貴女の涙を拭うため④

 話し終えたナナカさんは、一度大きく深呼吸をして目を伏せた。


 正座した膝の上でずっと握られている手は、痛々しいまでに赤く変色している。


 辛かったのだと思う。


 自らの境遇を語ることでお母様や妹のこと、そして自身に降りかかった災難を頭の中で反芻してしまったのだろう。


 前髪で隠れている目元に、キラリと光る粒が見えた。


 それは一筋の線を頬に描き、顎を伝い、そしてナナカさんの手に落ちる。


 たった一粒。


 それだけの涙。


 本当なら大声で泣き喚きたい筈だ。


 どうして自分がこんな事に、どうして妹がこんな事に、そしてどうして母があんな辛い目に合わなければならなかったのかと、彼女はきっと叫びたいはずだ。


 だけど、彼女は堪えている。


 一度蓋を外せば、もう止められない。


 さっきかか様の前で見せた子供のように泣きわめくあの姿は、涙で満たされたコップの縁に優しさが触れたから。


 あれだけ泣いて、あれだけ声をあげても。


 彼女の悲しみは癒せない。


 今こうして耐えれて居られるのも、一度全て溢したからだ。


「……これが、私がタオジロウ様との婚姻を望む理由です」


 微かに震える唇から出た声は、申し訳なさと情けなさの混じった物だった。


「……失礼なお話です。たとえどんな理由があったとしても、身勝手で打算的な結婚など罵倒されて然るべきだと思います」


 そうだろうか。


 だって彼女は、全てをつまびらかにしたじゃないか。


 黙ってればいいのに、喋らなければいいのに。


 わざわざ僕にその理由を語ってくれたじゃないか。


「––––––どうして、話してくれたんですか?」


 聞かなくてもいい事だとは思った。


 でも僕は知りたい。


 彼女の不幸な身の上を聞かされて、彼女の泣き顔を見て、僕はそう思うようになった。


 自分でも不思議だと思う。


「……アスラオ様に対するお父様の姿を見て、隠す事は決して得にならないと思いました。あの方は多分、私達の浅ましい考えなど全てお見通しなのだと。でも一番は––––––」


 ゆっくりと顔を上げ、ナナカさんは僕の目をジッと見つめる。


 瞳の翠色を鮮やかに、そして優しげに。


「––––––貴方様が、お優しい顔をされていましたから」


 僕のお嫁さん––––––いや、お嫁さんになる人は、薄く微笑んだのだ。


「騙すわけにはいかないと、何故か思えました。昨日出会った貴方様の一挙手一投足に、私への気遣いが見て取れたから。こんな優しい人を––––––私達姉妹の事情に巻き込んではいけないと」


 僕は。


 僕は何も知らない子供だ。


 剣を振ることしかしてこなかった。


 女の子の気持ちなんて考えたことなかったし、どう接して良いのかもわからない。


 ナナカさんは綺麗で、そして強くて弱い人だ。


 自分の弱さを知ってなお、困難に抗う心の強さをもった素晴らしい人だ。


 優しいのは––––––この女性ひとの方だ。


 僕は正座の姿勢を解き、ベッドから降りる。

 窓に歩み寄って外の景色を見た。


 話を聞いていたら、いつのまにか夜になっていたらしい。


 冬の星空はとても明るく、下弦の薄く細い月が淡い光なのにとても強く爛々と輝いている。


 その月の姿と、ナナカさんの姿が重なった。


 うん。

 心は決まった。


 僕に出来ること、してあげたい事が決まった。


「ナナカさん」


 ベッドの上で正座をしながら、顔を伏せている彼女の名を呼ぶ。


「……はい」


 覚悟を纏った小さな声で、彼女は返事をする。

 事情を話したのは、僕に結婚を破棄させるため。


 それは、彼女の話を聞いているうちに理解していた。


 だけど––––––。


「……わかっております。此度の縁談、亜王院にとってもタオジロウ様にとっても無礼この上ない話です。私は明日、屋敷に戻ってお父様に––––––」






「––––––結婚してください」







 僕は決めたんだ。


「––––––え?」


 ゆっくり振り返り、ナナカさんの姿を見る。


 僕より少しだけ身長が高い彼女。

 どこか儚げで、触れれば壊れそうなほど華奢なその体。

 どこまでも美しく、また可愛らしいそのお顔。

 誰よりも妹への愛が深く、そして強い自己犠牲の精神。


 彼女の尊厳は、まだ誰にも汚されていない。


 だから僕は––––––決めたんだ。


「僕と、夫婦めおとになってください」


 その瞳から流れ落ちる綺麗な涙を、少しでも拭いたいと。

 守りたいと。




 守るって、決めたんだ。

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