第三章
第三章
富士市のど真ん中に、富士市中央図書館があった。富士の中央部に建っているから、この名がついたといわれるが、本当は周りの図書館をけん制するためにこの位置に立っている。とにかく、この図書館の自慢は、入れている本の数がやたらに多いことで、全部合わせて、十万冊を超えた。でも、最近は、このような素晴らしい施設があるにもかかわらず、インターネットの普及などで、あまり本を読む人は少なくなったためか、利用する人は少なくなってしまっていた。
その過疎化している施設の中、司書の小宮大八は、今日も働いていた。本のほこりをはらったり、整理したり、時にお客さんの借りたい本を探しに行ったり。正直ぱっとする仕事ではないけれど、大八は淡々と働いていた。
彼は、配偶者も交際相手もなかったから、率先して残業もこなしていた。というより、正確に言えば無理やり押し付けられた。そういうことをしているつんけんとした女性司書たちのような、人間にはならないことを決めていた。
大八は、図書館で働き始めてまだ三年しか立っていなかった。図書館で働く前は、精神病院にいた。学生時代、教師からのいじめが原因で学校に行けなくなり、自宅へ引きこもった。そんな彼を、両親はワルドルフ・シュタイナーという人が提唱した、特殊な教育をしてくれる学校へ行かせて、何とか高卒の資格は持たせた。でも、一度受けた傷というものは、なかなか取れないもので、高卒にはなれても、社会に出て働くことはできなかった。大八は、今までにたまっていた怒りが全部噴き出してしまったのだろうか、父や母に当たり散らすようになった。ここで父母との不仲は決定的になり、二人は彼を精神病院に送った。それから一度も病院から出させてもらえず、退院を許されたときは、40歳を超えていて、父母はこの世にはいなかった。病院を出たとき、医者は、殺されないでよかったな、とだけいった。
入院していた時、大八はひたすら本を読んで過ごした。ほかの患者と作業療法するとかそういうことは、どうしてもする気になれなかった。ああして騒ぎ立てるよりも、本を読んで静かに過ごしているほうが、絶対によかった。時に、ほかの患者に一緒にたばこを吸おうよと言われたが、本を読みたいといって断った。これで患者ともめ事を起こした原因にもなっており、そんなに本が好きなら本屋で働いてしまえ!と怒鳴り散らされたこともある。
精神病院は、刑務所と違って、患者を悪人とみなしてはいけないことになっていたが、中にはそうっみてしまう人もいた。どうせこいつらは、頭が悪い、社会で役に立たない、という態度で接している、看護師が少なくなかった。きついセリフは平気で言うし、時には体罰をする人もいた。普通の病院とは、そこが一番違うところだと、大八は思っている。要は、患者を、患者としてみないということだ。
それにしても、本は、誰に対しても様々なことを教えてくれる。つまり、読む人を選ばない。実用書でも、文芸書でも、実に様々なことを語って聞かせる。必ず何か教訓がある。インターネットは技術が必要だが、本は手にさえ持っていれば、夢の世界へ連れて行ってくれる。そういう媒体であった。そして、一冊手に入れてしまえば、読み返すのにお金はいらない。ディズニーランドとは、そこが違っている。
よかった、僕はこの、大好きな本に囲まれて仕事ができるなんて。大八は心からそう思っていた。
ある日、大八がいつも通りに、貸出カウンターで、本の貸し出し業務を行っていると、
「すみません、ちょっと借りたい本があるんですけれども。」
一人の女性が声をかけてきた。年齢は、自分よりも、二つか三つ年上と思われた。
「は、はい。なんでしょう。」
「あのね、和裁の本ってあるかしら。」
「和裁。ああ、着物を縫うことですね。」
珍しい本を借りていくもんだと大八は思った。すぐに衣類と裁縫の書架へ彼女を連れて行ったが、あいにくそのような本は一冊もなかった。
「おかしいわね。富士で一番蔵書数があるってきいたんだけど?」
「あ、も、もしかしたら、閉架書庫にならあるかもしれません。よろしければ、備え付けのパソコンで探してみましょうか?」
「あ、そう。それはどこにあるのかしら。私、ここの図書館は初めてなのよ。」
「はい、こちらです。」
大八は彼女をパソコンコーナーへ連れていき、彼女をパソコンの前に座らせたが、膨れた腹のせいで座るのに一苦労しそうだ。それはちょっとかわいそうだと思ったので、
「ぼ、ぼくが代理でお探ししましょうか。どうもそれでは大変そうだから。」
「ごめんなさいね。じゃあ、お願いしてもいいかしら?」
彼女は大八と席を変わった。大八は急いで本の検索欄に、和裁と打ってみた。そうすると、この図書館にはおいていないが、富士市内の西図書館というところに、何冊かおかれているということが分かった。
「申し訳ございません。ここの図書館にはおいていないようです。でも、西図書館にはあるようです。もし、必要がありましたら、お取り寄せしますけど、どうでしょうか?」
「ええー。すごいわね、今の図書館はそんなこともできるのね。」
彼女は、本の取り寄せシステムを知らなかったようだ。確かに、大体の客は、この時点であきらめてしまう人が多い。みな、本なんて真剣に読むつもりもないんだろう。
「はい、できます。二、三日で取り寄せできると思いますよ。富士市内ですから。」
「本当!じゃあ、お願いしようかな。」
「わかりました。では、取り寄せ手続きをしますので、こちらへいらしてください。」
「ありがとう、本屋さんにも一冊もなくて、困っていたところだったのよ。ああいうところは、売れる本しか置かないから、必要がなければ入荷しないし、出版社に取り寄せても、一か月かかるんですって。それじゃあ間に合わないもの。」
にこやかに笑って、彼女は大八についてきた。大八は、カウンターに戻ると、彼女に連絡をするため、貸出登録をお願いしたいといい、書類を書いてくれと頼んだ。彼女が書類を書き始めると、書かれた生を見て、澤村禎子という名であり、比較的近い所に住んでいるということも分かった。
「じゃあ、手続きができましたら、どの本を取り寄せてほしいか、もう一度お願いします。一応、西図書館に、和裁に関する本は、四冊あるようです。」
「四冊ね。全部読んでいる暇はないから、この、和裁入門という本でお願いしようかな。」
入門書であったら、比較的わかりやすく書かれているのではないかと思われた。禎子にしても、あまり上級すぎる本は、借りたくなかった。
「ああ、これですか。えーと、ああ、すぐ貸出できるようですね。手続きしておきます。明後日くらいにはこっちに来るんじゃないでしょうかね。いずれにしても、入ったら連絡いたしますよ。」
大八は、にこやかに言った。
「ありがとう。明後日は和裁教室もあるから、とても助かるわ。持って帰って、復習ができそうね。」
あれれ、こんな地域に和裁を教えている教室なんてあっただろうか?と大八は思ったが、それは言わないでおいた。
「じゃあ、入り次第、連絡を頂戴ね。遅くなるかもしれないけど、必ず取りに行くから。」
と、禎子は重たい腹を抱えて、よいしょと立ち上がった。なんだか動作の一つ一つがかなり大変そうである。
「わかりました、図書館は五時で閉館ですから、それまでには必ず取りに来てください。」
「はい。じゃあ、その時に。」
と言って、歩いていく禎子の後姿を、大八はじっとみつめているのだった。
「おい、何ぼーっとしてんだよ!」
ふいにやくざの親分見たいな声が聞こえてきたので大八はハッとした。
「この本、貸してくれって言ってるんだけどなあ。」
そこには、黒の麻の葉柄の着物を着た杉三が、写真集を持って待機していた。おかしなもので、文字の読み書きできない杉三ではあったが、図書館を訪れて、画家の描いた画集や、有名写真家の写真集などを借りていくことはよくあった。
「おいおい、玄関の方見てぼーっとしちゃって、客の来たのも気が付かないのかよ。お前さん、名前をなんていうんだ?ちょっとその名札に書いてある字を読んでみろ。」
「は、はい、小宮です。小宮大八です。」
大八がそういうと、杉三はゲラゲラ笑って、
「けったいな名前だなあ。こみやだいはちか。じゃあ、よいあだ名をつけてやろうな。ハチ公ってのはどうだ?」
「杉ちゃんに絡まれたらそこでおしまいよ。」
「杉ちゃんは、あだ名をつけるの、名人だもの。」
二人の女性司書がそういっているのが聞こえてきたので、大八は、顔を赤くした。
「黙ってるってのは、いいんだな。よし、今日からお前はハチ公だ。これからもずっとハチ公と呼ばせてもらうからな。」
女性司書たちは、お似合いねと言ってクスクス笑った。大八ことハチ公は、わかりましたというしかなかった。
「ようし、それなら、この本貸してくれ。早くしないとほかのやつらが待ってるんだからよ。」
杉三にそういわれて、ハチ公は貸出手続きをした。そのときのハチ公ときたら、天国から地獄へ落とされたような顔をしていた。
「ありがとよ。そんなぶすっとした顔すんなよ。」
「そ、それなら、お客さんもそのやくざみたいなしゃべり方をするのは、やめたほうがいいんじゃありませんか!」
杉三にそういわれて、ハチ公はそう言いかえした。
「いやいや、僕は悪いけどやくざではございません。ただのバカです!」
「はいはい、わかったわよ。小宮さん、この人ね、杉ちゃんと言って、多少乱暴だけど、いい人だから、やくざとは言わないでね。杉ちゃん、これからもたくさん利用して頂戴ね。」
ベテランの司書である、夏目さんがやってきて、二人の間に入ってくれた。
「杉ちゃん、小宮さんね、きれいなところからまだ出てきたばかりで、こっちの世界に慣れてなくて、戸惑ってしまうことがあるの。頼りないけどちょっと多めに見てあげてね。」
「綺麗なところね。じゃあ、ムショ上がりか?」
杉三はすぐにそういうことをいった。
「違うわよ。むしろその逆。」
夏目さんが急いで訂正する。
「あ、ああ、あそこね。確かにムショよりももっときれいな心を持っている輩が住んでるところね。そうか、あまりにきれいすぎて、こっちへ住めなかったのか。そりゃつらいなあ。外の世界は汚い奴らばかっりだからな。ちっとつらいことも多いかもしれんが、元気でやってくれよ。元気が何より一番だぜ。ちなみに勉強は二番。」
「はいはい。杉ちゃん、小宮さんにあんまりきつい冗談は言わないでやって。」
「はいよ。もう、小宮さんではなくて、ハチ公だよ、ハチ公。」
夏目さんが注意すると、杉三はまたゲラゲラ笑った。と、そこへ彼のスマートフォンがなった。
「ハイハイなんだよ。今、新しい友達としゃべっていただよ。」
「そうじゃなくて、水穂さん、もう疲れているみたいだし、早く帰ったほうがいいのでは?」
電話の相手は、機械特有の、誰の声なのか特定できない声であったが、女性の声であったことははっきりわかった。
「ええ?もうばててる?だったら、どっかのカフェでも入ってさ、休んでいるようにいえ。あそう。仕方ないなあ。じゃあ、すぐ行くから、そこで待たせてもらってよ。」
杉三はそう言って電話をきった。
「じゃあな、ハチ公。娑婆の暮らしは汚い奴らばっかりだが、少しずつ慣れていってくれよ。つらいことあるなら、僕は何でも相談に乗ってやれるし、入れ知恵もしてやれるからな。」
「もう帰ったほうがいいのではないですか?その人、大変なんでしょう?」
ハチ公は、水穂さんという人物がどんな人物なのかよくわからなかったが、とりあえずそういった。
「わかったよ。僕はもう少しここにいたいんだけどねえ。」
ゲラゲラ笑いながら、杉三は本を持って、図書館の正面玄関へ行き、そこから出て行った。ハチ公はそれをぽあかんとした顔で見送った。
その翌日、澤村禎子は、富士市の市民文化会館に行った。以前、自身が所属していて、バイオリンの指導をしていた、弦楽アンサンブルの定期演奏会を聴きにいくためであった。前日より腹が余計に重たくなったが、動作は鈍くなったなと思いながら、道路を歩いた。
市民会館の入り口へ行くと、大きな花輪がたくさん置かれていた。あれれ、私が入っていた時は、あんなに派手な花輪は持ってこさせてはいけないという取り決めだったのに、おかしいなと思いながら、禎子はホールに向かった。
ホールのチケット受け渡しは、以前であれば、アンサンブルのメンバーが行っていたが、今回はホールの職員が行っている。いつの日か、海外演奏することもあるから、お金はできるだけ積み立てておいて、スタッフは使わないことにしてあったはずだった。それなのになんで、、、?と首をかしげながら、禎子はホールに入って客席に座った。いつもなら、満席になることは少ないとされていたが、今日は満席に近いほど人が来ている。
演奏会が始まった。プログラムを見てまたびっくり。禎子が所属していた時は、ヴィヴァルディの春のような、本格的なバロック音楽ばかり演奏していたのだが、今日のプログラムでは、クラシック曲といえば、ピーター・ワーロックの「カプリオール組曲」のみで、それ以外は、テレビアニメのテーマや、映画音楽などの、ポピュラーソングばかりだったのである。おまけに、メンバーのステージ衣装も、禎子が知っている衣装は、白いブラウスに黒いスカートという、正式なものであったが、今日は、赤や青や黄色など、色とりどりの、派手なドレスに身を包んでいた。
でも、こうなれば、演奏技術は衰えるから、下手なはず、と思ったら、ワーロックのカプリオール組曲も、そのほかのポピュラーソングたちも、ちゃんと強弱もついていたし、和声もしっかりとれていた。つまり自分がいたときよりも、もっともっとうまくなっていたのだ。それに、自分の座っていた、コンサートミンストレルの位置に座っていた人物は、もっと若くて、かわいらしい、言ってみれば指導力はあまりなさそうな女性だった。ソロの部分も、パンフレットによれば桐朋ではなく、もっとレベルの低い大学の出身者であったから、たぶん下手だろうと思ったが、音もちゃんと取れていて、実に上手だった。そして、お客さんたちは、いつも以上に大拍手で演奏を迎えた。
演奏が終わって、お客さんたちが帰り支度を始めても、禎子はしばらく呆然としてしまっていた。
「やっぱりこっちのほうがいいね。」
ふいに、隣の席に座っていた客が、そう話しているのが聞こえてきた。話しているのは中年の男女で、どうやら夫婦で聞きに来たようだ。
「そうね。私たちはクラシックには詳しくないけど、こういう風に、演奏してくれると、楽しく聞けていいわね。クラシックは敷居が高いという感じをなくしてくれてるし。」
と、今度は女性が言う。何を言うの、クラシックは、敷居が高くて当たり前なのよ!そこらへんにいる人とは違うんだと思えと、さんざん言われてきたじゃないの!と禎子が言いかけると、
「うん、俺みたいなやつも、クラシックを聞けるようになって本当によかったよな。こういう大工なんて、クラシックを聞いちゃいけないみたいに、いわれていたんだからなあ。」
と、夫のほうが感慨深く言った。この二人、このホールに入るべきではないじゃないと、禎子は思ったが、
「先生の方針が変わってくれてよかったわね。新しい、コンサートミンストレルを連れてきてくれたおかげで、あたしたちも気軽に聞きに行けるようになったでしょ。前のミンストレルさんは、すごく厳しい人で、音楽とはこういう風に聞けと押し付けるような威圧的なところがあったから、私、ちょっと一緒に聞きに行くのは怖かったの。でも、これからは、こういう気軽なアンサンブルに変わってくれるみたいだし、そうなったら私、来年もまた聞きに来られるわ。」
と、妻が言うのでさらにショックを受けた。
つまり、私は、コンサートミンストレルの座をはずされて、永久にこのアンサンブルを追放されてしまったのである!
待ってよ、前任のコンサートミンストレルとはこの私なのよ!そしてこれからもコンサートミンストレルはこの私なのに!私、こんな形でやめさせられるとは聞いてない。もし、この形でアンサンブルが続いていくなら、私、不当解雇として、訴えてやってもいい!
そう考えていると、腹の中からかすかに蹴られた。
こいつのせいだわ。こいつが、私が何年もかけて守り続けた椅子を盗ったんだわ!
澤村禎子の頭にそんな思いが渦巻いた。
こいつさえいなかったら。
こいつさえいなかったら。
こいつさえ、いなかったらよかったわ!
何度繰り返しても、繰り返せば繰り返すほど、怒りは増してきた。
そのあと、どうやって自宅に帰ったのか、禎子は覚えていない。誰かに声をかけられたとか、そういうことも全く覚えていないのだ。ただ、家に帰って、腹から弱弱しく蹴られたのは知っている。できることなら、包丁で腹を一突きにしてやりたい。それくらい、禎子は腹の子が憎たらしかった。同時に、自分には、音楽家として、たいして能力はないのかもしれないという不安が、確実視したようで、
テーブルに座って、夕食を食べる気にもならないまま、ずっと泣きはらし、時に、テーブルをたたいた。
その時、禎子のスマートフォンがなった。彼女のことを心配して、アリスが電話をよこしてくれたのだろう。でも、禎子は、あまりに泣きはらして、それが鳴っていることすら、気が付かなかったのであった。
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