最高の栄転

nobuotto

第1話

「小川さんお待たせしました」と人事部長秘書に言われ、私は部屋に入っていった。

 人事内定の辞令である。

 身が引き締まる思いであった。

 スーツを買い換えるお金と時間の余裕はなかったが、内定の通知が出ると知らされ急いでワイシャツとネクタイは新調した。それで何かが変わるわけではないが、いつでもベストを尽くすというのが私の信念である。


 すでに同期入社のトップ2は海外支社部長補佐の内定を貰っていた。いつもの辞令とは違い課長以上の辞令は出世街道の通行許可証、これから先の自分の人生を決める辞令である。

 我が東洋興行だけでなく、一部上場企業であれば、そこそこの成果さえ出していれば係長までにはなれる。ここまでは、社員に対する会社責任ともいうべき役職であり、同期の誰もが保証された横並び護送船団役職である。

 しかし、本当の出世競争はここからである。

 トップ2は同期の誰もが認めるずば抜けた成果を出してきている。彼らが出世街道の通行許可証を手にすることは当たり前の結果であった。そして、私は二人のあと、つまりナンバー3である。これも同期の誰もが認めていた。ナンバー3と言っても、トップ2は文系、経理・営業畑である。それに比べ私は理系、研究開発畑であり、理系での同期トップは自分であるという自負がある。その自負を支えるだけの成果をこれまで出してきているのだ。

 しかし、会社で出世すること、同期の誰よりも早く出世の階段をかけあがること、それ自体が私の目的ではない。明治創業の我が社東洋興行は、国際的な貿易企業としても有名であるが、それ以上に車、コンピュータ、家電製品のあらゆる分野に置いて画期的な部品・製品を世に出してきた。どの分野でも国際的な競争が激しい中、100年以上も世界に君臨しつづけている。私が東洋興行に入社したのは、単に世界的な優良企業だからというのではない。何よりこの会社が生み出す製品の革新性、そして機能美という言葉に相応しい製品に幼い時から夢中だったからである。

 トップ2が経営畑として戦略を仕切る左脳であれば、自分は世界に勝てる技術を生み出す右脳なのである。

 自分こそが、今の会社、そして将来においてもこの会社の頭脳としてふさわしい。だからこそもっと出世して自分の能力を数倍、数十倍活かすことができる環境に上って行かないといけないのである。

 やっとその時が来た。より大きな組織と権限を手中にすれば、これまで以上に活躍できる。体が小刻みに震えて止まらない。私は、気持ちを落ち着かせるためにドアの前で大きく深呼吸をし、そして今、部長室へ入ってきたのである。


 なるべく平静を装い部長がいる異様に大きく古びた机の前に立った。

 部長はニコリともせず私を見上げている。

 輝かしい昇進の辞令であれば、部長は満面の笑みで迎えてくれるはずなのに、渋い顔をしている。アメリカ西海岸の研究所副所長とまでいかなくとも国内拠点研究所部門長くらいには昇進できる実績は出しているはずである。社内の下馬評でもそうした噂が囁かれていることを私も知っていた。

 しかし、期待にそぐわない人事査定に部長も済まなく思っているから表情が暗いのだろうか。少々不安になった心を押し殺すように私は言った。

「部長。辞令を受け取りに来ました」

「うん」

 部長は私から目を背けるようにして辞令を渡してくれた。


 そこに書かれていた勤務先は「穴」であった。


 部長が静かに話し始めた。

「入社以来君には大きな期待をしていました。それは君も分かってくれてますよね」

 学生時代から部長にはお世話になってきた。私の研究の将来性と、それを実現できる私の可能性を見出してくれた部長が会社を説得して多大の寄付を行ってくれた。そして私をこの会社に引き抜いた。部長の期待に報いるためにも、入社以来全ての時間を私は研究に費やしてきた。そして部長の期待以上の研究成果をだした。私の研究成果で開発された素材は、海外各社から注目され多大な利益を生むこととなった。係長になってすぐに社長賞の栄冠を得たのは東亜興行の歴史の中でもほんの数人しかいない。勿論、こうした栄誉、ビジネスでの成功は嬉しいことであるが、それ以上に、私が憧れ続けてきた東亜興行の輝かしい製品の一つとして私の研究成果が加わったこと、そして、この東亜興行の名だたる研究者、技術者の中に胸を張って加わることができた気がしたことが何よりも嬉しかった。単なる歯車ではなく、東亜興行を支える人材は自分であるという幸福感に満たされたのだ。


「所属が穴というのは。これはどこなのでしょうか」

「穴は穴です。詳しいことは今後話しますが、いずれにしろ小川君の生活拠点は変わります。その準備をしてくれますか。ところでご家族は」

「私は独身です」

「そうでした。そうだから、でしたね」

 苦虫を潰したように言う部長に「私は全てを会社に捧げてきたのです」という言葉を飲み込んだ。それを部長に言ってもしょうがないし、自分がこの会社でどれだけ献身的に働いてきたかは部長が一番分かっているはずだ。

「それでは、準備を進めてくれますか。詳細については後日連絡します」

 部署に戻ると皆は私の栄転先を興味津々で聞いてきた。「穴」と言っても誰も信じないだろうし、この移動については内密でと言われていたので「人事は最終決定してから」と笑い返すしかできなかった。


 年度も変わる頃、再度私は部長に呼ばれ専用車に乗せられ郊外の建物に向った。

 すでに仕事の引き継ぎは終了し、暇を持て余していた矢先だった。

 初めて訪れる建物であった。入り口には東亜興行所有と社名だけの看板がぶら下がっていた。

 私は、これまでのモヤモヤした気持ちが晴れるような気がした。東亜興行ほどの先端企業は、社内でも知らないトップシークレットの研究所を持っているのだ。ここで、本当の最先端の研究を行っているに違いない。幹部一部のみが知っている最先端の研究所。私は自分への評価が期待通り、いやそれ以上に高いことを確信した。

 部長とその建物の中に入ると、そこは何もないガレージであった。

 しかし、何もないと思ったのは間違いであった。

 そこには大きな「穴」があった。

「部長、この穴は」

「小川君、中をみてごらんなさい」

 穴の縁に手をかけて下を除いた。

 穴の中は七色に輝く液体で満たされていた。

「すまない」

 部長の声と共に私は突き飛ばされ穴に落ちていった。

 液体は半個体であった。身体が液体の表面にふんわりと張り付いている。

 小さな枝が、体中にまとわりついてきた。その枝を筈そうしてしても次から次に枝がまとわりつき、そして身体がゆっくり沈んでいく。

 部長の声が聞こえた。

「私も残念だ。君は優秀過ぎた。ここは会社の頭脳だ。君のような優秀な人材を飲み込み消化し、その才能を会社のネットワークに情報として送る穴だ」

 意識がなくなっていく中でなんとか私は声を絞り出した。

「し、しかし、私の才能をここでなくても…」

「確かに個人としての才能は必要なんです。けれど、最後は組織力、個人より組織、会社自体が最高の頭脳を持つことが最重要なんです。全体でナンバー3くらいの人材、それも理系が一番適した細胞なんです。君がもう少し凡人であればと思うばかりです。本当にすまないが、わかって下さい」

私にまとわりついてくる枝の感触は素敵だった。枝は無機質で開発された筈だろうに、自然の柔らかな蔦のように体を覆いつつ、その先端が何の痛みもなく入ってくる。

「素晴らしい技術だ。人間に対する敬意が感じられる。一人の天才ではなく、この穴に入った何人もの技術者たちの知恵が育て作り上げた技術に違いない」

 意識がなくなっていくと同時に、段々と私は幸福感に満たされてきた。

 私は会社のために、会社の頭脳の一細胞に変わっていく。

 結局私が望んでいたのは、これだったのだ。

 

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