母娘②
『––––––もう、行かねばなりません』
長い間抱き合い続け、夜もそろそろ更け始めた頃。
ムツミ様は名残惜しそうに娘達から離れた。
二人の顔にそれぞれ手を添えて、魂の影であるその身では拭たくても拭えない涙の跡をなぞる。
ナナカさんとヤチカちゃんは、涙と鼻水でグズグズになった顔でムツミ様を見上げ続けた。
声も上手く出せないほどに泣き続けたのだ。
「これからどうされるおつもりか」
今まで黙って見ていた
『––––––義理の娘達を天へと預け、妻である私達はスラザウルと共に地獄へ堕ちます』
「え!?」
驚いたのは僕だ。
だって、他の奥様方は仕方ないにしてもムツミ様は本当に何も悪くないのに。
なぜ地獄に堕ちなければならないんだ。
「悪いがそれは無理な話だ。罪人がどうやっても天に昇れないように、罪人でない者もまたどうやっても地獄には堕ちれない。地獄の元締めである閻魔が見逃さん」
「そっ、そうですよね!?」
良かったぁ!
そんな理不尽な話があってたまるかってもんだ。
僕も聞いた話しか知らないけれど、地獄の責め苦は本当に辛いと聞く。
それこそ、魂までも粉々にするほど。
僕ら亜王院は元々地獄の獄卒に就いていた鬼一族の家系だ。
訳あって地上異界に流れついてはいるが、かつてのご先祖様は閻魔に仕えた立派な青鬼だったと聞く。
だから僕らの家には、ご先祖様が残した地獄に関する書物などが保管されている。
小さい頃こっそり盗み見たその書物の内容は、しばらく一人で眠れなかったぐらい恐ろしい物だった。
あんまりにも恐ろしすぎて、悪夢を見たぐらいだ。
あんな事を、ムツミ様が負う必要は全く無い。
あってたまるか。
『いえ、違うのです。実はもう閻魔様に了承を頂き、スラザウルの罪が償い終わるまで地獄の入り口に留まることを許されております。私達は、あの人の妻ですから』
「……数万年では効かぬぞ?」
『心得ております』
「天で清められ、先に輪廻の輪で廻り続けながらスラザウルを待つ––––––では、ダメなのか?」
『私はあの人と永遠の愛を誓いました。来世でまた出逢えるのならば、何万年––––––何千万年でも待ちましょう』
「それで––––––本当に良いのか?」
『はい。何も問題ありません』
押し問答に決着は付かず、父様は困ったように眉を曲げ––––––そして呆れたように笑った。
「––––––良い女だ。俺の妻達にも負けんほどに。あのバカには勿体ないな」
父様はなんだか納得したみたいだけど、僕は今一腑に落ちない。
いくら邪鬼に支配されていたとはいえ、伯爵のしたことは紛れもなく悪行だ。
あんな人をこうまで想いつづけるなんて、おかしいよ。
「––––––ナナカとヤチカはお任せください。私の息子がしかとお守りいたしますから」
父様の隣に立つ母様がムツミ様の影に微笑みを向ける。
「息子の嫁は私の娘も同然です。ヤチカもまた、我が子と同じぐらい大切な子。貴女は心置きなく、旦那様のお帰りをお待ちください」
その言葉に、ムツミ様は深々と頭を下げた。
『ありがとうございます……鬼姫様。私の宝物––––––娘達をどうかよろしくお願い致します』
光の輪郭がボヤけ始めた。
本当にもう時間が無いのだろう。
「––––––お、お母様」
「––––––お、おかあさまぁ」
ヨロヨロと、ナナカさんとヤチカちゃんは二人支え合いながら立ち上がる。
これが本当の、今生の別れ。
現世ではもう二度と会う事はない––––––最後の旅路へのお見送り。
だから僕は邪魔をしないよう、その身を引こうと考えた。
だけどナナカさんの弱々しい手が僕の着物の裾を握って離してくれない。
『––––––ナナカ、母の分まで幸せになりなさい。終わりはとても辛い物だったけれど、私はお父様と出会えて本当に幸せだった。だって––––––』
もう一度二人の肩を抱くように、ムツミ様の影が形を変える。
『––––––貴女達に逢えた。お腹を痛め、共に泣き、共に笑い合えた日々は間違いなく、母の幸せでした』
「––––––お母様。わ、私も。お母様の娘で……しっ、幸せでしたぁ」
ぶるぶると、ナナカさんの身体は震え続ける。
悔しさと嬉しさとでないまぜになった感情が、彼女の身体と心をそう動かしているんだ。
『ヤチカ……貴女にはもっと色んな事を教えたかった。いっぱいお喋りして、いっぱい笑わせて、いっぱい困らさせられて。本当にごめんなさい。寂しい想いをさせてしまう母を––––––責めても良いのですよ?』
ヤチカちゃんは首をぶんぶんと力強く振って、ムツミ様を見上げる。
涙の粒は未だその瞳から零れ落ち続けるけど、だけどほんのりと––––––笑った。
「う、ううん。ヤチカは、おねえさまといっしょだから。さびしくないよ。おにいさまがね。ヤチカとおねえさまはずっといっしょだって、おまもりしてくれるってやくそくしてくれたの。だからおかあさま––––––」
自分のスカートの裾をギュッと握りしめる。
泣いて、どうしようもなく泣いて辛いのに、だけど大好きなお母様に心配をかけないようにと––––––。
「––––––あんしんして、いって……らっしゃいませ」
涙を浮かべたままにっこりと、笑った。
『ああ––––––、ああっ! ヤチカっ! 大好きよヤチカっ! 母はずっと、ずっと貴女を愛しております!』
ムツミ様の声が、一際大きく木霊する。
泣いているのだろう。
悲しんでいるのだろう。
たとえ肉体を失っても、ムツミ様の心には常に娘達の愛で溢れている。
言わなきゃ。
この時、この場で。
僕もムツミ様に何かを言わなきゃ。
彼女が心置きなく旅立てるように、なんの心配もなく––––––逝く事ができるように。
いや、違う。
そうじゃない。
そんな失礼な事、言えない。
僕は僕の本当の気持ちを、ナナカさんのお母様––––––僕の義理の義母様に伝えないと。
おためごかしの取り繕ったモノじゃなく、本心で。
「僕は––––––」
ゆっくりと、だけどはっきりと。
僕は口を開く。
「僕はまだ未熟者で、とても頼りないけれど」
自分の弱さをちゃんと知り、自分の力をちゃんと推し量り、何度も何度も心が折れて、その度にボロボロになりながら立ち続けるという、情けない日々を過ごしてきたけれど––––––それでもなお叶えたい物がようやく、出来たから。
「ナナカさんを守りたいって、思ったんです」
この
この
「強くなります。もう二人が泣かなくてもいいぐらいに、もう二度と辛い想いなんかしなくてもいいように」
ヤチカちゃんが笑って過ごせる明日が欲しいから。
ただ笑って、穏やかに生きていける未来が欲しいから。
「強くなります。僕が強くなれれば、二人がいつまでも一緒に居られるなら、僕はもう絶対に––––––弱音なんか吐きません。だから––––––」
この手で二人を守れるなんて、それはどんなに幸せな事なんだろうか。
欲しい。
こんなに何かを欲したのなんか、生まれて初めてだ。
誰にも邪魔なんかさせない。
これから先の努力の果てにそんな未来が待ってるなら、僕は何が来ようと耐えられる。
欲しい。
とても、とてもとても。とっても欲しい。
心の底、魂の奥。
見たこともないほど深い深い精神のさらに奥。
自分でも知らない熱い僕が、そこから張り裂けんばかりの声で叫んでいる。
だから、最初にお願いしなければならないのは。
最初にムツミ様に伝えなきゃいけない言葉は。
きっとこの言葉しか、ない。
「––––––娘さんを僕にください」
本来なら頭を下げなければならないのだけれど、僕はまっすぐムツミ様を見据えて、そう告げた。
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