第19話

"確かここだったよな…。"

外に掲げられた看板を確認して玄関の前に立つ。

足下がおぼつかない中、なんとか近所の医者の元へと辿り着くことが出来た。

部屋の中には明かりが灯っておらず、外からでは医者がいるかどうかがわからない。

ダンダンダン‼︎

僕は思い切り壁を叩いた。

周囲の目など知ったことか。

程なくして部屋の中には明かりがつき、玄関から人が出てきた。

"わぁーた、わぁーた‼︎ うるせぇな、誰だ‼︎"

あからさまに不機嫌そうに顔をしかめながら、寝癖頭をボリボリとかいて周囲を見回している。

その男は僕の姿を見つけると、驚いた様子で声を荒げた。

"うぉっ‼︎ なにしたんだ、アンタ⁉︎ えぇ⁉︎ さぁ、ともかく中に入りなさい‼︎"

すぐに部屋の中へと通してくれた。

部屋の中は真っ暗で様子がよくわからないが、どうやら彼一人、つまり彼が医者のようだ。白衣の代わりに綿入れ半纏(はんてん)を身にまとい、身を縮こませて窮屈そうに歩いている。

どうやら本当に寝起きだったらしく、部屋の中は冷え込んでいて寒い。彼は行灯や囲炉裏に火をくべると、大きな風呂敷を広げ、僕にその上に座るように指示をした。

"ほら‼︎ そんなところに突っ立ってないで、早くここに座りなさい‼︎"

床をバンバンと叩いている。

どうやら床に血がつくのを警戒しているようだ。

僕は申し訳なくそこへ座り込んだ。

"そんな血だらけの姿になって…。一体何があったって言うんだ? えぇ? 獣にでも襲われたか?"

僕が座ったのを確認した彼は、慌ただしく布やら薬やらの治療器具を準備している。

"すみません、こんな夜遅くに…。"

"そんなこたぁいい‼︎ 医者の本分ってやつだ。気にするこたぁない。"

道具を一通り手早く揃えた彼が、僕の正面にしゃがみ込み、眼鏡をかけて全身をまじまじと観察するように診察を始めた。

"こりゃあ酷い…。さっ、服を脱ぎなさい。一人で出来るかね?"

彼の言う通りに服を脱ごうとするが、折れた骨やら傷やらで、とてもじゃないが脱げそうにない。彼もそれを察したようだ。

"服は駄目になってしまうが…。構わんかね?"

どうやら切るようだ。彼が雑に置かれた治療器具をいじりながら、眼鏡の隙間から覗きこむように僕を見上げた。

"どのみち血だらけで着れたものではありません。お願いします。"

"わかった。"

彼はそう言うと、ハサミを手に取り僕の服を手早く切り終えた。

患部が露わになり、彼は視診と触診を繰り返しながら唸り声をあげている。眉間にシワを寄せ、どうやら治療の計画を立てているようだ。

"とにかく出血が酷い。何をどうしたらこんな傷が作れるというのか…。

まずは止血から始めよう。さ、そのまま仰向けに横になって。"

言われた通りに横になると、彼が右手の上腕に布をキツく締め、傷口に何か白い軟膏のようなものを塗り始めた。途端に激痛が走る。

"痛…‼︎"

"ジタバタすんな‼︎ 男だろう‼︎ このまま血を止めない方が危険なんだ。"

彼はそう言いながら手際よく作業を進めていく。

隣に針が置いてあるのがチラリと見えた。このまま見ていてはと余計に痛くなりそうだ。彼に全てを委ね、僕は天井を見ることにした。

"まったく…。今こうして生きているのが不思議なくらいだよ。私が出なかったらどうするつもりだったんだ?"

"その時は…玄関先で干からびていたのかもしれませんね…。痛…‼︎"

"ハハハ、そりゃあ勘弁だ。朝っぱらから骸さまなんざ見たかねぇからな。"

腕だけでなく肋骨(アバラ)や足にも痛みが走る。

"それで…。何度も聞くようで悪いが、一体どうしてこれだけの傷を作ったというのだね? 傷の作り方によっては感染症を引き起こしかねない。薬を塗り込むにも種類を選ばなくてはね。だから聞いておく必要があるんだ。話せるかね…?"

僕は彼の質問に答えるのを躊躇った。

この時間に、こんな傷を負って訪ねてきたのだ。不審にも思うだろう。

人殺し、もしくはならず者かなにかと勘違いしているのかもしれない。

だが、真実を話したところで、果たして信用してもらえるだろうか…。

鬼が出てきて殺されそうになったなど、誰が信じてくれるだろうか…。

しかし、このままヤツを放置しておくわけにもいかない。他の村人が襲われる可能性だってあるのだ。それは避けなければならない。村の警備を強化してもらわなければ。

しかし…。

悩みはしたものの、僕は思い切って全てを話してみることにした。

"こんな夜更けに血だらけで現れれば警戒してしまうのも無理はありません。

ですが、決してやましい事も、危なげな事もしてはいません。

僕はただ、彼女に結婚を申し込んだだけなんだ。"

彼は一瞬戸惑ったような表情を浮かべ僕を見たが、すぐに眉間に皺を寄せながら医者の表情に戻って再び右腕へと視線を戻した。

"…それはおめでとう。だが、それがどうしてこんなことに?"

"先生は、山の中のホタルのウワサをご存知ですか?"

"あぁ。若者の間でだいぶ前からウワサになっとるアレだな? 話ぐらいは知っとるよ。"

"僕はさっき、その例の場所でプロポーズをしてきました。無事に成功して、彼女とホタルを見て、祝い酒を飲み、頃合いもよく帰ろうとした時でした。ヤツが出てきたのは。"

彼は僕を横目に鋭く一瞥した。

"ヤツ…?"

一瞬の間を置き、僕は答えた。

"鬼です。"

彼は治療の手を止めた。

"ハッハッ‼︎ 私をおちょくっているならよした方がいい。このまま奉行所の連中を呼んで、不審者として君を牢屋の中に叩き込むことだって出来るんだぞ。"

"嘘なんかじゃない‼︎ ヤツがこの身体に傷を負わせたんだ‼︎ 僕の…彼女も…。"

"…どうなったのかね? まさか…。"

"えぇ…。僕の目の前で…。殺されました…。ヤツに…。"

"ハハ、冗談じゃない‼︎"

彼は完全に僕の話を信用していなかった。それはそうだ。僕だってこんな夜更けにそんな妄想じみた話をする者が現れれば聞く耳を持たないだろう。だが僕は見てしまった。そして、失ってしまった。大切な存在を。

彼は沈鬱な表情を浮かべたまま言葉を失くす僕を見つめて、段々とその話に信憑性を感じ始めていたようだった。いやむしろ、嘘を言っているわけでもなさそうだ、といった具合なのかもしれない。怪我の状態が全てを物語っている。医者の目から見た、客観的な事実。だが素直にそれを受け取れないとばかりに彼は言葉を続けた。

"…イヤイヤ。そんな与太話をおいそれと信用できるもんかね…。"

"…。"

"…きっとアレだ。事故による突発的な短期記憶障害になっているのだよ。無理もない。これほどの傷なのだから。"

"…。仮に、僕が喧嘩や人殺しの喧騒でこの傷を負っていたのだとしたら、医者のもとへは駆け込みませんよ。怪しまれ、通報される可能性だってあるんですから。先生だって現にそう仰ったじゃないですか。それに、もし話すのだとしても真実を伝えるのではなく、崖から落ちたとか、それこそ先生が仰ったことをそのまま反復するように獣に襲われたというていにすればいいだけの話の筈です。"

"確かに…。それはそうだが…。"

彼は顎の下の無精髭をさすって何かを考えていたあと、唐突に頭をボリボリとかきむしり始めた。

"だぁー‼︎ サッパリわからん‼︎ とにかく‼︎ 今は治療が先決だ。それに集中しよう。薬も適当に見繕っておく。それでいいかね⁉︎"

彼は自分に言い聞かせるように声を大にして治療方針を投げやりに説明した。

"ありがとうございます…。助かります…。"

彼の言葉を聞いて安心したのか、僕はそこで意識を失った。


眼が覚めると、見知らぬ天井が目に入ってきた。

ここはどこだ…。どうして僕はこんなところに…。

起き上がり状況を確認しようと右手をついた時、痛みが走った。

"痛…‼︎"

痛みに驚き、再びそのまま仰向けに寝そべってしまった。

"おう。気がついたか。"

声のする方向に顔を向けると、眼鏡をかけ白衣を着た見知らぬ男が立っていた。

その大柄な男は右手を軽くあげて挨拶すると、笑顔で僕に近づいてきた。

"なんだなんだ、命の恩人に対して随分と物騒なツラで睨んでくるじゃないか。えぇ?"

何を言って…。彼の言葉の意味がわからず一瞬目を細めるが、逡巡ののち状況を理解した。

慌てて起き上がろうと身体を傾ける。

"いいって、いいって‼︎ そのままにしてろ。"

彼はそう言うと、僕の横に腰を落として胡座あぐらをかいた。

僕は彼の言う通り、素直に横になったままでいることにした。

"どうやら思い出したようだな。右手はちゃんと治療しといてやったから、あとで自分で見てみな。何やら感染症も引き起こしていたみたいでな、あれからすぐに熱も出やがって、三日間も眠り続けてたんだぞ。"

"三日間…⁉︎ 三日も寝てたんですか⁉︎"

"あぁ。ピクリともせず寝てるもんだから、死んだかと思ったぜ。右手の様子を逐一診てたから死んでないのはわかってちゃいたが…。あれだけの傷を負って三日でそこまで回復出来たんだ、ほんと、お前さんは大したもんだよ。"

彼は奇跡的だと言葉を付け足した。三日間…。その言葉にどこか現実味のない印象を覚えた。僕にはつい先程のことのように思えていたからだ。なんだか頭がよく働かず、焦点が合わないようにボヤけたまま、ただ頭の中でその日数を反芻していた。

"…とても幸せな夢を見ていました 。暖かな陽射しが届く縁側で、僕は絵を描き、彼女は料理をこさえていました。"

"そうか…。…それは良かったな。独り身の私には羨ましい限りだよ。"

彼はそう言ってどこかぎこちなく微笑むと、僕の視診を始めたようだった。

目つきが少しだけ鋭くなり、全てを見逃さないと言わんばかりに観察対象者である僕を見つめる。

"顔色は相変わらず良くはねぇが…。"

彼の顔から鋭さが消えた。"ま、飯でも食えば少しずつではあるが良くなるだろ。どれ、じゃあ作ってきてやろう。"

彼は膝に手を置き、勢いよく立ち上がった。

"あぁ、遠慮なく‼︎"

僕は咄嗟に彼を呼び止めた。"他の患者さんにも悪いですし…。"

"んなもんいやせんよ。私とお前さんの二人きりだ。こんな片田舎の辺ぴな村じゃ、診察を受けにくるような怪我人も病人もそう易々とは出やせんよ。じゃあ、すぐに準備出来るからな。大人しく寝て待ってるんだぞ。"

そう言うと彼は部屋の奥へと姿を消した。

彼の言葉を受け周囲を見回す。なるほど、確かに二人きりのようだった。

木枠のはめ込まれた衝立ついたてから日が差し込み、行灯をつけずとも十分に明るい。この前はよくわからなかったが、部屋の様子がよく見て取れた。八畳程の広さの部屋に、大きな箪笥と本棚が一つずつ、中には治療器具やら冊子やらが隙間なく納められ、入りきらないのか、隣の机の上に山積みにされている。部屋の隅には囲炉裏が設けられ、既に火が入れられていてパチパチと音を鳴らしていた。

衝立の外からは小鳥のさえずりが聞こえる。忙しそうに働く人の声も。どうやらとっくに日は登っていたようだ。

"はぁ…。"

僕は瞼を閉じ、大きく息を吸い込み、吐き出した。

頭、首、胸、腕、腹、手、太もも、足先。

順に意識を巡らせて、身体の感覚を確かめる。

手のひらを開いて、握る。またゆっくりと開いた。

…生きてる。

安堵感なのか、悲壮感なのか、後悔なのか。

再び大きく、ため息となって口から息を漏らした。

五感に意識を集中させる中で、瞬間的にある考えが頭の中を支配する。

そうだ‼︎ ヤツは⁉︎ ヤツは村を襲いに来なかったのか⁉︎

"ぐっ…‼︎"

慌てて起きようとしてみたところで声が駆け寄ってきた。

"オイオイオイ‼︎ んな無理に動いたら傷跡が開くだろうが‼︎"

ガチャンと音を立て、彼が僕の近くに何かを置いた。

"そぉーっとだ、そぉーっと‼︎ ほれ、伸し掛かっていいから、ゆっくり起きろ。そう、そうだ、いいぞ。"

彼が僕の背中を支えてくれたことで、かろうじて半身を起き上がらせることが出来た。

感謝の言葉すら忘れ、僕は矢継ぎ早に彼を問いただした。

"先生‼︎ ヤツは‼︎ 鬼は来なかったんですか⁉︎"

"あぁ? そのことか…。"

彼は一瞬困ったような表情を浮かべ、表情に影を落として俯いてしまった。まさか…。

"…来ねーよ、村は平穏無事そのものだ。"

"よかった…。"

"…つ…。…。ふぅ…。"

彼は何か言いたげに口を鳴らすと、そのまま深く息を吐いた、と思えば、口を横一文字に結んで僕をどこか寂しげな表情で見つめた。

僕はふと自身の右腕に違和感を覚え、軽く持ち上げ、見た。

白く清潔感のある包帯がキレイに巻かれていた。

彼がやっと言葉を話せたといった具合に、結ばれた口を開いて説明を始めた。

"…一応、止血剤を塗り込んで、針で縫っておいたからな。さっきも言ったが、感染症らしき発赤も見られたから、そっちの薬も塗り込んどいた。いきなり意識を失っちまうんだから焦ったぜ。全身傷だらけの上に出血多量、おまけに上半身は裸で高熱とくらぁ。何から始めればいいかサッパリだ。"

"すみません…。"

"なぁに、いいってことよ。気にすんな。お前さんが元気になってくれれば、私はそれで満足だよ。っと、そうだそうだ。ほれ、冷めないうちに食いな。三日も飲まず食わずにいたんだ。腹も減ってるだろ。起きたからにはまずメシを食わなきゃな。それが済んだら飲み薬だ。"

彼は隣に置いておいたお盆を手に持つと、僕の膝の上の布団にそっと乗せた。

お盆の上には一人用サイズの鍋が置かれており、フタを開けるとモクモクとした湯気の中に美味しそうな雑炊オジヤが入っていた。湯気と共に香りが鼻を刺激して、そのままその湯気に操られるかのごとくレンゲを手に取り、一口分すくい、口に運んだ。

"美味しい…。"

二口目、三口目。熱さを忘れて口に運び入れる。その度に、何故か視界が滲んでいった。

"なんだなんだ、泣くほど美味かったか? ハハハ。伊達に長いこと一人で暮らしているわけじゃないんだな、コレが。"

"う…。つっ…。うぅ…。"

わけも分からず、僕は泣いていたようだった。

"…ゆっくり食えよ。"

彼はそう言うと、僕の肩を軽く二回叩いて、奥の部屋へと消えた。

僕は一口ひと口を噛みしめるように食べ続けた。

関節が軋む。傷口が痛む。

雑炊の味は、次第に塩気を増していった。

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