追撃者

 部屋の明かりをける。

 冷蔵庫の上に鎮座ちんざする電子レンジに弁当を入れて掻き回す。電子が原子を掻き回す。

 大根のサラダを半分ほど器にどさっと乱暴に入れ、残りは袋を折り畳んで、腰を曲げて冷蔵庫にしまった。一番上に置くと凍ってしまうので、二段目に入れる。

 目の前でピーピーとやかましく電子レンジが訴える。

 僕は扉を開いて取り出した。

 テーブルに置き、蓋を取った時、強烈な発酵臭はっこうしゅう鼻腔びこうを突かれた。

 僕は嘔吐えずきそうになりながら息を止めて鼻を背けた。

 うっかりしていた。漬物が入っているのを忘れていた。

 湯気ゆげを上げるピンク色の物体をどうにかしたくてビニール袋の中を探った。しかし目当てのものが入っている気配はなかった。割り箸が無い。

 そうだ。レジで貰ってくるのを忘れていた。

 カラトリーケースを見やり、溜め息を吐いた。

 洗い物、面倒だな。

 たかが箸一善である。されども箸一善なのだ。

 もとよりサラダを入れた器は洗わなければいけないのだから、変わり無いと言えば変わり無いのだが、想定外の事、しかもそれが自分によって引き起こされているとなると、殊更ことさらに気が落ちるものだ。

 想定外の事。ミス。

 そうして仕事の事を思い出す。

 始めの内はどうしてあんなミスをしてしまったのか、と言う事を悔やんでいた。しかしそうして考えていく内に、そもそもどうして僕はあんな所で仕事をしているのだろうと思い始めた。

 勿論、この世に意味の無い仕事なんて無いし、自分の行動が社会にとって有用である事は間違いなく、それを実感するに余りある職場環境である事は疑いようも無い。

 しかし、と、唐揚げを口に運びながら思う。

 酸化してドロッとした油が口内を満たし、鶏肉の内側にこもっていた血腥ちなまぐさいドリップが粘膜に絡みついた。それを早く飲み込むために舌で奥に押しやり、奥歯で肉をぐちゅぐちゅと噛み潰す。

 僕はこんな事をしたくて生きているのだろうか。

 ゴマが降り掛かった白米を口に運び、油と血を喉の奥へと押しやった。

 干からびかけた大根をシャリシャリと咀嚼そしゃくする。

 何の為に。

 いや、やめよう。

 人生なんて、意味ない。

 生き延びるに値しないストーリーを無理矢理続けて行くのが、世にあまねく共通した原理ではないか。

 今は気が滅入っていて、考え過ぎてしまうだけだ。こんな事では明日また仕事でミスをしてしまう。良く無い連鎖を生んでしまう。

 気が付けば唐揚げ弁当と大根のサラダを食べ終わっていた。

 それからシャワーを浴び、横になった。

 布団から少し離れた所に、読みかけの本が置いてあるのを知っている。

 手を伸ばした。

 しかし届かなかったので、今日も読むのをやめておくことにした。

 別れたあの子がくれたしおりが挟まっているから。三つ葉のクローバー型のしおりが。

 と、ロマンチシズムに浸れるほど若くもなく、空虚な夜を乗り越える程歳を取ってもいない。

 今は一番傷つきやすい時なんだ。

 きっと、多分。

 もう寝てしまうのがいい。

 そう言えば今日はいつものスマフォゲームをやる気力も無かったな。あれ? 朝から一度も起動してないっけ? ログインボーナス貰えてないかも。まあ、いいや。そうか。やらなくても成立するんだな。この生活は。

 電気を消した。

 しかし目が冴えてしまって全然寝付けなかった。

 こういう時、酒を飲んで忘れられる人が心底あさましいと思う。

 僕はお酒が飲めなかった。

 でもきっとこんな薄弱な精神力では、すぐに酒に溺れてろくでもない事をしでかすに違いない。

 なら飲めなくていいか。いやでも、アルコール依存症でもニコチン依存症でもなんでも、依存できるものがあるならまだマシかも知れない。すがりつけるものがあるって事は、それだけで幸せなのかも知れないな。本当はやめたいんだって言う、過去とか未来に対する罪悪感と背徳感。それでもやめられないと言う軟弱な心が涙を流しながら、えつるようにニヤつく。ごめんなさいと良いじゃないかの間。せわしく行き来する心。あの、映画のクライマックス、老婆を看取みとった主人公が泣き崩れる様を画面越しに観た時に訪れる、横隔膜おうかくまくの底からせり上がってくるラムネのような泡を、抱きしめる感覚。それがあればこんな空虚な夜も乗り越えられるのではないか。

 ダメか? そんな自堕落じだらくに身をゆだねる事は。

 弱い人間だと部外者に認められ、近親者ではない顔も知らない誰かに「可哀想に」と思われたいと言う願望を叶えてはダメか?

 いやダメだ。

 良いんだ。僕は依存する事すら出来ない程、弱っている。

 僕は僕が可哀想だと思う。そうだろ? それで満足してあげないと、本当に大変な事になってしまうのだから。

 かく寝てしまおう。

 そう思えば思う程に、眠れない。

 気分転換に音楽でも聞こう。

 僕はスマフォに入っている音楽を掛けた。夜なので耳元でギリギリ聴こえる音量で。

 不協和音が聴こえる。

 あれ? これって僕が好きなロックバンドだったっけ?

 画面を見る。

 愛してやまないバンドの名前が表示されている。

 そうだった。

 好きなロックバンドだった。

 これはスマフォのスピーカーが悪いってわけじゃあないな。

 今でも音楽を聴く時はある。いや、毎日聴いている。通勤の時、電車の中で。

 でもそれは本当の意味合いでは、音楽を聴いているんじゃあ無かった。サラリーマンの咳払いや女子高生のクスクスと言う笑い声、誰かのいびき、レールと車輪の摩擦音。そう言った騒々しいと言っても差し支えない沈黙をシャットアウトする為に、鼓膜と世界の間に音楽を挟んでいるだけだった。満員の孤独から、逃げ出したかっただけだった。

 音楽を聴く為に聴くと言う行為は、本当に久しぶりの事だったのだ。

 だから大好きだったあの歌も今の僕には届いてはくれないのだ。

 小さく溜め息を吐いた。カーテンと窓の隙間から這入はいって来た冷気が、それを布団に押し付けた。

 僕はスマフォの音を消そうと手を伸ばした。ところで手が止まった。

 スマフォの向こう側。その奥の栞が挟まった本の向こう側。その更に奥のハンガーラックの向こう側。そのまた更に奥の壁。に、へばり付いた、闇。

 吹き溜まりのような闇の中に、それを更に炭で塗りつぶしたようなぼやけた影の集積が……。

 ――なぜ!?

 僕は飛び起きて後退あとすさった。

 合わせた様にソイツも近寄る。

 今まで部屋の中にまで現れる事は無かった。

 確かに今までより近くに感じていたけれど。

 どうして今。

 なんで。

 僕がしたミスがあまりに重大だったからか。

 眠れないのがそんなにいけないのか。

 音楽がうるさかったのか。

 僕は様々な疑問を抱きながら、闇の中でくすぶるソイツを凝視していた。

 やがて耐え切れなくなって、声にならない悲鳴を上げながら部屋を飛び出した。

 しんと冷え切った風が頬を裂き、耳をつんざいた。

 僕が一体何をしたって言うんだ。

 抗議をしたい相手から逃げ惑いながらに、思う。

 遮二無二しゃにむに走り回って辿り着いたのは近くの公園だった。

 街灯がパカパカと切れかけている。

 肩で息をしている所にソイツが音もなく近寄ってくる。

 息を整える間もなく僕は逃げようと走り出したが、その刹那せつなに足がもつれて転んでしまった。

 コンクリートが膝を打ち、情けの無い声を上げてしまう。

 そんな僕を見ながら、ソイツはじっと動かない。

「なんなんだよ、もう!」

 会社でのミスと不味い唐揚げと読まない本と垂れ流しの不協和音と正体不明の影に追われる恐怖と転んだ時の痛みが混ざり合い、込み上げてきた。怒りが。

 近くにあった石を掴んで、ブンと振った。

 石は確かにソイツに当たったはずだが、すり抜けて、乾いた音を響かせた。

 僕はよろよろと立ち上がる。

 相変わらず息も絶え絶えだ。

 もういい。

 もう止まればいい。呼吸など。こんなに苦しいのなら。こんなに苦しいのに誰も見てくれないのなら。こんなに苦しいのにその苦しささえも押し殺して生きてかねばならない人生なら。

 コイツは今まで僕を追いかけ回してきたが、僕から詰め寄ったらどうするのか。

 どうなるかは知らないが、やってみようと思った。

 どうせ追いかけっこしても勝てないのだ。

 それにさっきは石がすり抜けた。

 実体がないのなら、僕を掴むことも出来ないのでは?

 意を決して拳を握り、歯を食いしばり、駆け出した。

 僕が距離を詰めてもコイツは逃げない。

 そうか。

 逃げないのか。

 もしもすり抜けられなかったら僕はどうなるのだろうか。

 重なり合って同化するか。

 それは死か。

 ならいいさ。

 触れて死ぬならそれでもいい。

 命の最期に立ち向かった。

 その事実は今僕の脳裏に焼き付いているんだから。

 僕が飛び掛かろうと言う時、カレは待っていたと言わんばかりに腕を広げた。

 まるで僕を受け入れようとしてくれているみたいに。

 影に表情などない。

 でも笑っているように思えた。

 嘲笑ではない。

 微笑み。

 触れた瞬間。

 握った拳の中心にある指先から、温かさが流れ込んできた。

 それは徐々に体の中心へと向かってくる。

 コイツはこんなにも暖かかったのか。

 そして触れられないけれど、なんだかとても柔らかく感じた。

 小動物と触れ合った時の、イノセントが其処そこには在った。

 嗚呼ああ、どうしてオマエはこんなに黒かったのだろうか。

 こんなにも温かく、柔らかいオマエがどうして。

 本当の色はどこにあるのだろうか。

 オマエはまるで陽光の様に暖かいのに。

 そうか。

 僕が光の中でオマエを見たくないと思ったあの日から、こんなに闇に溶け込んで、遠くから見守っていてくれたんだ。夜は必ず来るから。

 漸く分かった。ムノキスケ。

「アンタは……」

 するとソイツは目もくらむほど一層激しく光り輝き、真っ白になって、刹那に消えた。

 後に残された僕は、明滅していた。切れかけの街灯に照らされて。

 やはり幻覚だったのだろうか。

 しかしこの胸の温かさは、きっと走ってきたからだけではないのだと言う事を、確信していた。

 見上げると雲一つない鉄紺てつこん色の空に赤と青の電飾がきしむように敷き詰められていた。

 そうか。

 夜はこんなにも明るかったんだ。

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