチ公は、そのような反論をする気にはならなかった。むしろ、こう言ってやりたかった。

「何となくですけど、その気持ちわかります。僕も、生まれてこないほうがよかったと思ったときはあったけど、それでも、ここでお話することができたから、それで十分です。」

急に澤村禎子の表情が変わった。

「産んでくれたから、禎子さんと会うことができたんです。もう一回言いますが、僕はそれで幸せです。それで十分です。」

「あたしが、、、?まあ、何を言い出すのかしら。」

「はい。何回も言います。僕はそれで十分です。だって、僕にも、きっと子供なんて育てることはできないですよ。僕は、家族に愛されようとおもって、家族へのアピールしかたを間違えてしまいましたし、家族も間違えています。間違った世界にながくいた人間が、正常な子供なんて作れるはずがないでしょう。だから、僕にはできません。だけど、禎子さんとお話してみたいという願いは、無事に叶いました。それで十分です。」

「そんな、、、。あたしは、そんなに偉い人間じゃないわ。勘違いなさらないで。音楽家になろうと思って、それで失敗した女よ。そんな失敗した女に、話ができて十分なんて褒めてもらえる資格はありません。」

禎子は、にこやかに言ったつもりだったが、顔には涙があふれてきているのだった。

「きっとね、禎子さんは、ご自身のことを、ものすごい大失敗をして、生きるに値しないんだと思っていると思いますが、世の中の人たちは、成功した人の話であふれかえっていて、失敗した人の話はまったく聞くことができません。でも、失敗ばかりして、そこから立ち直れないで、暴力的な態度をとるしかできなくて、刑務所や、僕みたいに精神病院とか、そういうところでしか暮らしていけない人たちが大勢いるんです。そういう人たちは、同じ経験者しか信用はしませんよ。偉い人がいくら指示を出したって、あまりの憎しみのあまり、従えないでしょう。そうじゃなくて、経験者と心を縮めて話すこと。これが、一番の薬なんじゃないでしょうか。」

ハチ公は、通じているかどうかわからないが、一生懸命伝えるつもりで禎子に言った。

「例えば、僕は、そういう言葉の代弁として本があると思っているんです。本は、成功例を伝えることはできますが、同時に失敗例も伝えることもできますよ。インターネットにはなかなか成功する話は掲載できませんが、本であればそれはできます。そういうわけで、僕は、図書館というすごいところで働かせてもらっているんだと思うのです。もちろん、そういう本を探しに来た人が、実際に現れたのかはわかりませんが、それを求めてくる人だって、必ずいるだろうなと思って今の仕事をしています。」

禎子は、黙ってよ、と言いたげにテーブルに伏して泣きはらしたが、ハチ公は、話をつづけた。

「いいじゃないですか。誰でも成功できるということは決してありません。でも、失敗のせいで、大事なものまで落としてしまうというわけにはいかないんです。だから、禎子さんは、失敗を語り聞かせて、警告してやることもできますし、慰めてやることだってできます。失敗して、死にたくなった人が、一番欲しいものは、自身の失敗を語ったとき、そうかお前もそうだったのかと笑ってくれるひと、それだけです。肩書も、学歴も、お金もいらないんです!」

「それとなんの関係があるの?私の事。」

禎子が疑い深くそういうと、

「だから、禎子さんはそういう人間になるために生まれたんです。音楽家になるためじゃなくて。そこへ行きつくための、スタートをきったというだけのことですよ。その号砲が、いまそこにいる、赤ちゃんなんじゃないんですか!」

ハチ公は、やっと自分の本音というか、一番言いたいことを言うことができて、力が抜けた。禎子はまだ、テーブルに突っ伏していたが、その背をハチ公はそっと撫でてやった。同時に、ハチ公の言葉を肯定するかのように、禎子の腹の中からかすかに蹴られた。

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