ムノキスケ

詩一

傍観者

 ソイツが現れるのはいつも夜だった。

 それも光を避けるように。仄暗ほのぐらい夜の、吹き溜まりのような闇の中に、それを更に炭で塗りつぶしたようなぼやけた影の集積が、ソイツを形作っていた。

 駅のホームから見える電柱の向こう。街灯も月明かりも届かない、茂みの中でたたずむ。ソイツは僕以外には見えないらしく、誰かが近くを通り過ぎてもどちらも無反応でいる。果たして実体があるのか、ただの影なのか、触れたことも無いので分からない。

 ソイツが見えてしまうという不幸の中、幸いなのはソイツが進路を妨害するような位置に這入はいって来ないと言う事だ。

 初めてソイツを認識したのはおよそ5年前。ちょうど、就職した年だった。その日は初めて責任ある仕事を任されて、仕事を時間内に終えることが出来なかった。厳しい社会からの洗礼を受けた日だった。その帰り道、宵闇よいやみの中、ソイツを見た。

 恐怖のようなものはなかった。と言うのも、暗闇がただ人型に深まっているように見える、所謂いわゆる目の錯覚程度にしか思っていなかったからだ。

 度々目にするようになり、ようやくソイツの存在に気付いたのは、初めて目撃してから3か月程が経っていた。

 一度認識すると、見かける回数も多くなった。

 これは心霊的な何かに取りかれたのだろうか。今まで心霊体験には無縁だったので、それがそうなのかどうかも模糊もことして分からなかった。だが自分の身に何某なにがしか起きているのは揺ぎ無い事実だった。その為どうにかしなくてはならないという焦燥感ばかりは肥大していった。ある日、友人との会話の流れでそれを友人に言うと、霊媒師を紹介された。有名な人だと言われたが、生まれてこの方霊媒師を求めた事が無かった僕としてはその人が有名かどうかは分からなかった。

 ともあれこれでアイツを断ち切る事ができるならば、と除霊をお願いする事にした。

 晴れやかな気分での帰宅途中、ソイツを塀の影に見かけて項垂うなだれたのは今でも忘れない。

 あのインチキ霊媒師め。バチが当たればいいのだと思った。

 しかしながら、世間的には認められているほど有名な霊媒師の除霊が効かないとすると、これは幻視の類であるのだろうと思った。ストレスならば思い当たる節は多々ある。何しろ残業したその日から見ているのだから、仕事からくるストレスだと言う事で間違いなさそうだった。そんなにメンタル弱いのかとちょっとショックだったが、幽霊や化け物じゃあないならその方が良いと思った。

 とは言え医者に行く事も無かった。

 それは何となくそうだろうから、という憶測が立った為に何処どこか安心したと言うのもあったが、一番の理由は、仮にストレスによる幻視だったとしても、そんな事で仕事を辞めるわけにはいかなかったからだ。別に仕事に対してプライドを持っていると言う訳ではない。ただ、今もそうだが当時から預貯金に余裕はなかった。いくら体の為とは言っても、医者に行く金も稼げなくなっては本末転倒になってしまう。貴方は病気なので会社を休んでください、と医者からお墨付きを貰ってしまっては、甘えてしまうし、一度甘える事を覚えたらなかなか立ち直る事が難しそうにも思えた。

 そう言う訳で医者にも行かず、ソイツを夜の渦中かちゅうに見る生活を続けた。

 ある日親戚のお姉さんにソイツの事を話してみた。歳も近く話も合うので、そういう深刻そうな話でも別段気負いなく打ち明けられる人だったから。

「ああ、それって多分、ムノキスケなんだと思うよ。真面目に生きてる証拠らしいから、安心して良いよ」

「え。何それ。知ってるの?」

「私は知らないわ。だって不真面目だもの。人伝ひとづたいに聞いたの」

 彼女に聞く限り、ソイツは危害を加えてくる事は無いのだそうだ。ただ少し距離を置いた場所でこちらの様子を傍観しているだけ。

 心霊でもなく幻視でもなくムノキスケと言う不可思議な存在になってしまい、いよいよ僕の想像の及ぶ範囲ではないと知ると、逆に気が楽になった。

 あるいは、僕の心を救う為の作り話の様にも思えたが、それならそれでも良かった。ただこの奇怪な現象を少なくとも僕以外の人が認めてくれているという事実は、当時の僕にとっては大変肝要な事だった。

 傍観者たる影を視野の片隅に置く。と言うと気が滅入る話に聞こえるが、実際そんなに苦痛ではなかった。カレは夜にならなければ顕現けんげんせず、家の中に這入はいって来ると言う事も無かったから。正体不明という点においてはやはり不気味ではあるが、襲って来ないのだから、そこら辺の土鳩どばとを見ているのと大差は無かった。

 そして今、僕がムノキスケについての細々こまごまとした記憶を掘り起こしているのは、いつにも増してアイツの距離が近い様に感じたからだ。何故かと言う事は断言出来ないものの、ある程度の憶測はついていた。

 今日僕は、会社で大きなミスをしてしまったのだ。

 入社5年目にしてこんな大きなミスをしたのは初めてだったかも知れない。

 止むに止まれぬ理由があるなら、仕方ないとおのれうちでケリを付けられるものだったが、完全なケアレスミスで弁明のしようもないものだったので、僕だけではなく上司まで頭を抱えていた。最後には呆れたような顔をして「悪かったな」と謝ってきた。怒鳴られた方がいくらかマシだったろう。

 己で引き起こしたものだが、そのストレスに精神が付いて行ってないのかも知れない。それによってムノキスケが近くに居る……ように感じるのかも知れない。

 電車を降りて改札を抜ける。

 駅のホームを背に斜向はすむかい。

 スーパーの入り口を目指す。

 生命維持の為に食材をあさる。

 オツトメ価格ワゴンセール。

 バリバリとプラスチック音。

 かごに入れながら値段を確認。

 唐揚げ弁当に大根のサラダ。

 栄養面も一応気にしながら。

 どんなに落ち込んでいても、生き永らえたいものなんだな。

 どうして生きていたいのか、それすら分からないと言うのに、これじゃあまるで延命措置みたいだ。

 レジで会計を済ませてスーパーを出た。

 切り裂く風が景色をにじませた。

 いつもより多く瞬きをしながら、コートのボタンをめながら、街灯に照らされたアスファルトの悪路あくろを、蹴って家路にいた。

 アパートの手前、振り返ると闇の中にソイツは沈み込んでいた。

 やはりいつもより近い気がするな。

 そう思ったが、それでもいつも通りヤツは光の当たる場所には出てこない。

 逡巡しゅんじゅんしたが無視する事にした。

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