第五章

第五章

今日も又、小宮大八ことハチ公は図書館で業務を続けていた。ほかの女性司書たちは、ハチ公が今日は元気なので、何か悪いことが起こるのではないかと、うわさしあっていた。

ハチ公と呼ばれるゆえに、誰か厳格な主人でもいるのかと思ったが、そのようなことは全くない。ただ、待っている人はいた。西図書館から取り寄せた和裁入門の本を常に手元に置いて、ハチ公は、その人が来るのを、昼飯も食べないで待っていたのだった。

お昼が過ぎて、そろそろ三時のおやつの時間かなあと思われたその時、靴の音ではない独特の音が聞こえてきたので、ハチ公はハッとする。ついに来たか、と身構えた。

予想した通り、澤村禎子が、膨れた腹を抱えながらやってきた。そのアンバランスな膨らみ方は、歩くのも一苦労しそうだ。

「あ、澤村禎子さん。」

こんにちは、の挨拶をするのも忘れて、ハチ公は、そう口にした。

「こんにちは。澤村です。この間予約した、和裁入門が入ったと聞いたから、取りに来ました。」

と、禎子はにこやかに挨拶した。

「あ、はい、こちらの本です。和裁入門。」

ハチ公は、持っていた本を禎子に渡した。本格的な和裁の本ではなく、縫い方を写真などで示した、気軽に和裁を楽しんでほしいという感じの本である。

「ありがとう。わかりやすくてよさそうね。よかったわ。よい参考書が見つかって。」

禎子はとてもうれしそうに、貸出カードに自身の名を記入して、ハチ公に提出した。ハチ公はそれを確認して印鑑を押す。

「じゃあ、返却は、取り寄せなので四週間後で大丈夫です。」

「あら、意外に長いのね。」

彼女はそう言って本とカードを受け取り、鞄の中に入れた。

「取り寄せた本はそうなっているんです。」

ハチ公は、淡々と言ったつもりだったが、

「どうしたの?なんだかすごく緊張しているみたいだけれど?」

と、言われてしまったので、さらに顔を赤くする。

「い、いや、たいしたことありません。それより、和裁教室にいってらっしゃるんですか?」

「いえ、教室というか、私の友達が教えているの。本人も教室とは呼ばないでねって言っているけど。その参考書が欲しくてね。でも、和裁って楽しいわね。ほとんど直線縫いで作れちゃうし、あまり複雑なところはなく、着物が作れる。」

ハチ公がそう聞くと、彼女も楽しいのだろうか、その話を楽しそうにし始めた。

「昨日で、子供用の着物を一枚縫ったの。まだ夏用の単衣しか作れないから、次からは冬用の袷を教えてやるって言われたのよ。もちろん、子ども用を作るのもいいけど、できることなら、単衣の着物でいいから、好きな人に、一枚作ってあげられるようになりたいわね。」

そうか、好きな人、いるのか。もちろん、腹に赤ちゃんがいるのであれば、相手は必ずいるはずだ。それは当然好きな人でなければできるはずがないよなあ、、、。つまり彼女には、優しい旦那様もいて、きっと幸せに暮らしているんだろう。そんなひとに、思いなんか寄せてもどうせだめかあ。と、ハチ公は考えなおすのだった。いや、考えなおそうとした。でも、なぜか、そうするのは、嫌だという気持ちがわいてしまう。なぜ!

でも、男であるから、それを隠して、強いセリフを言うことはできる!と思った。

「あの、午後から、一段と寒くなって、風花が舞うところもあるそうです。赤ちゃんのためにも風邪には気を付けて帰ってください。」

「わかったわよ。ありがとう。確か、天気予報もそういってた。まあ、風花程度なら、何とかそのままで帰れるかな。」

さらりと笑う禎子に、

「いえ、あまりに寒いと、体に障ります。せめて傘を持って行ってください。返却は本を返してくれた時に一緒に持ってきてくれればいいことになっています。」

この図書館では、傘をレンタルするサービスもやっていた。利用者が忘れて行った傘を、処分に困って、レンタルするようにしたのが、始まりだが、傘を忘れても取りに来ないという、ものを大切にしない人が増えているとして、ハチ公はこのサービスが嫌いだった。中には、一度や二度しか使っていないと思われる新品の傘を忘れていく人も多くいるからだ。でも、今日はそういう傘が置かれていて、よかったなとおもった。

「そう。ずいぶん親切な図書館ね。じゃあ、一本借りていこうかな。でも、そんなもの、どこにあったかしら?私、来るとき気が付かなかったわ。」

「あ、そうですね。ちょうど、掲示板の後ろに置かれているのですが、気が付かなかったですかね。じゃあ、ご案内しますから、一緒に来てくれますかね。」

たぶん、掲示板が大きすぎて気が付かなかったのだろう。こういう時は、催しものの案内を掲示する掲示板よりも、傘を優先的に置けばいいのに、と、ハチ公はちょっと不服な気持になる。傘を置いておけばいいというものではない。

「こっちです。」

と、ハチ公は貸出カウンターから外へ出て、彼女を正面玄関付近まで連れて行った。そこに、市民会館などで行われる催し物の宣伝ポスターがたくさん貼られた掲示板が設置されていた。ハチ公は、それをどかして別の場所へ置くと、たくさんの傘が大量に入った傘立てが現れた。

「どうぞ、この中から好きな傘を一本借りて行ってください。返却は、本と一緒に持ってきてくださればそれで結構ですから、、、。」

「ま、まあ、まるでデパートの傘売り場みたい。」

と、禎子は言った。確かにデパートの傘売りばよりもっとバラエティーに富んだ傘がそこにはおいてあるのだった。ハチ公は、それがみんなの忘れ物とはどうしてもいうことができなかった。

「みんなものを大切にしないのね。これでは、せっかくの傘が台無しじゃない。どこかに忘れても取りにいって、壊れるまでしっかり使い切るという風習は、消えちゃったのかしら。」

ふいに、禎子がそういった。ハチ公は、さらに彼女を思う気持ちが高まって、より顔にカーっとしたものが、上ってくるのを感じたのである。

「あ、ごめんなさい。私もこんなこというなんて、おばさんになっちゃったわ。今のは年寄りの話だと思って気にしないでね。若い人には、こんなこと、言ってもただのうるさいことしか感じ取られないでしょうからね。」

「いえ、禎子さん、僕は、もう40を超えてしまいました。僕もおじさんです。」

禎子の発言に、ハチ公は急いで訂正するが、禎子は一瞬きょとんとした。

「あ、あら、ハチ公さん、もうそんな年なの?」

「は、はい。」

ハチ公は素直に肯定した。ごまかしてはいけないとおもった。

「そうなの。まあ、見えないわねえ。そんなにきれいな目をして。まるで、少年みたい。それにその丸坊主だから、本当、私まだ二十歳そこそこにしか見えなかったわ。」

確かに、ハチ公の頭は丸坊主だ。精神病院では、男は丸坊主、女はベリーショートに無理やり髪を切らされる。長く伸ばしていたら、パニックを起こした場合に、髪を抜いてしまうなどの奇行に走る場合があるからだ。退院後、すぐに髪を整えなおす患者もいるが、それは症状がほとんど軽い場合の患者に限られる。ハチ公のように長期入院していた患者は、丸坊主に慣れてしまって、ずっとそのままでいる。

「あ、ありがとうございます。」

ハチ公は、生まれて初めて他人に褒めてもらった瞬間だった。でも、口に出しても意味はないことは知っていたから、何も言わなかった。

「じゃあ、適当に、ここにある、青い傘でも借りていくわ。」

禎子は、近くにあった青い無地の傘をとったが、

「いえ、これは地味すぎます。こっちにしてください。」

本当は、先ほど褒めてもらえた、ほんのお礼です、も言いたかったけど、それは言わないで、ハチ公は、赤と白の水玉の傘を差しだした。

「キノコみたい。」

思わず吹き出してしまう禎子だったが、

「いえ、キノコなんかじゃありません。青より赤のほうがずっときれいだから、そうしただけです。」

と、ハチ公は意思を曲げないで言った。実は赤という色は、相手に対して、忠実な愛の色として、認識している国家もある。もちろんハチ公はそんな風習を知るわけでもないが、禎子の顔色を華やかにするには赤のほうが良いと思ったのである。

「そうね、、、。じゃあ、そっちの傘を借りていこうかな。」

禎子は、ハチ公が差し出した傘を受け取った。ハチ公は思わず涙が出た。

「また、本を返す時にこっちに来るわね。じゃあ、また。その時に傘も返却するから、よろしくね。」

軽く礼をして禎子は正面玄関に向かって、歩いて行った。彼女が見えなくなるまで、ハチ公はずっとその背を見つめていた。

「禎子さん遅いな。本を取りに行くだけだから、そこで待ってろというのに、いつまでも出てこない。本の貸し出しでトラブルでもあったかな?」

杉三と水穂は、正面玄関からすぐそばにある噴水の前で禎子の帰りを待っていた。噴水と言っても、夏場ではないから水は出ていなかった。

「そうだね。確かに貸し出し手続きだけでは時間がかかりすぎだ。」

この時点では、水穂も、こう発言することができた。というよりできていた。

「まあ、しょうがない、あまり本は借りたことないそうだし。戸惑っているのかと思うよ。もしかしたら、別の本でも頼んでいるかもしれない。ほらあ、本屋と違って試し読みができないじゃんか。図書館ってのはな。」

杉三が腕組みをして、そんなことを言っていると、北のほうから冷たい風がピーっと吹いてきて、二人の顔に何か冷たいものが付いた。

「わあ、風花だ。これだもん寒いわけだ。早く帰ってきてくれないかな。」

と、杉三が言った通り、風に乗って雪の粉、つまり風花が飛んできた。隣から、咳の音が聞こえてきたので、

「おい、大丈夫かお前!」

と、水穂のほうを見ると、彼は立っていられなくなってしまったらしい。咳き込みながら、ふらふらとその場へ座り込んでしまった。

「しっかりせい!まさかと思うけど、ここでやらないでよ!」

杉三がそういうと、また風が吹いてきた。今度は風花ではなくて、本格的な雪を連れてきた。

「杉ちゃんごめんね、少し気分悪くなっただけで。」

「言い訳はいらんよ。とにかくね、道路に座り込んでもへんなやつにしか見られないから、正面玄関から中に入ろう。」

変な奴にしか見られないというのは、杉三特有の解釈だが、水穂は立ち上がろうとして再度ふらふらと、座り込んでしまう。そして、さらに激しくせき込んでしまうのであった。

その間に雪はどんどん、二人の顔に当たった。

「しっかりしてくれ!本当に君という人は!」

と、しかりつけても効果なし。やがて、水穂が口を拭いたチリ紙の一部が赤く染まりだしたので、杉三は、ほらよ、と言いながらも彼の背をなでてやった。

「あら、雪になっちゃったわ。二人とも待ってるはずよね。急がなきゃ。」

と、紅白の水玉の傘をもって禎子が正面玄関から出てきたが、噴水の前で、うずくまってせき込んでいる水穂と、その背を一生懸命撫でてやっている杉三の姿が見えたので、

「ごめんなさい!すぐ行くわ!」

と、でかい声で言って、走っていったのであった。同じころ、玄関付近では、傘の整理をしていたハチ公がいたが、あの傘を持った女性が急に走り出したので、まさかバスは後30分近くあるのに、乗り遅れるはずはない、それより、走り出すのはいけないのではないか、何かあったらどうしようと、ハチ公は急いで正面玄関を飛び出した。

「おい、しっかりしろ、しっかり!お前、こんなところでやられちゃあとが困るじゃないか!」

杉三が一生懸命言っても効果はなく、水穂は、立ち上がることすらできなかった。そこへ、

「ごめんなさい。待たせちゃって。こんな寒い中本当にごめんなさい。水穂さん大丈夫?歩ける?」

急いで禎子が駆け寄ってきた。

「禎子さんまで、走ったらいかんよ。それより、こいつを何とかしなくちゃ。ここから製鉄所まで変えるには、タクシー使わないと帰れない。でも、僕の家なら、歩いて帰れるよね。暫く僕の家で休ませよう。おい、頑張って僕の家まで歩いてくれるか?」

杉三の言葉は水穂にも通じたようだ。しかし、何とかして、立ち上がろうとこころみたが、立てても足がもつれてしまう。

「杉ちゃん、歩かせるとかえって危険よ。私が背負っていこうか。抱きかかえることはできないから。」

「ダメだよ。禎子さんも、同じように危ないぜ。だから、こいつに頑張って歩いてもらうしかない。おい!頑張って歩いてくれよ!頼むから!」

うんうんと頷いてくれてはいるが、立とうとしても何度もふらついてしまい、立てても足がもつれて転倒してしまいそうになるのであった。

「あの、すみません!」

いきなり後からでかい声が聞こえてきたので、杉三たちは後ろを振り向くと、

「すみません!僕が背負って歩きましょうか!」

そこにハチ公その人が立っていた。たぶんおいかけてきたんだろうということはわかるが、今はそれについて言及している暇はなく、

「おう、頼むぜ!こいつを大急ぎで運んでくれないか。道順は僕の指示に従ってくれればそれでいいから。」

杉三はあっさり頼んでしまった。

「はい!わかりました!」

ハチ公は、水穂を背中に背負った。人間の男性とは思えないその重さに、思わず驚いてしまう。

「じゃあ、行くぞ。まずここをまっすぐに行く!」

「は、はい!」

杉三の指示に従ってほかの二人、正確には三人も、歩き出した。幸い、杉三の自宅は、すぐそこで、歩いて五分程度の距離であったが、とにかく雪がやまないため、まるで雪山登山をしたような気分であった。とりあえず、杉三の家につくと、水穂を部屋に入らせて、いそいでソファーの上に横にならせ、杉三が部屋から持ってきた毛布で包ませた。暖房と加湿器のスイッチを入れてしばらくしたら、

やっと楽になってくれたようで、咳き込むのもやめてうとうとしている。

「よし、うまくいったぜ。目が覚めたら、暖かいお茶でも出してやるか。」

「そうね。体をあっためてやらなくちゃ。」

杉三と禎子はそう言いあっている。

「あとは僕たちがやるから、いいよ。本当に、運んでくれてありがとう。お礼に、これでも持って行ってくれ。」

杉三が冷蔵庫からリンゴを数個出して紙袋に入れたが、ハチ公はそれを受け取らず、

「いいえ、これはもらえません。水穂さんが心配なので、もう少し、ここにいさせてください。」

と言った。杉三が、今勤務中なんだからすぐ戻れといったが、

「いいえ、大丈夫です。どうせ僕は、あの図書館で、ただの窓際のようなものですから。」

と、ハチ公はもう一回言った。

「そうか、そういうことなら、忠犬というより窓際犬だったんだな。でも、組織は組織だし、ちゃんと謝れよ。」

と、杉三に言われても、ハチ公はまだそばにいたい気持ちが取れなかった。ここで退出してしまうのは、なんだか水穂が心配というだけではなくて、別の気持ちがあったのである。

もしかして、禎子さんが、着物を作ってやりたいといった人物は、この人なのではないだろうか?

もしかして、禎子さんの夫は、水穂さんではないだろうか。

そうなると、自分の気持ちはどこへ、、、?

ああなんてバカなことをしたんだろうと、自分のしたことを恥じた。

そうだよね、自分が好きになってはいけない人を、好きになってしまったのが悪い。それは本来いけないことだもの。童顔で、坊主頭の自分よりも、端麗な顔をしている水穂さんのほうが、よほど禎子さんの夫にはふさわしい。そういうわけだから、禎子さんの腹に宿っている子も、きっときれいな子供だろう。自分の穢れた血で彼女を汚してはならないと、ハチ公は思い直した。

でも、悲しかった。

やっぱり、失恋というものは、どんな恋であっても、悲しいものなんだ。

本当に悲しかった、、、。

ふいに、禎子さんのスマートフォンが鳴る。

「はい、澤村です。あ、どうも、ええ。あ、そ、そうですか。わかりました。近いうちに取りに行きます。」

「誰から電話なんだ?」

「どうしよう杉ちゃん。」

杉三が相手の名を聞くと禎子はこまった顔で、彼のほうを見た。

「金物屋さんからよ。ほら、こないだ杉ちゃんと一緒にロープを注文したでしょう?それがもう届いたから取りに来てくれって。あの時、店主さんに急いでと急かしたから、早く取り寄せてくれたのね。」

「ああそうか、じゃあ、取りに行かなきゃいけないのか。でも、あの店、現金でないと支払いできなくて、カードが使えないから、僕は支払いできないよ。水穂さんにはとても歩いてはいかれないだろし、君は一人で行くのも危険すぎる。それじゃあしょうがないな、、、。」

「わかったわ。仕方ないから、着払いでこっちへ送ってもらうことにしましょうか。」

二人がそう話しているのを聞いて、ハチ公はこれは何とかしなければなと思った。

「僕が、付き添ってはダメでしょうか?」

杉三と禎子が彼のほうを見る。

「でも、あなた、仕事があるのではないの?」

「いえ、大丈夫です。運のよいことに、明日は月曜で、図書館は閉まってしまうので。」

禎子が、壁にかかっていたカレンダーを見た。今日は確かに日曜日。その次は確実に月曜日である。

「よし、じゃあ、そうしようかな。お前さんにも一緒にいってもらおうかな。もう、こういうとき僕は役には立たんのでね。」

杉三がそういうと、禎子も、

「ごめんなさいね。また迷惑かけちゃって。」

と言い、お願いします、と頭を下げた。

「迷惑なんかじゃありません。禎子さんのお役にたてれば、本当にうれしいです。」

こればかりは正直な気持ちを述べた。この気持ちには嘘はなかった。

「まあまあ、忠実な騎士みたいに、カッコつけないでいいよ。じゃあ、お願いするわ。明日の朝十時過ぎに、このうちに来てくれる?」

「わかりました。」

杉三にペンを貸してもらってハチ公は明日の十時過ぎに杉三さんのお宅へと、手の甲に書いた。なんだかそれを消してしまうのがとても惜しい気がした。

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