タオの帰宅とナナカの涙

 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


「ただいま戻りましたっ!!」


 夜の帳も深まった深夜のムラクモ居住区に、僕の怒声に似た声が響く。


 愛しの我が家の玄関を思いっきり力を込めて開きながら、僕は愛するお嫁さんに帰宅を告げた。


 帰ってきました!

 ナナカさん! タオジロウは無事に貴女の元に帰ってきましたよ!


 ああ! 生きてこの玄関を潜れるなんて本当に奇跡だ!


 この一ヶ月と少しの間に何度となく死を感じ、何度となく走馬灯を観たか分からない!


 五体満足にこの家に帰ってこれて、僕は本当に嬉しい!


「ナナカさん! 僕です! タオジロウです! お待たせして申し訳ございません!」


 再び大声で帰宅を告げて土間に入る。

 足袋たび草鞋わらじなんてとっくの昔に履き潰した。だから素足で、更に土とか泥とか血の塊とかでとても汚い。

 このまま廊下に上がれば汚れてしまうだろうが、そんなのは後で拭けば良い。


 勢いのまま土間を上がり、廊下を大股で歩いて僕らの寝室へと急ぐ。


 亜王院本邸とは比べようも無いほどこじんまりとした我が家だけれど、寝室までの道のりが遠く感じるのは僕が急いているからだ。


「ナナカさーーーーーー!」


 寝室のふすまの引き手をぐわしと掴んで、ふと考えた。


 きっと僕のお嫁さんは、僕の帰りをずっと待っていたに違いない。

 本人は否定するかもだけれど、ナナカさんはとても寂しがり屋で甘えん坊だ。

 そんな彼女が予定より大幅に遅れた僕の帰宅に、失望していない筈が無い。


 僕は始めに、一月留守にするとナナカさんに伝えた。

 じじ様にもそう言われていたし、僕もそのぐらいで帰ると心に決めていた。


 だがしかし蓋を開けてみれば、修行の過酷さと難易度は僕の想像の遙か上で、途中嵐に遭ってしまった事を含めても予定よりも半月以上多く時間がかかってしまったのだ。


 脳天気な僕はナナカさんはそれでも健気に待ち続けてくれていると思っていたけれど、善く善く考えてみたら愛想を尽かされてもしょうがないんじゃないか?


 普通に考えて、約束を破ってしまったって事じゃないか?


 あ……。


 帰宅出来たことに興奮して沸騰していた思考が、急速に冷えていく。


 僕は、僕を信じて待ち続けた人にーーーーーーなんて酷い事を。


 つい先ほどまで見たくて見たくて堪らなかった愛しい妻の顔が、今では襖を開けるのを躊躇う程に怖くて見れない。


 ………………でも、逃げる事はできない。


 よし、ここは男らしく! 勢いで!


 「ナナカさん!」


 壊れても良いぐらいの強さで、一気に引き戸を開く。


「ナナカさーーーーーーん?」


 真っ暗である。


 窓の障子も全て閉めているのか今宵の満月の月明かりすら差し込めずに、僕らの寝室は濃い漆黒の闇に包まれていた。


 あれ?


 僕のお嫁さんは?


 宵闇に目を凝らして室内を探る。

 薄暗い廊下から差し込んだわずかばかりの明かりを頼りに、足下に気をつけながらゆっくりと部屋の中へと入った。


 まず始めに行燈を探す。襖横に設置してある桐箪笥の上に一つ置いてある筈だ。

 箪笥はすぐに見つかった。

 高さは僕の腰ぐらい。かか様が亜王院に嫁いで来た時に購入した交易品でかなり年季が入っている物だけれど、元がしっかりとした高級な物だからかかなり丈夫な造りをしている。


 ぽんぽんと箪笥の天井部を何度も触って確認

し、ようやく行燈を見つけた。


 壊さない様に気をつけて中の火皿を取り出し、中央に設置してある着火晶石に向けて軽く力を送り込む。

 

 うっすらと火が灯ったのを確認して火皿を戻すと、薄くて火に強い紙を通して優しい灯火の光が室内を照らした。


 ナナカさんは、すぐに見つかった。


 窓側の一番奥、部屋の隅でお布団の端を抱えて幼子の様に丸くなって寝ている。


 敷き布団も敷かず枕も使わずに、額を壁にくっつけている。


「……なんで、こんな所で?」


 疑問に思ってゆっくりと近づき、その寝顔を腰を曲げて覗き込む。


 そこで僕はーーーーーー再び自分の愚かさを痛感した。


 ナナカさんは、泣いていた。


 いや、泣き疲れて眠ったのだろう。正確には涙の跡が目尻と頬に残っていた……だ。


 心細かったのだろうか。

 やっぱり寂しかったのだろうか。


 亜王院本邸には及ばずとも、僕ら二人で充分広く感じるこの家で一人、こうやって何日も夜を堪えていたのか。


「……あ、そうか」


 思わず、一人ごちる。


 そういえば、僕は修行に行く事をナナカさんに相談しなかった。


 勝手に自分の弱さに焦り、勝手に意気込んで、勝手に爺様に頼み込んだ。


 ナナカさんからしてみたら、寝耳に水のような話だっただろう。


 祝言を挙げたばかりで、まだ二人で過ごす時間も満足に積み上げていないのに、僕は自分勝手に家を出たのだ。


 ムラクモの里以外に行く場所の無い彼女にとって、帰る家はこの家だけだ。


 もうヤチカちゃんしか肉親が居ない彼女にとって、本当に心の底から頼れるのは夫である僕だけだ。


 ーーーーーーなんて、ことを。


 馬鹿だ。僕は大馬鹿野郎だ。


 夫婦なのに、二人で一つなのに。


 大切な大切な半身を置き去りにして、三三九度さんさんくどを交わして、その魂と時間を共に共有すると誓い合ったはずなのに。


 彼女の気持ちを、置き去りにしてしまった。


「ごーーーーーーごめん」


 思わず口から出た小さな言葉。


「ごっ、ごめんなさい。っく、ごめんなさいナナカさんーーーーーーひっ」


 気づいてしまった僕の過ちを悔いて、みっともない涙の粒が勝手に零れる。


「あぁーーーーーーごめ、ごめんっ。ごめんなさっ」


 腰を落とす。いや、崩れ落ちたと言えば良いのか。


 泥と土と血で汚れに汚れた着の身着のまま、膝を畳につけて僕はうなだれる。

 すぐ傍に眠るナナカさんの寝顔を見つめたまま、瞬きもできずに唯々涙を流し続ける。


 力無く、そっと右手を伸ばした。


 指先が触れるか触れないか。そんな微妙な距離で、僕はナナカさんの頬に触れた。


 熱い。いつものナナカさんの冷たくて気持ちいい肌とは違い、火照りに火照ったその頬はとても熱い。

 ついさっきまで起きていたのか。


 こんな夜遅くまで。何時帰ってくるとも知れない僕を待ちながら、一人泣きながら起き続けてくれたのか。


 ぽろぽろと零れ落ちる涙を拭う事もせず、僕は努めて優しくナナカさんの頬を撫で続ける。


「ーーーーーーん、うぅん」


 身じろいだナナカさんの目が、薄く開く。


 正面の壁の目を探りながら、やがて僕の手に気づいて、薄目のままゆっくりと視線を流して、朧気な視界と思考のまま僕の姿をその瞳に捉えた。


「た……おさ……ま?」


 白く細い喉から絞り出されたのは、泣いて掠れた弱々しい声だ。

 

「はっ、はい。ひっく、いっ、今帰りました。ナナカさんっ」


 嗚咽しながら、僕は愛する妻に返事をする。

 みっともない夫だ。

 弱い、弱い夫だ。


 申し訳なさと惨めさで、もう何をもって貴方に償えば良いのか分からないーーーーーー愚かで愚かでどうしようも無い夫だ。


「ーーーーーータオ……様?」


 緩く覚醒していく思考の波の合間を塗って、ナナカさんは再び僕を確認する。


「タオ様……タオ様っ!」


 勢い良く上半身を起こして、ナナカさんは僕の顔を正面に見据えた。


 寝間着の裾は大きく乱れ、その谷間を惜しげも無く晒してしまう程に、ナナカさんは取り乱しながら僕を見ている。


「すい、ずびっ。すいません。えぐっ、おっーーーーーー遅れてしまいました。ずっと待っていてくれたのに、なんの連絡も出来なくてもうしっ、うぅっ、申し訳ない」


 畳に擦りつける様に、僕は頭を下げる。


 幾ら謝っても許されないほど、僕は酷い事をしてしまった。

 

「タオ様っ、どうされたのですか!? どこかお怪我をされたのですかっ!?」


 ぐいっと顔を引き上げられ、ナナカさんは鼻と鼻の頭がくっつきそうな距離で僕を見た。


「どこですか!? 治しますからお召し物をっ!」


 汚れた顔。汚れた髪。汚れた身体。汚れた着物。 そのどれもを意にも介さず、ナナカさんは僕の隅々までもをその手と目で確認する。


 ああ、なんて優しい人だ。


 こんな酷い仕打ちをした僕なんかを、心配してくれる。


 怒ってもいいのに、幾らでも文句を言ってもいいのに、殴ってくれても全然良いのに。


 溢れ出るのは申し訳なさとーーーーーー愛おしさだった。


「タオ様いったいーーーーーーんむぅ!?」


 両肩を掴んで身を引き、その顔を引き寄せて唇を合わせた。


 頬に優しく手を添えて、背中に腕を廻して、強く強く抱き寄せながらその柔らかな唇を貪る様に吸い付ける。


「んむっ、んっ。ぷはっ」


 流石に驚いたのか、ナナカさんは顔を一度背けて僕から離れる。

 一度手の甲で口を拭って、目を丸くして僕を見た。


「たっ……たおさま?」


 そんな困惑しきっているナナカさんの顔を真面に見れず、頭を下げてその柔らかな胸に埋めた。


 激しく脈動するナナカさんの心臓の鼓動を聞きながら、僕は震え続ける喉から懸命に声を絞り出す。


「お待たせしてしまって、申し訳ありません。謝っても謝りきれないけれどーーーーーー」


 その細い腰に両腕を巻き付けて、壊れない様に、でも強く強く抱きながら僕は素直な気持ちを吐露する。


「ーーーーーー貴女に嫌われたくないんです。許してください。どうか、どうか」


 ああ、惨めだ。

 

 自分の失態を棚に上げて、彼女の優しさに縋っている。


 消えて無くなりたい程惨めで、自分で自分が許せそうに無い。


「……タオ様が、なんでそんなにも恐れているのか分かりません」


 僕の頭に両手を添えて、そのまま髪の毛の中に滑らせた。


 梳く様に上下に優しく撫でながら、やがてナナカさんは腰を曲げて僕の頭に頬を添えた。


「例え天地がひっくり返ろうとも、私が貴方を嫌いになる事なんてありえません」


 母が子をあやすかの様に、優しい声と口調でナナカさんは囁く。


「だってこんなにも貴方に焦がれているんですもの。離れているだけでこの身と心が裂けそうな程に、貴方を愛しているんですもの」


 いつの間にか背中に添えられていた手をぽんぽんと動かして、彼女は僕の頭に頬を擦り付ける。


「お帰りなさい。タオジロウ様。私の愛しい旦那様」


 ナナカさんの胸に埋もれながら、規則正しい落ち着いた鼓動に変わった心臓の音を聞く。


 ゆっくりと顔を上げて、顔と顔を合わせる。


 ナナカさんは目尻を緩めて、潤んだ瞳で微笑んだ。


 僕も釣られて、少しだけ笑う。


「ーーーーーーんっ」


 くぐもった声を出しながら、二人同時に唇を合わせた。


「ーーーーーーんちゅっ、あむ。んんっ、っはぁっ、れろっ、っちゅっ」


 舌と舌を絡ませて、やがて夢中になって僕らは互いの口内を探りあう。


 もう謝罪も必要なかった。


 今は只、僕はナナカさんのーーーーーーナナカさんは僕の。


 その肌と温もりと、愛だけが欲しいのだ。


 そして二人は自然と服を脱ぎ始めーーーーーー。





 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



「だからと言って、四日も家に籠もってよろしくやるこたぁねーだろ。俺らに挨拶もせずによぉ」


「五月蠅いですよとと様はっ!!」


 反省してますってば!

 本当にっ!

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