第二章

第二章

数日後。

「えーと、この角を曲がって、、、。」

禎子は、水穂にもらった地図を広げて、杉三の家に向かってあるいていた。

「こっちか。あ、確かに影山と書いてある。このお宅ね。」

その家の前で禎子の足は止まった。

すると、隣の家のドアがぎいと鳴って、一人の外国人女性が顔を出した。

「あら、どうも。」

「あ、あのすみません、影山杉三さんのお宅はこちらでよろしいですか?」

「そうよ。杉ちゃんに何のよう?」

「ええ、長着を仕立てていただいて、今日できたそうで、取りに来たんです。」

「あら、杉ちゃん、妊婦さんの長着を仕立てることもできるのかしら。そうなると、すごいわねえ。」

アリスは、ちょっと不思議そうに言った。

「いえ、違います。赤ちゃん用の長着。何も用意していなかったものですから、作ってもらおうということになって。それでお願いしたんですよ。」

「そうなの!それはいいわね。杉ちゃんなら、いま、買い物にでかけてるわ。といっても、すぐ戻るはずだから、私の家で待ってたら?外は冷えるし、赤ちゃんによくないわよ。」

親切な外人さんだと思いながら、禎子は彼女に従うことにした。

「入って。今、お茶だすわね。」

アリスに言われるがままに、中にはいる。アリスは、彼女を居間へ招き入れ、ソファーに座らせた。

「杉ちゃんに、あたしが連絡しておくわ。お名前はなんて仰るの?」

「澤村禎子。」

「ちょっと待ってて。」

アリスはスマートフォンをとると、電話をかけ始めた。

「もしもし、杉ちゃん?澤村禎子さんというかたが来てるけど、なんでも赤ちゃん用の長着を取りに来たんですって。あ、そう。電車がね。全く、最近のJRは、不祥続きで困るわね。じゃあ、そう言っておくわ。じゃあ、急いで帰ってきてね。」

と、電話を切って、電車が人身事故で遅れているため、少し到着が遅れるから、しばらく待っているようにと言った。到着したら、杉三が長着を持ってそちらに行くという。

「本当にすみません、わざわざ、お隣の家に来てくれるなんて。私、また出直してきましょうか?」

「いいえ、待っててくれていいわよ。そのままで。ちゃんと、作ってあると思うから。約束を破るのが嫌いな人だし、和裁をすると止まらなくなって、もうどうしようもないのよ。それに、隣なんだし、100メートルも離れていないんだから、使ってくれていいわ。」

「そうなんですか、、、。」

かえって、そんな風に見てほしくないな、という気持ちがわいてしまった。

「で、いつ生まれるの、赤ちゃんは。もう、そこまでだと、かなり近いでしょう。まあ、今の人は大体産み月になってくると、家事をセーブとかしちゃうんだけど、昔の人は産む直前まで動いていたんだから、できる限り、動いたほうがいいわね。なんだか最近、間違ったお産の解説ばかりが載っていて。病院でのお産なんて、間違いだらけで話にならないわって、私の先生が言ってた。」

「あ、はい。来月の頭くらいかしら。」

「そうなのね。そうなると、かなり近いわねえ。じゃあ、お産のために体力でもつけたほうがいいから、何か、運動したらどうかしらね。一番身近なのは散歩することよ。まあ、最近は、妊婦水泳みたいなものもあるけれど、一番いいのは歩くことだから。あ、待って、でも、、、。」

アリスは、そこで確認するように言った。

「あなた、澤村禎子さんだったっけ。いくつなの?」

「はい。こうして若作りしても、年がばれちゃうかしらね。もう、45なんですよ。今年46なんです。そうなると、高齢初産になってしまうのは仕方ないですよね。病院へ行くと、なんだか、危険物扱いされているみたいで、どうも苦手で、、、。」

禎子は、言ってみれば、「贅沢な悩み」を話した。

「そうでしょうね。最近日本では少子化の影響もあって、できるだけ産んでほしいんでしょうね。だから、高齢の妊婦さんだと、ものすごい慎重になるのよ。まあ、それは確かに、うっとうしいっていう人も少なくないわ。あたしたちの国では、年齢なんて関係なく、勝手に産んじゃっていいよって感じだったけど。」

「そうなんですか、そういう自由なほうが、かえっていいかもしれないですよね。ヨーロッパですと、基本的に個人主義ですものね。国が、子供を管理するなんてしないでしょう。」

禎子は、うらやましそうに言った。

「でも、どこの国でもさ、赤ちゃんをいつくしむお母さんってのは、変わらないわよね、それは万国共通で、素晴らしいと思うわ。いいわね、そういう感情って。どんなに貧しい国家であっても、そこは大切にしてくれるし。」

アリスがそういうと、禎子は、そうではないんだな、という顔をした。

「そうなのね。でもあたし、なんだかそういう気がしないの。」

「どういうこと、、、?」

アリスはここで初めて面食らった顔をする。

「あたし、産もうという気にならないのよ。前に、話した人には、スタートが遅すぎるから悪いっていうんだけど。それなら、赤ちゃんなんか産むべきじゃないっていうのは本当にわかってる。でも、そう思っちゃうの。どうしても。」

「バカな事いうもんじゃないわ!お母さんになるって、すごいことよ。女だけの特権よ。それを初めて使わせてもらうなんて、すごいことじゃないの。中には、子どもが欲しくても、どうしてもできなくて、結局諦めるしかないという人もたくさんいるのよ。そういう人たちに比べたら、いいほうじゃない!」

アリスは、一般的な倫理感で禎子を叱ったが、彼女はさらに辛そうな顔をして、こういうのだった。

「だって、今まで、やってきたことが赤ちゃんのことで全部だめになるじゃないの。」

「馬鹿ね!だめになんかなりはしないわよ。これから、お母さんとして、一生懸命やっていくという、新しい人生が始まるのよ。それには、お母さんならではの感動がいっぱいまってる。お母さんってのは、子どもにとっては一番素晴らしい大人なの。それになれるんだから、もっと喜びなさいな!」

「そうね、、、。でも、あたしは、そうは思えないわ。」

こればかりは、先進国特有の問題なのかもしれなかった。先進国では多くの女性が社会に出て働いていて、女性でありながら、高名な立場につくことも珍しくない。それ故に、その椅子を盗られてしまうと解釈してしまうのである。

「あたしたちの国では、そういうわがままなお母さんって、本当に少なくて、いたとしても、誰かお年寄りが、そんなことはやめるようにって、説得に当たったりしたんだけど、日本では一人で全部決めなきゃいけないから、そういうことになるのよ。まあ、今は、何があったのか、あえて聞かないけど、暫くこっちにいたらどう?杉ちゃんに、和裁教室でもやってもらいなさいよ。そうすれば、お母さんになる実感もわいてくるかもしれなくてよ。」

アリスは、一生懸命彼女を説得した。助産師という立場上、彼女を一生懸命、産むようにさせなければならなかった。

「そうね、なんやかんや言って、この月までもってきちゃったし。あまりにも忙しくて、生理がないのにも気が付かないで、気がついたときは、4か月過ぎてた。悪阻とか、そういうものも、ただの胃炎とかと勘違いして、太田胃散とか買ってたくらいしか対策してなかったわ。あとになって、ああ、あの気持ち悪いのか、くらいでしかない。よく、何も食べれないとかそういうこと言うけど、あたし、普通にご飯も食べてたし、、、。」

確かに、そういう人は、少なからずいた。学校の先生とか、そういうあまりにも忙しくて体調管理をする暇もない人は、切迫流産でやっと気が付いたという人もいる。下手をすると、そこで赤ちゃんが死亡してしまう人も多く、本当に、日本の社会は産めるかどうか、疑問に思ってしまう。

「ほんとは、それだって、産んでほしいという赤ちゃんのメッセージかもしれないわよ。まだ原因は解明されていないそうだけど、あたしは、個人的にそう考えてる。そこで初めてきがつく人が本当に大勢いるじゃない。テレビを見てもわかると思うけどさ。でも、何も食べれないってことはまずないけどね。そこはテレビは大げさよ。」

「ええ、そうでしょう。だから、本当に何も気が付かなかったの。生理がないのだって、若いころからずっとそうだったんだけど、バイオリンのコンクールの前はよく薬で止めたりしてて、不規則そのものだったから。」

ずいぶん、女性の体を奪うような、危険な生活してきたんだなあと、アリスは思った。もともとそういう生活だったから、彼女は、赤ちゃんを受け入れられなかったのかもしれない。

その時アリスのスマートフォンがなった。相手は杉三だ。やっと、遅れていた身延線が、富士駅に到着したという。すぐにタクシーで帰るからという内容だったが、アリスは、ぶっきらぼうに返答するだけだった。まあ、もともとヨーロッパ人は感情をもろに出すからな、とスマートフォンで杉三が言っているのが、禎子にも聞こえてきた。

「杉ちゃん、もうすぐ来るって。もう駅からここへはタクシーさえ捕まえられれば、五分程度でつくわ。和裁のことは、あたしじゃわからないから、杉ちゃんにやってもらってね。あ、それからね、禎子さん。」

アリスは、禎子の目をじっと見て、確認するようにいった。

「あなた、お母さんになることもそうだけど、女であるってことを、損だと思ってるでしょ?」

禎子も、こういう質問をされたのは、初めてであるが、いつも心に思っていることを、きかれてしまったようで、答えに少し迷った。

「ええ、何回も思っているわ。女の事情のせいで、バイオリンのコンクールで優勝できなかったことがあるから。」

そうか、たぶんこういうことだろう。重大なコンクールの日付と、生理がすごく重い日が重複してしまったとかで、思うような演奏をすることができず、優勝を逃してしまったんだろう。あるいは音楽学校を受験する時に、生理のせいで受験できなかったとか。そういうことは、本来であれば、やむを得ず発生するもので、仕方ないことであるが、やっぱり、音楽を生業としていく人間となるためには、そういうものはかえって邪魔な場合がある。音楽関係だけではなく、水泳の選手とか、スポーツ関係でも、よく言われる。それゆえに、母になることも喜べないのだ。

とりあえずアリスは、今日は彼女に聞いておくのはここまでにすることにした。あまり根掘り葉掘り聞くと、彼女にも負担がかってしまうかもしれない。でも、こうして本来なら喜ばしいことを、悲しいとか、嫌だと思ってしまう女性が、日本では多いということを改めて知った。

と、同時にインターフォンが五回なった。杉三特有の鳴らし方だった。アリスが開いているから入って、というと同時に、がちゃんと玄関の扉が開いて、杉三と蘭が入ってきた。

「やれやれ、まったく、最近の電車は自殺者が多くて困るなあ。また電車で飛び込み自殺があってさあ。僕たちそれに巻き込まれちゃった。入山瀬駅で、若いお姉ちゃんが飛び込んできただよ。たぶんきっとあれ、学生だぜ。高校生か大学生だろう。たぶんだけど、試験の点数が悪くてさ、親に叱られて腹いせの自殺だったんじゃないのか。あーあ、一度そうなると、二度と立ち上がれないのが、日本の高校生かあ!」

と、杉三が、冷蔵庫を勝手に開けて、食品を詰め込みながら言った。蘭も、こればかりはショックだったらしい。一つため息をついて、頭をかじっていた。

「で、その自殺された人はどうしたの?」

アリスが聞くと、

「なくなったそうだよ。だって、いつも乗っているローカル線ではなくて、特急富士川だったんだもん、入山瀬駅は通過しちゃうし、いくら、地方交通といっても、かなりスピードが出てたし。」

と、蘭はまたため息をついた。

「まあ、ほんとに嫌ねえ。日本の鉄道は発車時刻も停車時刻も正確すぎるから悪いのよ。そうやって、何時に来るか、悪人にもわかっちゃうじゃないの。2、3分遅れても、なんであんなにペコペコ謝るんだろう。」

「そうだね、フランスの電車は、五分以上遅れていたが、駅員も運転手も何も言わなかった。それでいいとみんなが思っているからそういうことができるんだ。でも、五分くらい遅れてきたら、そういうやつは、かえって思いとどまる時間ができていいんじゃないのか。」

杉三もでかい声でそれに賛同した。

「そうね。あたしも、それだけは、やめておこうって決めてたわ。私も、何回も、音楽学校に行ってはいけないとそそのかされて、もう、死んでしまいたいと思ったことはたくさんあったの。でも、それをしたら、その時点で負けじゃない。だから、たくさんコンクールに出場して、たくさん賞をもらって、私にはできるんだって、周りの人たちを納得させるという作戦をとった。」

なるほど、禎子さんは、何があっても生きようと思っていたタイプなのか。それくらいの強い奴なら、水穂にも何とかしてくれるかもしれない。と、蘭は頭の中で考えた。だからこそ、第二の刺客にふさわしいと思ったのだ。でも、禎子さんが、子持ちであることは、蘭は初めて知ったので、秘密の計画が実現できるかどうか、ちょっと不安になった。

「あ、そうだ。赤ちゃんの、一つ身長着、もう作ってあるよ。男なのか女なのかわからないから、色は緑色にしてしまったけどごめんな。着物のほうが、おしめを変える時も楽だよ。だって、腰ひも一本絞めるだけでいいんだからな。洋服じゃ、ズボンも上着も脱がさないといけないだろうし、面倒臭いよなあ。」

そう言って杉三は、車いすのポケットから紙包みを引っ張り出して、彼女につきだした。

「まあ、暫く合わせの季節なので、こういう、合わせにしたよ。単衣が必要になったら、また縫ってやるからよ。」

「あ、ありがとうございます。」

禎子は、とりあえずそれを受けとった。

「禎子さん、開けてみたら?」

アリスに言われて、紙包みを開けてみる。どれも確かに緑色、いわゆるモスグリーンで、赤や黄色などのトンボ柄がちりばめられていた。

「トンボというのはな、まっすぐに飛ぶから昔から勝利の虫と呼ばれているんだ。なのでよい柄として、よく使われているが、人生に勝利してほしいからだと思うよ。」

杉三が説明した通り、一つ身の合わせ長着が三枚入っていた。

「昔は、親が子供にそうなってほしいと願いを込めて、着物作っていたんだよね。いまはそんなこと、ぜんぜんしないのにね。」

蘭は、何となくノスタルジックな気分になってしまった。

「三枚あれば、とりあえず、対応できると思うんだが、どうだろう?」

「だめだめ。普段着が三枚じゃ足りないわよ。外出する時だってあるだろうし、せめて後、二枚くらい作ってあげてよ、杉ちゃん。」

アリスの注文に杉三は何も驚かず、

「おう、任せとけ。赤ちゃんの着物は、一枚の反物で、結構たくさん作れるんだよ。小さいから、つくるのも簡単だし、すぐ縫ってあげられるよ。」

と答えた。禎子は、後二枚来るのかと考えると、目の前がさっと暗くなる。これだけ作ってもらったら、お返しだって、かなりの額のものを用意しなければならなくなるだろうし、材料費だっていくらくらいかかったことだろう?

「ほらあこれで、お母さんという実感出てきたでしょう?こうやって周りの人から、お祝いをもらうことも大事なのよ。」

アリスがそういったものの、禎子はやはりうれしいという気にはならなかった。杉三が、疑い深い目で、彼女を見て、

「あんまりうれしそうじゃないな。」

と、見透かしているように見た。

「じゃあ、私から提案なんだけど、赤ちゃんの着物を一枚縫ったらどう?杉ちゃん、単衣の着物なら、初心者さんでも、作れるんじゃないの?どうなのよ?」

アリスは、杉三にそんなことを言い始めた。彼女の、発言したら聞かないのは、やっぱり蘭そっくりだ。

「うーんそうだなあ。基本的な縫い方さえ教えれば、単衣の長着くらいなら作れるかな。でもだよ、こんな寒いときに、単衣なんか要るか?夏になるのは、まだ半年くらい先だぜ。」

「あら、そんなこというけどさ、アッという間に半年くらいたっちゃうわよ。」

「そうか、そうだな。じゃあ教えようか。週に一回ほど、僕のうちへ来てくれる?あ、でも、赤ちゃんいると、あまり動かないほうがいいのか。」

「いいえ、杉ちゃん、そういうのは間違い。私の先生が、積極的に動いて、積極的に人に会ったほうがいいって、そういってたわ。動かないとお産が重くなるんだって。誰でもそうだけど、お産というのはね、軽いに越したことはないからねえ。」

杉三がそういうと、アリスが付け加えた。蘭はこれを聞いて、水穂にも動かないと寝たきりになってしまうと、伝えてもらいたかった。

「よし、それじゃあなおさらそうしたほうがいいな。バイオリンのおけいこはいつしているの?」

「いいえ、今は練習はお休みしていて、一日中暇人。」

と、禎子は答えを出す。

「あらあ、それじゃあ、三日に一度くらいここに来てもいいんじゃない?あたしこう見えても産婆なので、お産の兆候は大体わかるし、教えてあげられるわよ。」

アリスの勧めで、これはもうレッスンを受けるしかないなと、禎子は思った。

「よし、OK。これで決まりだね。じゃあ、三日に一度僕の家に来てくれ。もしもの事があった時のために、アリスさんにも一緒にいてもらうことにするよ。あ、別に、病人とみているわけではないよ。それは間違えないでね。病気とは違うんだぞ。女にしかできない神聖な行為だ。」

杉三が再度確認するようにそういうと、

「わかりました、お願いしますね。杉三先生。」

と、禎子は敬礼した。

「先生なんて言わないでくれ。その言い方は一番嫌いだよ。先生と呼ばれるやつはな、大体碌なやつじゃないから。」

杉三にそういわれて、禎子はまた面食らった。

「じゃあ、なんとお呼びしたらいいのかしら?」

「杉ちゃんと呼んでくれ、杉ちゃんと。あだ名で呼ぶのが、一番親しみを込めて、信頼しているってことだから。」

「わかっわ。杉ちゃんと呼ぶから、杉ちゃんと。それでは、月謝はどうしたらいいの?」

「月謝なんていらないよ。それより良いものを作ってやろうという気が大事なの。それをしっかり持ってくれや。」

こういわれてしまっては、自分の負けだなあと禎子は思った。

蘭は、この一部始終をみて、とりあえず澤村禎子を、この富士市にとどめておくという作戦は成功したなともくろみ、ほっと溜息をついたのであった。

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