四章 存在理由

01 逃亡



 ねぇ、タツ。

 私はずっと待ってたよ。



 精霊琥珀はただ夜の街を駆け抜けた。

 明るすぎる街並み、喧しく聞こえる人の声。これまで見ていたものがいっぺんに変わってしまい、まるで異世界に迷い込んでしまったかのようだ。

 昔はこんなに車は走ってなかった。

 昔はもっと夜が静かだった。

 昔はこんなに明るくなかった。

 精霊琥珀はただただ奥歯を軋ませる。馴染み切ってしまったこの体は、自分がよく知る少女のものではない。特別可愛いわけでもない平凡顔はよく似ているが、それは彼女の顔ではない。

 最期に見た彼女は一体、どんな顔だった?

 あの時聞いた彼女はどんな声をしていた?

『ねぇ、鏡花。貴方はもう役目に縛られなくていいの』

 彼女がそう言ったのは一体、いつだった?

 精霊琥珀は小さな小学校に忍び込んだ。

 雑草が生い茂った校庭を抜けて、鍵が開いている窓から校舎の中に入った。

 埃の臭いが鼻を突いた。しんと静まり返った校舎内で自分の足音だけが響く。

「寒い…………」

 雨が体の熱を奪っていく。人の体で寒いと思うのは久しぶりだった。

 疲れた精霊琥珀はため息を漏らした。

『苦しいよぉ……苦しいよぉ……』

 自分の手の中にある精霊石の声が聞こえた。

 ひどく濁った精霊石は精霊琥珀の存在に気づいてないのか苦痛を訴えていた。

『お腹空いたよぉ……痛いよぉ…………助けて………』

「もう大丈夫よ…………」

 精霊石を優しく包み込み、そう声をかける。

『もういやだ…………助けて、助けて!』

「大丈夫…………もう……大丈夫だから」

 嘆く精霊石に自分の魔力を流し込んだ。少しずつ結晶の表面を溶かしていく。しかし、自分の魔力をはじき返されてしまった。

「!」

 精霊琥珀は眉間に皺を寄せ、再び魔力を流し込む。しかし、結果は変わらない。そこであの二人の言葉を思い出した。

「粗悪品…………」

 精霊石をさらに加工して生まれたもの。それがこの石だった。つまり、自分が知っている石の製造工程とは異なる可能性がある。

「…………なんてことなの」

 このままではこの子を解放することができない。目の前にいる精霊石の悲痛な声を聞きながら、精霊琥珀は膝を抱えた。

「ねぇ、タツ……私はどうしたらいいの?」

 そっと目を閉じると、真っ暗な世界に浮かび上がったのは大好きな少女と大嫌いな男の姿。

 仲睦まじく並ぶ二人は、穏やかに微笑んでいた。

(タツもセイイチロウも……もういないんだ…………)

 もう自分を知る二人はいない。そう思うと心細くなってきた。

「やだなぁ…………」

 人の感情がこんなにもつらいものだとは知らなかった。

 心の奥底から漏れ出た言葉が、さらに精霊琥珀に重くのしかかった。

 ピコンッ! ピコンッ!

 不思議な音がして、精霊琥珀は目を開ける。なんとも説明できない音で、玄関先で聞いた呼び鈴の音にも似ている。しつこく鳴り続ける音にだんだん苛々してきた。それはカバンから聞こえ、精霊琥珀はカバンの中を漁ると光る何かを見付けた。たしか、現代の電話。使い方は分からないが、心晴の目を通してみていたので知っている。

 煌々と光る画面には、御影と陽介の名前が表示される。

『今、どこにいるの?』

『お前、ふざけんなよ! さっさと帰ってこい!』

 可愛い絵が描かれたものが表示されたり、字が書かれていたりして目まぐるしい。

 きっと、心晴を心配しているのだろう。

 精霊琥珀がため息をついて目を閉じた。どのくらいそうしていただろう。あの不思議な音が止んで、しばらく経ったのは確かだ。今度は電話から音楽が流れてきた。

 その曲は、なぜか頭に残っているあの曲だった。

 旋律しか流れないその曲に、精霊琥珀は自分が知っているフレーズの部分を口ずさんだ。




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