7話 第十四居住区(4)

 シャワー室で頭から生温いお湯を浴び続けた。吐き気はまだ胃の奥で渦巻いていて、頭痛もする。

 イライナは深くため息を吐いた。口の中がまだ、酸っぱいような気がして気分が悪くなる。


 雪路が奇妙な術をイライナに施した後、彼女の世界が劇的に変化していた。

 そこかしこに輝く薄らぼんやりとした人形。それらが泣きながら彷徨う姿。悲鳴にうめき声、転がる首。血だまりの、苦痛に満ちた世界。

 地獄のような光景が、地下の独房と重なって広がっていた。

 かつて、この軍支部が建っている場所が、処刑場だったと言う話は聞いたことがあった。だが、気にしたことはなかった。どうせ過去の話であり、自分たちには関わりないことだと思っていたからだ。


(大ありだ)

 再び、イライナは息を吐いた。

 それは人間の魂だと、ゲロを吐き続けるイライナに、雪路は何とでもない様子で説明してみせた。


 昇天できない魂。死者。本来、この世界には留まっていないもの。

 昔からお伽噺のように聞かされてきた。

 人間の魂は、死んだら神様が迎えに来てくれて、速やかに天国まで連れて行ってくれる。次の命を受けるために旅立つのだ。

 実際はどうか。人間への怨嗟をまき散らしながら、彷徨い続けている幽霊たち。

 自分も死んだらああなるのだろうか、という不安が拭いきれなくなる。


―――結構な所にビルを建てているな。

 アデルが支部の敷地に入った時の言葉が今、鮮明に蘇る。

 そういう意味だったのだ。


 死者だらけ。魂だらけ。無念だらけの土地。死者という救えない人間の魂の上に、“人間を救う”という機関の建物がある、というのは、なんとも、珍妙な話だ。


(ともかく、話を中断させてしまった……)

 イライナは傍に置いてあった柔らかいバスタオルで全身を拭きながら、気合を入れ直すために頬を叩いた。

 ―――イライナが吐いた後、雪路は慌ててイライナに同じ術を施した。そのお陰か、見えていた魂が大分見えなくなって、声も遠くなった。だが、サフィール達は雪路たちに一斉に銃口と剣先を向けたのだ。


 が、

「僕、ちゃんと忠告したよ。それなのにイライナが不用意に目を開いちゃったのが原因だからね」

 雪路の言葉は相変わらず正論で、ぐうの音も出なかった。

 だが、イライナの体調が戻るまでは、アポストロの防護壁破りの試験は中止、と相成った。

 当然、アデルが不機嫌そうな表情を作ったが、それでも「具合が良くなるまでは無理をするな」という声を掛けてくれた。

 イライナはすぐさま医務室に連れて行かれ、体の隅々まで調べられ、異常なしと診断。やはり奇妙な力がイライナに働いているのだろう、と文化人にはあるまじき曖昧な診察で話が終わった。


 いや、実際に奇妙な力が働いているのだろう。異世界出身という、アポストロという不可思議な存在によって齎された力なのだから。

(……さて、早く戻らなきゃ)

 服を着替え終え、腰に剣を吊った。イライナはシャワー室から外に出る。

(まず、ノイシェ中将に連絡をしなければ)

 シャワー室の出口へ向けて、視線を泳がせて、

「……ん?」

首を傾げた。


 廊下を足早にイライナは歩き出す。

 導かれるように。誰かに手を引かれるかのように。見えない力が働いているとしか思えないほど。

(なんだ……?分かる……)

 不思議で仕方が無いのだが、驚きまではしない自分に驚いた。

(こっちに、アデルがいる)

直感が、告げてくる。


 長い廊下を抜けて、中庭へ出た。いわば軍人たちの憩いの場であり、芝生に寝転がって眠っていたり、ベンチに座ってお喋りをしていたり、各々自由な時間を過ごしている。今は丁度午後三時を過ぎたあたりで、中休みをとっている軍人が多いのだろう。


そんな中、とある場所に人だかりが出来ていた。

(あそこだ)

 イライナは人だかりを掻き分ける。

 “声”が聞こえてくる。


「なぜ、精霊が野放しに?」「人間みたい」「なんでもノイシェ中将の精霊なのだとか」「なぜ契約しないのかしら?」


 人だかりを抜ける。ベンチに座る大きな背中が見えた。

 アデルだ。向かいにはなぜかジークハルトがなんだか楽しそうな顔を作って座っている。二人はじっとベンチの上に乗せられた盤を睨んでいた。盤は緑色の板を黒い線で等間隔に区切ったものであり、黒と白の簡素な平たい駒が乗っていた。

 ジークハルトが一枚、手元の白い駒を盤場に置いた。白い駒で黒の駒が挟まれた。白い駒で挟まれた、すべての黒い駒をジークハルトがひっくり返す。あっという間に盤上は白く染まっていく。


「くそー……、お前、強いな……」

 アデルが舌打ちをしながら難しい顔を作る。

「いやぁ、これ、面白いッスね。オセロでしたっけ?単純明快、しかも奥深い。アデルさんには腕っぷしでは勝てなくとも、これなら勝てるや」

 勝ち誇った様子でジークハルトが盤上を楽しそうに見ている。


 なんだ、この光景は。

 人間の軍人と精霊が、ゲームで遊んでいる。

 まるで友人のように。

 幻覚のような気がした。思わず頬を抓ったが、幻覚ではなく現実だった。

 眩暈がする。


「あ、イライナ様~。具合はもういいンっスか?」

 不意に顔を上げたジークハルトが、イライナに気づいた。大手を振って問いかけてくるジークハルトに詰め寄って、逆に問いかける。


「何をやっているんだ、ジークハルト!」

「なぁにって、ゲームっすよ、ゲーム!報告書が終わったから休もうかな、と思っていたら、アデルさんがゲーム盤を持ってウロウロとしていたから。これ、結構面白いですよ!」

 能天気に笑っているその周囲では、物珍しそうな視線が相変わらず突き刺さる。


「精霊とゲームって」「そんな知能があるの?」「アレが特別なのかしら」

 さわさわ、と。

 会話は人間として聞けば、なんと気分が悪いものだろうか。

 噂の中心であるアデルは、ベンチの上に片足を上げた状態で、ゲーム盤を睨んでいる。そして、

「雪路の言った通り、ちゃんと来たな」

そんな事を言った。


「―――どういう事?」

 まるでイライナが来ることが予測できていたかのような口ぶりだ。眉根を寄せれば、アデルは手の中で白い駒を転がしながら答えた。

「霊力を解放していれば、イライナが俺の気配を感じ取って来るだろう、と、雪路が言っていた」

「れい……りょく?」

 聞き覚えの無い単語を復唱する。すると、呆れた様子でアデルが言う。


「精霊が持つエネルギーのようなものだ。精霊術を使っているのだから、そのくらい把握していると思っていたがな。そんなことも知らんのか」

「……」

 知らなかった。イライナは押し黙る。

 精霊術、と名付けられた力には、その源となるエネルギーが存在していた。


「雪路がお前に施した術は、簡単に分かり易く言えば、感性を鋭くするものらしい。霊力は解放すればそれなりの“圧”を無意識に生き物は感じ取る。その“圧”をお前は敏感に感じ取れるようになったということだ。雪路のお陰でな」

 なんだか釈然としないが、確かに奇妙な感覚に釣られて中庭にやって来たことは認めるしかない。

 で。


「その桜江雪路はどこに?」

「町を散策してくると言って、ふらりと外に出て行った」

 なんとも自由な奴である。

 こちらとしては、さっさとアポストロの防護壁の破り方を実践してほしいところなのに。


「雪路から一つ、伝言だ」

「え?」

 アデルは相変わらず、ゲーム盤を睨みながら、つい先ほどの、雪路の行方を告げた時と全く同じ口調で伝えてくる。

「“僕が戻るまで、アポストロをどうにかしようと思わないこと”、だそうだ」

「どうにかもなにも……」

 何をどうしろというのだろうか。

 アポストロの防護壁というものを、直に見たわけではない。なので、どうすべきなのかも分からない。それなのに雪路はなぜ、そんな伝言を残したのだろうか。


「―――ああ、ここにいたのか」

 背後から聞き覚えのある声が掛かった。サフィール・ノイシェ中将だ。彼女は真剣な表情で、イライナへと近づいてくる。

「具合は?」

 心配されている。イライナは声を強張らせて答える。

「大丈夫です。ご迷惑をおかけしました」

 すると、サフィールは安堵した表情を作った。普段はあまり見せない、柔らかな笑みを浮かべている。

「それは良かった。少し時間、良いかな?」

「は、はい」

 返事をしながら、イライナは―――嫌な予感を覚えた。


 

 連れてこられたのは地下の牢獄。アポストロを捕らえている場所だ。

 イライナの目の前には、相変わらず鎖で雁字搦めに拘束されたアポストロの女性がいる。目隠しと猿轡は再び取り付けられ、外界からの情報は音声のみに限られている。

 そんな状態の彼女を、

「どう見える?」

突然、サフィールが尋ねてくるので、条件反射でイライナは正直に答える。


「ええと……なんだか帯状のものが彼女の周囲を回っています」

 白く僅かに輝く、複雑な文様が施された細い帯が、幾重にも重なり合ってアポストロの周囲を回っていた。帯はよく見れば文字のようなものが刻まれているが、一体どの言語なのか、検討もつかない。

「多分……あれが防護壁を作っている……術……?」

 言いながら、イライナの視線は自然と腰に吊り下げている剣へと向かう。

 僅かに光っている、火の粉のようなものが噴き出している。こちらは海の中のバクテリアのように、まるで生きているかのように、ふよふよと空中を漂っている。

 これは―――何だろうか。


「そうか。視えているのか。アレは一応、約束を守っていたのか」

 どこか満足そうにサフィールは微笑んだ。

「ならばエベンスロ二等精霊術士。それを壊すことは可能か?」


「――――えっ……」

 思わずイライナは、サフィールを見た。

「あれ、とは」

「防護壁とやらの事に決まっているじゃないか」


 いや、それは分かっている。

 イライナが聞き返したのは、別の意図があった。

「その、防護壁はアデルが壊すと言っていましたが」

「別に君が壊してしまってもいいだろう。精霊なぞが壊すのならば、精霊術士である君が壊す方が、人間には利益がある」


 それはそうだが。

「ですが……桜江雪路から“戻って来るまで何もするな”と言われたのですけれど」

「君はアポストロの言う事を優先するのか?」

 言われてみればそうだが。

 しかし、雪路は同時にその手の専門家でもある。“これをやれ”という指示を出したわけではない。ただ、“手を出すな”“行動するな”と伝言してきた。それにはきっと意味があるのではないだろうか。

 だが、サフィールは迷いない口調で続ける。


「いいか?アポストロの忠告など聞く必要はない。奴らは敵だ。敵の言う事を素直に聞き入れてはいけない。信用してはいけない。例え人の姿をしていようと。精霊だって一緒だ。道具としてはある程度の信頼は置ける。けどな、道具なのだよ、イライナ。あれらは道具だ。人の姿をしていようと、消費されるエネルギー体なんだ」

 当然のように。サフィールはつらつらと続ける。


「だから、あれら二つの能力は信じても、言葉は信じる必要はないんだ」

 本当にそうだろうか。

いや、そうなのだろう。

イライナの中では二つの心がせめぎ合っていた。

サフィールの言葉を疑う声と、受け入れる声がする。


「イライナ」

 自身の名前を呼ぶ声。イライナは肩を震わせた。

「君は、何のために精霊術士になった?」

 サフィールの問いかけがイライナの脳に染みわたっていく。記憶の奥の方まで問いかけは届き、やがて自分の発端へと至る。



 彼がなりたかった精霊術士に。

 人々を護る精霊術士に。

 ならなければならない。


「そのために必要な事は、アポストロを信じることか?それとも殺すことか?」


 人を殺すアポストロ。

 人を護るためには、アポストロは、邪魔だ。



―――ごめんなさい。

 心の中で無意識に謝った。

 そうして、イライナは腰から剣を引き抜いた。

 アポストロの周囲に渦巻く幾重にも重なる光の帯の、どこをどうやって斬ればアポストロの防護壁を破れるのか。

 検討がつかない。


 が―――。

 いかにも重要そうに、ひと際強く輝く帯がある。

 あれを斬れば良いのだろうか。

 イライナは先ほど、アデルを見つけ出した直感を信じて、剣に炎を宿す。

 僅かに、誰かのしわがれた悲鳴を聞いた気がしたが、それを聞かないふりをして。

 剣を、振るった。


 アポストロの口元が、つり上がったことに気づいたのは―――強く輝く光の帯を斬り裂いた直後だった。


「え――――」

 背筋が一瞬にして凍る。

 嫌な予感が的中したことに、イライナはやっと気づく。



 眩い柱が天高く伸び上がる。薄く重なっていた空の曇を貫いて、青い空が姿を現した。

 街の人々が一斉に、光の柱を見やった。


「何あれ」「あれ、軍支部の方向じゃない?」「綺麗ねぇ」


 視線が光の柱へと集まっていく一方、人混みの中であんパンを食べながら、一人の少年の姿を取っている彼は、ため息を吐いていた。

「馬鹿だなぁ、アイツら。きちんと忠告してやったのに」

 淡々と彼は呟いた。

 金色の瞳を覗かせながら。


「今回は自分たちで尻拭いをしろよ、人間共」

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