7話 第十四居住区(3)

 アポストロがこの世界に訪れた、正確な時期については分かっていない。

 彼らはあまりに唐突に現れて、一つの居住区をあっという間に滅ぼした。そこに住んでいた三万ほどの人間は瞬く間に命を散らし―――知らせを受けた軍部によってようやく、脅威が現れたことが認識されたのだ。

 アポストロが確認されたのがその日は丁度三十年前の春。それから三十年間、人間はアポストロという災害のような人災を、恐れながらもたくましく立ち向かい、生き続けてきた。

 それでも人間の人口は急速に減り続けている。このままでは五十年後には人間は滅びる。


「五十年後に人間が滅びるって……結構先の話だねぇ」

 雪路の直球な感想に、イライナは鼻に皺を寄せた。

「貴様、一万年以上生きているのに、五十年が“結構先”って、一体どういう感覚をしているんだ」


 イライナは今、地下へ向かうエレベーターの中に居た。雪路にアポストロを見せるためだ。エレベーター内には雪路、彼を背負うアデル、イライナとサフィール、そしてサフィールの護衛である二人の精霊術士が雪路に常に銃口を向け続けている。かなり物々しい雰囲気で、すぐに引き金を引いて雪路を殺せるように警戒しているようなのであるが―――雪路は全く意に介さずに、普段通りの口調で喋り続けている。その話し相手は専らイライナだ。


「時間が通り過ぎる感覚は人間ベースだからね。そう設定している。だから五十年はかなり先。五十年間の間に自力でアポストロを殺す手段を見つけよう、だから今ここで危険かもしれないアポストロは殺してしまおう、とかは考えないわけ?」

 どう考えも煽ってきている。サフィールの護衛二人は歯ぎしりしながら、引き金にかける指に力を込めていくのが分かる。

「その五十年の間に人間が沢山死ぬだろう。アポストロを殺す手段を手に入れるのに、早く済むのならばそれに越したことはないだろう」


 ああ、なぜ自分がこんなのモノ相手をしなければならないのか。

 心の中でイライナは嘆いた。

 サフィールは、ずっと無言のまま仏頂面でエレベーターの扉を睨み続けている。彼女は精霊術士としても軍としてもかなり位が高いため、無用な情報を相手に与えないために、基本的に雪路の質問には答えない、と言った。

 だからといって、イライナもかなり口は軽い―――というよりも、考えないで物事を喋ってしまうきらいがある。何より感情的だ。今もかなり神経を使っていて、雪路に重要な情報を与えまいと必死になって頭をフル回転させている。


 頭が煮えそうだ。

「ま、そりゃそうか。アポストロの目的も分からないからね」

 雪路はアデルの背中で大きく伸びをしながら、欠伸をした。

 アデルもまた、仏頂面でエレベーターの階層を示すボタンをじっと睨んでいる。こちらはどちらかと言えば苛立っている様子だ。時折舌打ちが聞こえてくる。


 怖い。

 恐らく誰もが思っていることを、

「ねぇ、アデル。そんなイライラしてもなんも始まらないよ。もう少し抑えてよ、空気重い」

遠慮なく雪路が口にする。

「……うるせぇよ」

 低く唸るような声がアデルから漏れた。


「ていうか、何をそんなにイラついてんのさ?」

 いつも通りの調子で語り掛ける雪路に、アデルは舌打ちを一つして背中の雪路を睨み据えた。

「てめぇ、知ったかぶりか?気づいている癖に」

 一体何の話をしているのだろうか。

「……さあ?」

 雪路が笑った。それを見たアデルは眉間に皺を寄せ、雪路を支えている両手をぱっと放す。


「うわぎゃ!」

 雪路が悲鳴を上げてアデルの首にひしとしがみ付いた。中々の反射神経だ。

「ちょ、落ちる、落ちる!」

「落ちろ!尻餅くらいで付くだろうが!少しは自分で立て、このチビ!」

「うっるさーい!僕はいらない体力は消費しない主義なんだよ!」

 エレベーターの中が俄かにうるさくなった。今度はその場に居合わせた人間たちが苛立つことになるのだが―――内心、イライナはやはり、困り果てる。

(ああ、本当に人間の兄弟みたいだ)

 がくり、とエレベーターが止まった。支部の最下層に到着したのだ。開かれた扉の先には銀色の重厚な廊下がひたすら続いている。警備として配置されている軍人の服装も物々しい。


 当然だ。重そうな鉄の扉の先には、アポストロが捕らえられているのだから。装備を増やすに越したことはないし、用心はしても、し足りない。鉄の扉には幾つもの南京錠に電子ロックまでかけられた徹底ぶりだ。

「頼む」

「は、はい!」

 サフィールの言葉に、緊張した様子で警備の軍人が答え、腰から鍵の束を取り出して、一つ一つ、鉄の扉に掛けられた南京錠を開いていく。


 その時間がかけることといったら、たまらない。

 よく見れば手が震えている。アポストロは人間にとっては恐怖の対象だ。ずっと見張りを続けている軍人のストレスの重さは計り知れない。

 だが、軍人がもたつくのを見て、

「遅い」

今まで以上に低く、相手を脅すような凄みを利かせながらアデルが呟いて、指を鳴らす。ただそれだけで、南京錠の全てがぼろぼろと錆びていき、あっという間に砂状へと風化して、床に落ちた。


「ちょぉつ……!お、おおおお前……!」

 何をやっているんだ、と怒鳴ろうとしたイライナの耳に、

「また古臭いのを使っているね」

雪路の声が届く。見ればいつの間にか壁に取り付けられた電子ロックの親機の、小型端末の差込口に、何か小さな機械をねじ込んでいる。

 カチカチと電子ロックの親機から電子音が繰り返され、次の瞬間、液晶画面に「Clear」という文字が表示される。

 扉の奥で幾重に重なっていた重く巨大な鍵の数々が、開かれていく音がする。


「何をやっているんだ、貴様は!」

 結局イライナは雪路に怒鳴った。少しアデルも見たが、相変わらずのしかめっ面があまりにも怖いので、叱る気は一瞬で失せた。

「ハッキング。便利でしょ」

 ひらひらと小さな棒状の―――、一見すればメモリーカードのような機械を、雪路が見せびらかす。


「ぐ、軍の技術の結晶が……特殊合金の南京錠が……あっさりと……しかも……ハッキング……!」

 サフィールが声を上ずらせ、呆然と呟いている。

 アポストロを閉じ込めている牢獄は、当然、軍の最新鋭の技術が使われている。アポストロが苦戦するほどの頑強さが備わっている、というのが売り文句であり、扉も錠に至るまでそれは変わらない。


 自信の逸品をこうも簡単に破られたのだから、自分たちの努力は一体何だったのだろうか、と頭を抱えるのは必至である。

 重い音を立てながら、扉が自動でゆっくりと開いていく。牢獄の中の冷たい空気が、廊下との境界線に差し掛かると、途端に白く色が染まる。


「室温低いね」

「相手の動きを鈍らせるためだ」

「なんて無駄な労力」

「……」


 雪路の感想に、サフィールが眉根を顰めた。先ほどから自分たちの努力を悉く否定されれば、誰でも不機嫌にはなる。

 牢獄の中は薄暗く、広かった。冷たい特殊合金で内装は塗り固められ、絶えず冷気が送り続けられており、真冬のように寒い。そんな中で、目隠しされ、更に口元を猿轡で声すら出せない状態にした上で、これでもかというほどに鎖で雁字搦めにされ、身動きが取れないほど拘束された状態で捕らえられていたのが、短髪の女性型のアポストロだった。彼女を捉えている鎖は床や天井に伸びており、しっかりと留め具で固定されていた。


「うわ。人権無視かよ……?ここまで酷い拘束の仕方、見たことないんですけど」

 本気でドン引いた雪路を見て、改めてイライナは、この高速の仕方がアポストロに対して有効だという事を確信した。

 アポストロが嫌がるほどならば、ここまでやった甲斐があった、というヤツだ。


「人権も何も、こいつはアポストロだ。人ではないだろう?」

「いや、人だ」

 全員が一瞬にして固まったのを見て、雪路は肩を竦めて言い直す。

「言い方を変えるね。僕からしてみれば、アポストロも人間も関係ない。全て“二手二足”とある程度の知能を持ち、“生命”を抱えた“ヒト”という一族であることに変わりないんだよ。ただ、アポストロの場合はちょっと運命が拗れに拗れただけなんだけど……アデル、アデル。降ろして」

「やっとか……」


 アデルがやや疲れた様子でぼやいて、雪路を支えるために後ろで組んでいた手を解く。雪路は器用に着地をした後に、アデルに尋ねた。

「改めてアポストロを見て、なんか感じる?」

「ひどくムカつくから、今すぐに妹を攫ってどうするつもりだったのかを吐かせたい」

 低い声で唸るアデル。余程苛立っているが、それはやはり、妹を攫った敵と相対したからだろうか。

「いや、それは僕がやるから。感情的な話じゃなくて、こう、感覚で。精霊独自のものでもいいけど。大地の気配とか、大気中の精霊の気配とか、言っていたじゃん?」

「……ふむ」


 アデルは顎を撫で、鎖で雁字搦めにされたアポストロを睨みつけた。只えさえ目つきが悪いのに、更に悪くなり、凄みが増す。まるで巨大な熊が獲物を狙っているかのような、鋭さがあった。

「………少しだけ……違うような…………アポストロの周囲の……気配が歪んでいるような……」

「もう一声!」

 一生懸命に絞り出したアデルの言葉に、雪路がお茶らけた声色で急かす。

「いや、もうこれ以上は分からん」


 断言したアデルを見て、雪路は頭をがしがしと掻いた。本当に困った様子で。

「あー……。じゃあ、目を瞑って」

 雪路は言いながら、アデルの背中に回り、掌をすっと大きな背中に触れる。アデルは言われた通り、目をゆっくりと閉じた。

「今から、元来どんな生き物でも持っている“視る”力を呼び起こす。アポストロの周囲に纏わりついている結界……防護壁を見えるようにしてあげる。ただ、視界に入る情報量が一気に増えるから、かなり酔うよ。目を開くときは、なるべくゆっくりと、様子を見ながらで、よろしく」

「おう」

 アデルが頷いた。


 確認してから、雪路はアデルの背中を指先でニ、三度叩いた。僅かにアデルの肩が上がった。

 ―――それだけだ。

「ほい、終わり」

「今何をやったんだ……?」

 サフィールの護衛がこそりと隣の護衛に問いかけた。

 イライナにもさっぱりと分からなかった。サフィールも怪訝そうに雪路を睨むばかりで、現状、どんな変化が起こったのか、掴めている人物はいない。

 ただ、アデルはゆっくりと瞳を開いて、僅かによろついて、すぐに閉じた。大きな手で目を覆って、深呼吸を繰り返す。

「……凄いな、これは……。今のが防護壁……」

「慣れればどうってことないけどね。特に精霊の場合は。……さて」

 ふらりとアポストロの元へと歩み寄り、雪路は腰の拳銃を引き抜いた。銃口はアポストロの頭へ。しっかりと狙って―――。


「は、ま、待て!」

 止めに入った時には遅い。銃声が二発分、鳴り響く。辺りに反響してイライナの耳に届く頃、アポストロを拘束していた猿轡と目隠しが地面にジャラリと落ちていた。

「貴様、何を……!」

 サフィールの護衛の一人が雪路を睨みながら銃を構えたが、

「だって話ができないでしょ、猿轡なんてしていたら」

雪路は当然のように答えた。

 という、当然の話だ。


「それとも念話の方が良かった?この中に念話、拾える人間っていんの?」

(ん?)

 その場の全員が首を傾げる。

「念話って……」

「テレパシー」

 至極当然のように雪路が答えたが、これは当然の話ではない。テレパシーができる人間など、聞いたことがない。


「……………………お前」


 しわがれた声が聞こえてきた。ずっと猿轡で拘束され、碌に声を発せなかったアポストロのものだった。見た目は美麗でややボーイッシュな二十代前半の女性、といったところか。その瞳はしっかりと雪路を捉えていた。


「私を型落ちと呼んだクソガキ」

「意味もなく人間を殺し回ったトンチキなお嬢さん。おはよう、ざまあないね。どうせ調子乗って、貰ったマナを使いつくして、人間並みの身体能力に戻ったところを捕まったのだろうけど……うわ、だっさ」

 雪路は人を小馬鹿にしたような笑みを浮かべ、実際アポストロを馬鹿にした。

「んだと糞チビ!」

 しわがれていた声を先ほどまで出していたとは思えないほど、大きな声で、子供のように言い返した。

「うっさいな……。だから今はチビだけど、大人になれば身長伸びるんだよ」

 雪路はアポストロの言葉に訂正を加え、舌打ちをする。以前、イライナと話した時もそうだったが、身長の事はそれなりに気にしているのだろうか。確かに見た目は十代前半から中ごろ、として考えるとやや小柄ではあるか。中身は一万歳以上だが。


「ははーん、何を言っているんだ!アポストロは年を取らない!不老の存在であることも知らないのか!」

 煽りよる。

「これだから低級は。見た目の年齢なんざ、十分なマナと魔術があればいくらでも弄れるんだよ、バーカ」

 子供の喧嘩だ。

「そんな魔術、誰も開発しないわ、ボケ。殺すことに必要ないじゃない」

「対人交渉には十分効果を発揮するじゃん。大人の見た目だからとある程度の信頼する人間なんて、ごまんといるからね」

「交渉なんて必要ないじゃない!人間はストレス発散の為の玩具なのだから」


 ケラケラと。馬鹿にしたように笑うアポストロの声が室内中に響き渡った。

 気分が悪くなる。

人間を確かに玩具と言った。怒りに震える人間がその場に居ると、知っているのだろうか。

 イライナは少なくとも、怒りを覚えて剣を引き抜きたくなった。

 実際に剣の柄に手を添えまでせいた。


(お前たちのせいで……そんな感覚のお前たちに……!)

 彼は、殺されたのかと思うと、今すぐに刃を振って無残に殺してやりたくなる。

「エベンスロ」

 そっとサフィールが諫めるように、イライナの耳元で囁いた。

「抑えなさい。皆、気持ちは一緒だ」

 見れば、サフィールの護衛たちも、そしてサフィールの体にも力が籠っていた。怒りを必死に抑えているのだ。

(落ち着け)

 イライナは自分自身に言い聞かせ、感情を抑え、


「……お前、何を言ってんの?」

雪路の怪訝そうな声が、奇妙に室内に響き渡った。


「はぁ?何が?」

 笑ったまま、アポストロが聞き返す。対して、雪路はどこまでも真剣な声色で返す。

「命じられたままに人を殺すのが、お前たち戦闘型だろう?面白半分に人間を殺すようには設計されている筈がない」

「ワケ分かんないんですけど。殺すのが楽しいのは当然でしょ?人間の子供が蟻を面白半分に潰すのと一緒よ。プチプチプチプチ……なんと気持ちいいことか!」


 嘆息にも似た吐息をアポストロが吐く。

 対して、室内の怒りの感情の重々しさが増していく。

 そんな感覚で人間を殺していたのか。

 そんな感覚で大切な者たちを奪っていったのか。

 殺気がどこともなく漂い始める中、雪路が尋ねる。


「お前、名前は?」

 唐突すぎる質問に、アポストロは目を丸くする。

「は?戦闘型E-B447……」

 E、ということはアポストロの中で最低ランクの強さということになるか。正しく雑魚相手に、人間は労力を費やしていたことになる。が、雪路はアポストロの返答に首を横に振った。


「いや、名前。名前だよ。あるだろう、名前」

「そんなもの持っていないが?」

 あっさりとアポストロは答えた。

 今までの話を聞く様子だと、アポストロというのは戦ったりするために作られた、ロボットのような道具のような印象を見受けられる。ならば、型番だけで十分だろう。道具ならば、名前など必要ない。

 雪路は静かにため息を吐いた。そして、


「やめだ」

投げやりに吐き出して、アデルの方を見た。

「どう、アデル。いけそう?」

「……なんとか」

 アデルは細く目を開いた状態で答えた。目つきがとても悪い。やくざのようだ。

「アポストロの防護壁は壊せそう?」

「ハッキリとは見えている。やってみるだけ、やってみるが……もう話を聞かなくていいのか?」

「聞けない。こいつは何も知らない。無理矢理情報を引っ張り出す方法もあるにはあるけれど……その場合、危険信号が発せられて、アポストロ側に情報が行く可能性がある。そうしたらこの居住区は一瞬でアポストロに消されるかもしれない」


 そうか、情報を無理矢理聞き出す方法が他にあるのか。その方法は是非とも後から聞いてみたいものだが―――今、アポストロの急襲を受けて、果たしてこの居住区が無事でいられるのか、その保障はない。せめて、アポストロの殺し方を知っておいてから、しっかりと対策を立てておいて、迎え撃ちたいところか。


「オレとしては少しでも情報が大いに越したことはないのだが」

 それは。暗にこの居住区の人間などはどうなっても良い、という言葉だった。

 人間など諦めている精霊らしい言葉だろう。けれど、やはり心がちくりと痛むから、きっと自分は悲しんでいるのだろう、とイライナは素直に受け止めた。

「僕がヤダ。子供が死ぬのはあまり見たくない」

 一方の雪路が、人情味のあることを言いだして、やはり意外に思う。


 雪路は一息入れてから、手を力強く打った。人を探るような、怒りのような、悲しみのような、全てが入り混じったぐちゃぐちゃな室内の空気が一変したような気がした。いや、実際に少しだけ、呼吸が楽になったような気がする。

「さて、アデル!じゃあ、ちゃっちゃと防護壁を壊して……」


「ちょ、ちょっと待て!」

 雪路の言葉にはっと我に返って、イライナが制止をかけた。

「先ほどから、アデルには……防護壁が見えているようだが、我々には何も見えていない!」

「はあ?知るか、んなこと。そんなの、お前たちの能力不足なだけだろ」

 非常に面倒そうに雪路が答えた。しかも、突っ返すような言葉だ。

「だが、そこの精霊には妙な術を施し、防護壁とやらを見えるようにしたのだろう?不平等じゃないか」

 サフィールの言葉に、人間たちは頷いた。そうだ。不公平だ。

「精霊は見えなかったものを見えるようにしてやっていたのに、人間にはそれをしないとは。このアポストロと逢わせる代わりに、君は防護壁の破る様子を見て良いと言った。ならば、我々にも同じ術を施し、見えるようにすることは道理ではないのか?」

「はあ、不平等、道理、ねぇ……。面倒くさいな……」


 雪路はすっと目を細めて、

「じゃあ、ゲロを吐きたい奴だけ前に出ろよ」

投げやりに命じてきた。

 何だろうか、ゲロというのは。

 予想外の条件に、全員が呆然とする。が、

「それでは、私が」

イライナが前に進み出る。

「おい、何をされるか分からないんだぞ!そう簡単に引き受けていいのか!」

 サフィールの護衛に頼まれて、イライナははたと気づいた。


 ああ、全員躊躇したのはそれだったのか、と。

 確かに、相手はアポストロと名乗る少年。怪しさは満点、アデルとグルで何かを企んでいる可能性も捨てきれない。

 けれど、だからこそ。


 精霊術士としてはまだまだ新米で、実力も低い自分が実験体になるべきだ。

「大丈夫です。私がやります」

 ぐっと息を呑んで。不安も僅かに心に押し込めて、イライナは雪路の前に歩いて行った。

「さっさとやれ」

「……あまりお勧めできないんだけど、ホント」

 言いながら、雪路はイライナの後ろに回り込み、背中を指で軽く押す。割と優しい触れ方だった。

「本当に具合が悪くなったらすぐに言えよ?やせ我慢をするな。人によって向き不向きはあるからさ。……あと、これ持って」

 すっと差し出されてきたのは、青い何の変哲もない、やや底が深いバケツだった。


「……これは」

「ゲロはそこに吐いて」

 誰が吐くものか。イライナは苛立ちながら、しっかりとバケツを両手に抱え込んだ。

「じゃあ、しっかりと目を瞑って。いいよって言ったら目をゆっくりと開いて。少しでも変な気分になったら目をつぶり直して深呼吸。これ、忘れんなよ」

「いいから、とっととやれ」

 あまりに慎重な物言いに、イライナはやや苛立って命令する。

 ただ、話の内容はあまりにも病院の診察のような、人を労わる言い方であったので、本当に僅かだが、“ふざけんな”くらい言われても仕方が無い、と思うところがあった。


「―――はいはい。ほら、さっさと目を瞑ってよ」

 だが、雪路から返って来たのは、まるで子供の理不尽な我儘に応じる親のような、実に面倒そうな返答だった。

 イライナは目を瞑った。


(いや、理不尽……か)

 ふ、と思う。

 雪路が人間だったならば、きちんと“頼んだ”のだろうか。少なくともこんなふてぶてしい態度はとらない筈だ。人に礼儀を尽くすのは、人間として当然の事だ。

 雪路が、人間ならば。


「おーい、いいよぉ」

 思考に耽っていたところに、背後から声がかかる。はっとイライナは我に返った。頭の中からはつい先ほど雪路に注意されたことがすっぽりと抜け落ちており、よって。

「馬鹿」

 言われた時には遅く、思い切りよく目をイライナは開いていた。


―――その世界は、今まで自分が視てきたものとは同じようで異なっていて。


 脳は瞬時に情報過多によりオーバーヒートを起こし、結果。

 目を開いてコンマ一秒。イライナは吐しゃ物をバケツに中にぶちまけることになった。

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