貴女の涙を拭うため③

 ナナカさんが僕に語ってくれた身の上話は、こういう物だった。



 ––––––––––––––––––––––––––––––



 ナナカさんのお母様––––––ムツミ・フェニッカ様は、ここより南方の島に住む、とある部族の族長の一人娘として生まれた。


 その島国では代々族長の娘は巫女としての修行を受け、神事などを取り仕切っていたらしい。


 当然ムツミ様も巫女として修行を受け、歴代でも優秀な力を持つ巫女姫として島民から尊敬されていた。


 ところがある日、敵対する隣接した島の部族に突然攻められ、ムツミさん達の部族はこれをなんとか退ける。


 だが争いによって田畑や家畜などを失い、島民は明日の食料さえままならない状況に追い込まれる。


 そこに現れたのが、以前より細い交流を持っていたアルバウス領の領主であるアルバウス伯爵。


 名産の果物などを船で輸出していた島民と、その大口の買い手という関係である。


 アルバス伯爵は莫大な金銭や物資、そして兵力を持っていて、食糧支援や復興を一手に担い、島民達はなんとか命を繋げることができたらしい。


 恩義に報いるため、部族の長であるムツミ様のお父様––––––つまりナナカさんの祖父は、アルバウス伯爵にこう告げた。


『我らには貴方の財に比肩しうる宝物も、そして金もない。だが我らは部族は決して貴方への恩を忘れない。なんでも良い。我ら出来ることを言ってくれ。喜んで受けよう』


 その問いに、アルバウス伯爵はこう返す。


「族長。貴殿の娘のムツミどのを––––––我が妻に迎え入れたい」


 その頃のムツミ様は、アルバウス伯爵に淡い恋心を抱いていた。


 部族の危機を、家族の命を救ってくれた男性だ。

 そんな彼に恋慕の情を抱くことに、なんの疑問もない。


 アルバウス伯爵家は古く、そして由緒正しい貴族だ。


 だから彼がすでに二人もの妻を持っていても、それは当然のこと。


 伯爵が自分を欲してくれるなんて、断る理由が見当たらない––––––と。


 めでたく二人は、祝福の内に婚姻に至る。


 ムツミ様は巫女姫の座を辞して、遥かアルバウス領へ。

 いくつもの困難があるかもしれないが、二人の未来には一点の曇りもなかった。


 ナナカさんが––––––生まれるまでは。


 伯爵領内でも噂されるほど仲睦まじかったムツミさんと伯爵だが、二人の間に生まれたのは、伯爵家系では生まれるはずの無い金の髪色を持つ女の子。





 伯爵は、妻の不義を疑った。

 疑ってしまった。




 ムツミ様がどんなに否定しようと、彼は一言も耳を貸さず、怒りを露わにして妻を罵倒した。


 愛していたはずだった。

 お互いが、お互いを尊敬し、尊重していたはずだった。


 だからこそ––––––深く深く愛していたからこそ、裏切られたと感じた伯爵の思いは激しく『裏返る』。


 妻を領内の僻地へと追いやり、屋敷に幽閉した。


 不貞の証拠も、その相手も見つからなかったことから、妻を罪に問うことはできなかった。

 その考えに至れるほど伯爵が冷静だったのは、せめてもの救いだろう。


 アルバウス領を国土として持つアルベニアス王国では、不貞不義密通は死罪だ。


 貴族家の者とて例外は無い。


 彼は裏切られたと感じていても、心の底ではまだムツミ様を愛していたのだろう。


 だがそれからの七年間、伯爵は妻と娘に会うことは一度も無かった。


 物心ついたナナカさんが初めて父親に会ったのは、彼女が八歳の頃だった。


 幽閉されていた屋敷に、豪奢な馬車に乗った、恰幅の良い男性が訪ねて来たのだ。


 それが自分の父だと知ったのは、その夜にムツミ様が涙を流して喜んで話してくれた時だ。


『お父様が私への誤解を解いてくださいました。私とナナカを愛してくださっておりました』


 と。


 冬の間だけ屋敷に滞在していた父親とは、一切の接触も許されなかった。


 ただ夜になると、ムツミ様だけが寝室に呼ばれ、そして朝まで戻ってこない。


 そんな生活がしばらく続き、めでたくムツミ様は懐妊することとなる。


 腕利きの術師や医術士などを呼び寄せ、寂れた屋敷にいた数名の使用人達はみな喜びに打ち浸る。


 だが、八ヶ月後。


 お腹の中の子供の性別が術師の術によって判明するやいなや、その空気は一変した。


『また女児を身籠もるとは、どこまでもワシの期待を裏切る女だ』


 その言葉を––––––ナナカさんは一生忘れられないだろう。


 アルバウス伯爵には、世継ぎが居なかった。


 先に妻とした二人も、ムツミ様の後に迎えた妻も、男児を産むことが無かったのだ。


 彼が八年越しにムツミ様に会いに来たのも、全ては世継ぎを孕ませるため。


 そこに、妻と娘への愛情など––––––一欠片も無かったのだ。


 その日から父は屋敷に来ることは無くなり、ナナカさんの妹––––––ヤチカ・フェニッカ・アルバウスは嵐の夜に三名の使用人達の手でこの世に生を受ける。


 髪の色は、ナナカさんと同じ金色。


 同じ色なのだ。


 だが今度は、ナナカさんの時とは状況が違う。


 屋敷の使用人は全て女性で、ムツミ様は屋敷の敷地内から一歩も外には出れない。


 伯爵にムツミ様の監視を命じられていた使用人がそれを伯爵に説明したところで––––––ムツミ様への疑いは一切晴れなかった。


 ヤチカちゃんが生まれて、三年後。


 ムツミ様は流行り病を患い、必死の闘病生活も虚しく亡くなってしまう。


 質素な葬儀の後に屋敷近くの霊園にムツミ様を埋葬した一週間後。

 ナナカさん達姉妹は、突然アルバウス本宅へと呼び戻された。

 理由は、アルガマの宰相への貢物として、結婚話をまとめるため。

 ナナカさんは、アルバウス家の家名を高めるための駒として、父に欲せられる。



 母の死を嘆く時間も僅かに、遠く離れた見知らぬ土地を訪れた姉妹を待っていたのは––––––地獄のような日々だ。


 腹違いの四人の姉達は、二人を不義の子として酷く痛めつけた。


 頬を張られる。

 腹を蹴られる。

 乗馬用のムチで打たれる。

 水瓶に顔を押し込まれる。

 紐で首を絞められる。


 それは、いじめなどという軽い表現では形容できない––––––拷問。


 傷跡は医術や法術によってたちどころに消えてしまう。

 誰かに助けを求めようにも、本家の使用人達はみな姉達の味方であり、むしろナナカさん達は貴族の家名を汚す存在として忌避されていた。


 父親は黙認し、義母達は笑って行為を見ていた。


 ナナカさんはそれを、歯を食いしばって耐えた。


 せめて幼い妹だけはと、そのいじめを一身に受けた。

 あえて口答えしたり、歯向かったりと身を呈し、その矛先がヤチカちゃんに向かわないようにと、憎悪や怒りの感情すら嚙み殺し、ただただ日々を耐え抜いた。


 頭の片隅にあるのは、妹の将来の不安だけ。


 アガラマの宰相、バダン大司祭との婚姻はもう殆どまとまりかけていたからだ。


 姉達が嬉々として語ったバダン大司祭の悪評を受け、自分の生などとっくに諦めていた彼女だが、妹のヤチカちゃんだけは諦めきれない。


 今まで守っていた自分が居なくなると、姉達の悪意は全て妹に向かってしまう。


 焦っていた。


 期限は刻一刻と迫っている。

 なんの後ろ盾も、権力もないナナカさんに人脈などあるはずもなく、焦燥感だけが日々募っていく。


 そんなある日、つい2日前。


 アルバウス家に一人の男が訪ねてきた。

 身の丈は馬より高く、身体は分厚い筋肉に覆われていて、そして誰よりも偉そうで誰よりもふてぶてしい男だ。


 名を亜王院・アスラオ。


 僕のとと様である。


『よお、スラザウル。貸しっぱなしの借りを取り立てに来たぜ』


 使用人や警備の兵を押しのけて、無理やり父の部屋に訪ねてきた男は、偉そうな口調と態度でそう告げた。


 ナナカさんはちょうどその頃、雑用という名の姉達の憂さ晴らしに付き合っており、伯爵の部屋で掃除を行なっていた。

 まるで奴隷のようにボロボロの服を着せられて、首に紐をかけられた屈辱的な掃除だったらしい。


 突然現れた筋肉オバケの一言を聞いた父は、見たこともない動揺を見せた。


『あ、あああっ、亜王院の頭領! き、貴様! 何の断りも無くワシの屋敷に押し入るとは、無礼が過ぎるであろう!』


『太ったなーお前。昔はもっとマシな顔してやがったが、すっかり貴族っぽい姿になりやがって』


『話を聞け!』


 恐怖。

 伯爵がその時抱いていた感情は、間違いなく恐怖だ。


『で、どうすんだよ。お前あの時言ってたなよな? 金が揃い次第、使いに持たせて俺らに届けるって。何年経ってんだよ。あぁん?』


 伯爵の執務机に足をかけ、ひっくり返す。


 チンピラのような態度なのに、どこか『当然』と思える振る舞い。


 ナナカさんには父様が何者なのか全く理解できなかった。


 伯爵はこの地の領主だ。

 彼に偉そうにしていいのは統治を預かった王陛下のみで、他の誰も伯爵に反抗することなどできない。


『かっ、金は今無い!』


『おう、んでどーすんだよ』


『なっ、無い物はどうする事もできんだろう!』


 伯爵のその態度は、彼の地位や権力から来るちっぽけな虚栄心だと、ナナカさん見抜いていた。


 いつも偉そうに、そして無慈悲に振る舞う自らの父親が、みっともなく足腰を震え上がらせて怯えるその姿に、胸が空く思いだった。


『利子つけるって言ったよな俺。返せないとどうなるのか、お前は理解してると思ってたんだがな』


 机の上で胡座をかき、呆れるように伯爵を見下ろす父様。


『きっ、貴様! 陛下より賜りし貴族であるワシをっ! 脅しておるのか!?』


『関係無えんだよ。お前らんとこの王も、そして貴族とかもな。俺ら一座は何者にも屈せず、何者にも縛られない。るってんなら受けて立つぜ? 刀集の力、もう一度見せてやろうか?』


 その言葉に、伯爵の顔が情けなく歪んだ。


『––––––そっ、そうだ! 娘! ワシの娘をやろう! アレだ! どうだ美しかろう!?』


『あぁん?』


 その時始めて、父様はナナカさんの顔を見た。

 半目で睨みつけるように、だがしっかりと見透かすように。


『ワシの自慢の娘だ! 貴様らに払うはずの金と同じ価値がある! どっ、どうだ!?』


 ゆっくりと緩慢な動きで伯爵へと向き直した父様の顔を、この時のナナカさんは見ていない。


 見なくて正解だった。

 なぜなら父様の眼力は、弱い者なら生を諦めるほどの––––––射殺す殺気だから。


『ひっ! ひいいいいっ!』


 伯爵が上げた悲鳴は、鶏を締めた時の鳴き声に似ていた。


『……テメエ、このクソ野郎が。俺に人を買えと言ったな? 俺ら亜王院は旅の商隊キャラバンの一座だが、奴隷売買などと言う下衆な商売はしねぇんだよ』


『ちっ、違う! こっ、婚姻だ! ワシと貴様らとの婚姻を結ぼう! それならっ、それなら借金を踏み倒す恐れが無くなるであろう!? 金は必ず払うっ! なっ、どうか! どうかそれで許してくれっ!』


『なぜ俺らがお前らクソ貴族と血縁にならねばならんのだ。そんな真似をするぐらいなら、お前の命を持って借金の足しにしてくれる』


『まっ、待て! あの娘はウズメの部族の血を継いでいる! 貴様らも聞いた事があるだろう!?』


『––––––それは、確かか?』


 再びナナカさんへと向き直った父様の目には、驚きの色が浮かんでいた。


 獰猛な獣のようなその瞳に気圧されたナナカさんは、一歩も動けずにいたらしい。


『たっ、確かだ! アレの母はウズメの部族の巫女姫だった!』


『––––––だがあの部族は何年か前に途絶えていたはずだ』


『その前に娶ったのだ!』


『なら、なぜ部族の危機に助力しなかった』


『アレの母が不貞を働いたからだ! ワシの実の娘では無い!』


『––––––だから、妻の身内の死を放っておいたと。スラザウル、貴様!! 若かりし頃の気高き精神をどこに捨ててきた!!!』


『ひっ、ひいいい!』


 父様の圧に怯みに怯んだ伯爵は、盛大に小便を漏らしたという。


 しばらく部屋に沈黙が訪れ、その場にいた誰もが動けずにいた。


 そして、父様がようやく口を開く。


『……よかろう。あの娘は亜王院が頂く。俺の息子の妻にな』


『じゃ、じゃあ!』


『心して聞け、堕ちた英傑よ。これは我が一族が貴様に送る最後通告だ。これ以上人に非る姿を見せた時、我らは貴様に一切の慈悲もかけず殺してやろう』


 そう言って父様は執務机から勢いよく降り、部屋の扉へと歩き出す。


 ナナカさんの隣を、ゆっくりと。


『娘、名は?』


 突然話しかけられたナナカさんは、身を強張らせた。


『な、ナナカ・フェニッカ・アルバウスと申します』


『そうか。俺はアスラオと言う。支度をしろ。屋敷の門で待っている』


 そしてナナカさんの頭を一度優しく覆い、父様は部屋を出る。

 伯爵家の屋敷に飛び込んできた嵐は、色んな余韻を残して去っていった。


『ひっ、ひぃ」


 荒く息をして震える伯爵に、ナナカさんは思わず駆け寄った。


 父だから心配だったわけではない。


 勝手に決められた自分の婚姻を、問いただすためだ。


 本来なら、あと一年の猶予があった。

 その間にどうにかして、妹であるヤチカちゃんを安全な場所へと匿うつもりだった。


 だけど突然、その猶予が無くなったのだ。


『お、お父様……あ、あの』


『くひっ、くははははは!』


 小便を漏らした、情けない姿の父が突然笑う。

 その姿に、狂気が孕まれている。


『こ、これはまたとない好機だ! いいかお前!』


 強く両肩を掴まれて、ナナカさんは激しく揺さぶられる。


『一刻も早く亜王院の子を孕め! お前の子をあの一族の頭領とするのだ! そうすれば、あの強大な力はワシの物になる! アレらの力さえあれば、ワシはこの国はおろか近隣諸国を統べることすら可能なのだ!』


『いっ、痛いですお父様。離して、離してくださいまし』


 身をよじってその手を振りほどくと、伯爵は勢いのままに床に倒れこんだ。


 そして首を持ち上げ、血走った目を見開いた。


『アルガマの宰相には領内の若い未婚の娘を十人ほどあてがえば許してくれるだろう! あの大司祭はただ若い女を甚振いたぶり殺したいだけだからな! だが心しろ売女の娘! 貴様が裏切れば、あの変態の元に嫁いで無残に死ぬのは妹の方だ!』


『なっ!!』


『二年、二年やろう! 二年経って子を宿せなかった時、お前の妹は死地に嫁ぐ! いいか! 忘れるな! 貴様の子が、亜王院の頭領となってワシに尽くすのだ!』


 新たな絶望が、ナナカさんへと降り注いだ瞬間だった。



 ––––––––––––––––––––––––





 僕はこの話を、ただ黙って聞いていた。


 胸の内に宿る、感じたことのない熱を伴いながら。





 その熱は、なによりも暗い漆黒だった。

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