最終章 テンキ
01 日常
雨海心晴にとって、日常というものが苦手だった。
「行ってきます」
明るい声でそういうと、扉を閉めて門を出た。
雨上がりで清々しいほど青い空。心晴は朝日の眩しさに目を細めた。後ろから楽しげに会話をしている小学生が心晴を追い抜いていった。
心晴はスマホに繋いだイヤホンを耳に掛けて音楽を流す。明るくポップな曲が流れて、思わずフレーズを口ずさんだ。
『下手くそな鼻歌ね……』
心晴の脳裏でそう囁くのは、自分とよく似た声だった。心晴は姿が見えない相手の声を黙って聞いていた。
『ああ……本当に腹が立つくらい良い天気だわ。ねぇ、心晴?』
その声は苛立ちに満ちており、ここに本人がいたら腕組をしながら言っていただろう。見えない彼女の姿を想像すると、なんだかおかしくなる。思わずにやけそうになったが、幸い彼女は心晴の表情までは分からないようだ。
『そ、そうかなぁ?』
心晴は心の声でそう答えると、脳裏で囁く声の主は大げさにため息をついた。
『ええ、そうよ。最悪な天気だわ。ずっと雨が降っていれば、私も調子がいいのに……』
水属性の精霊である彼女にとって、晴天というのは素直に喜べないようだ。しかし、心晴は彼女の機嫌の悪い理由が天気だけではないことを知っている。
『私は毎日学校に行くから雨だと大変だな』
『ふん、学校なんて退屈なだけじゃない。まあ、家に置いて行かれるよりはいいけど』
今まで心晴は彼女を家に置いていたが家にいる間、よほど暇だったらしい。
『ねぇ、心晴。昨日話していたことは覚えてる?』
『えーっと、御影ちゃんから契約を破棄してもらうこと?』
彼女は精霊琥珀と言って精霊石とは違い、持ち主が自由に使えるものではない。
彼女の本体は具現化された精霊の姿そのもの。精霊琥珀は自我を持ち、彼女を扱うには契約を結ぶ必要があった。
今まで心晴は知らない間に体を勝手に使われていた。それは契約を結ばなかった為、彼女の行動に制限がなかったからだった。そのせいで心晴は自分の意志で彼女を止めることができなかった。
しかし、昨日の一件で御影が彼女と無理やり契約したことで、彼女の動きを制限させたらしい。
昨日は本当に大変だったと思う。
他人事のようだが、心晴は昨日の出来事を半分以上覚えていない。心晴が覚えているのは、何故か二人が彼女と戦っていた事と彼女と祖母との記憶。そして、彼女の目を通して、虚と呼ばれた穴から出てきた二人だった。
ようやく、彼女から解放された心晴は満身創痍だった二人に一部始終を説明され、気づけば彼女と意思の疎通が可能になっていた。
『本当にムカつくわ……魔女族の魔眼も魔法もロクに使えないくせに…………』
精霊琥珀は御影に無理やり契約を結ばれたことに、腹を立てているようだった。もし、実体化していれば、物に当たっていたであろう。
『でも、私が魔法をちゃんと使えるようになったら契約を書き換えるって言ってたじゃない?』
それまでの辛抱だと彼女を宥めるが、胸元の魔導遺物から冷気が流れ、内心で彼女が穏やかでないことを察する。
『何を言っているの? 心晴、すぐに魔法を使えるようになりなさい。あなたはタツの孫なんだから、あんな三毛猫のオスみたいな男に劣るわけないわ!』
一体、何に例えて言っているのか分からなかった。心晴は苦笑しながら「はいはい」と返事をする。
だんだん、通学路に学校の生徒達が増えてきた。もうすぐ校門が見える頃、視線の先に目立つ二人組の姿が見えた。
「お、心晴じゃん」
そんな声が聞こえ、心晴はハッしてイヤホンを外した。
背の高い金髪の少年と心晴と同じくらいの背をした少年が、こちらに手を振っていた。
心晴は嬉しくなって二人に駆け寄った。
「おはようっ! 御影ちゃん、陽介くんっ!」
心晴がそういうと、二人が少し驚いた顔をする。その反応にきょとんとして首を傾げた。
「どうしたの?」
「いや、今日はテンションが高いなって思って」
陽介が戸惑ったように言い、御影は「あらあら」と笑った。
「そんなことないわよ~っ! そういえば、あれからどう? あの子は悪さしてない?」
「うん。話もできるようになったんだ」
その内容は、前の持ち主だった祖母の話と御影への恨み言ばかりだったが、聞いていると「寂しかったんだな~」と、彼女の気持ちが痛いほどわかった。
魔法界のことも魔女族のこともよくわからないが、これから少しずつ分かっていけたら嬉しいと思う。
ふと、心晴が陽介の方を見やると彼のヘアピンが目に入った。
「あれ…………?」
「なんだよ?」
「陽介くん、ヘアピン変えた?」
髪を止めていた赤いピンが新しくなっていた。前のピンはメッキが剥がれかけていて、御影が気にしていたのを心晴は覚えていた。
陽介はきょとんとした顔をした後、「ああ」と短く頷いた。
「結構古かったし、新しくしたんだよ」
素っ気なく彼は言うが、隣にいる御影がニヤニヤしている。それを鬱陶しそうに陽介は視線を送る。
「……なんだよ?」
「いえいえ、陽ちゃんが素直じゃないなぁ~って」
御影がやけに嬉しそうに言うと、陽介は口をへの字に曲げた。
「うるせぇ、ほっとけっ! 大好きのゲシュタルト崩壊めっ!」
「何よ~っ! 好きなものを好きって言って何が悪いのよ!」
可愛らしく唇を尖らせていう御影に、「第一、お前はなぁー」と陽介がさらに文句を言う。そんな二人がおかしくて心晴は笑い声を漏らした。
雨海心晴とって、日常というものが苦手だった。
「おい、御影っ! ちょっと屈めっ! その緩んだ顔を殴らせろっ!」
「嫌よっ! そんなことしたら国の宝と言っても過言でないアタシの顔に傷がつくでしょ!」
「喧しいわっ!」
二人の漫才のような喧嘩を遮るように、学校からチャイムの音が聞こえてきた。
「やべぇっ! 遅刻するぞ!」
「あら、やだ。もうそんな時間なの?」
二人がそういうと、心晴の方に手を伸ばした。
「急ぐぞ、心晴っ!」
「きゃーっ! 遅刻遅刻ぅ~っ!」
どこか楽しそうに二人が言い、心晴は「うんっ!」と頷いて、二人の手を取った。
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