6話 ヴォールカシヤ遺跡(1)
空を覆う雲がやけに分厚い。直に雨が来るかもしれない、とアデルは予感する。相変わらず続く暗い森の中に敷かれた、いつも以上の悪路に嫌気がさしてくる。いや、何よりも。
「いぎゃっ!」
車が跳ねるたびに後部座席で悲鳴が上がる、その声に飽き飽きしていた。
「ちょっと、もう少し優しく走ってよ!体が痛いんだから!」
「お前こそもう少し静かにしてられないのか!ただの筋肉痛だろうが!」
桜江雪路と名乗る人間の姿をした何者か。彼は昨日の戦闘の後、全身筋肉痛になっていた。何でも車の振動ですら全身に痛みが奔るらしい。そして、痛みが奔る度に悲鳴を上げるので、情けないやら煩いやら。そしてアデルのストレスは溜まっていく。
「そもそもそんなに動いていねぇだろ、お前!なんで筋肉痛になるんだ!」
「あのアポストロに一撃を加える際に全身を瞬時に酷使したからね。今の僕にはそれだけでも重労働だったんだよ」
「傷が治るみたいに筋肉痛も一瞬で治らんのか」
「僕自身の力をかなり抑えているからね。治癒能力も限定的に発現するように調整しているんだ。そうじゃないと、マナを吸われて辛い」
呻くように雪路が答える。目が涙目であるのがまた、情けない。
アデルはため息を吐いた。
どうにも分からない人物だ。強いのは確かなのだろうが、全力は出せない。限定的に全力は出せないが、それには条件が必要だという。
イルス村での一件、どうやってやったのか、と尋ねれば。魂を―――死んだ人間の生命力を自らの力に変える、などと、馬鹿げた能力を持っているとか、信じがたい事ばかりを口にした。それを信じろという。
そも、魂という存在は、精霊であるアデルは見たことがない。
精霊とはこの世界に生きる者であり、自然の力を制御する管理者の総称だ。
魂はその姿を現すのは、殆どが、生物が死んだ時のみであり、その時点で精霊の管理外へ移行。それ以降は神々の管理領域になるため、アデルに触れられるものではない。
その魂を扱う能力を持つという桜江雪路というアポストロは。
まさか、神とでもいうのだろうか。
(いや、こんな神が居てたまるか)
心の中で舌打ちをしたアデルは、前方の道の状態に気づいて、車にブレーキをかけた。
「え、何、何?」
「……橋が無い」
目の前に広がる川は、茶色い濁流が上流から流れ込んできており、川の淵が荒く削られていく様子が見てとれた。橋は大半が濁流にのみ込まれたのだろう。木造りの橋は、本来ならば向こう岸まで続いている筈の床部分が、大地と川を境にばっきりと砕かれており、川の中には橋の骨組みすら残っていない状態だった。
「上流で大雨でもあったのかなぁ。こりゃ凄い」
雪路はのんびりとした口調で所感を述べた。
「最悪だ」
アデルは心中を吐露した。
「これでは向こう岸に渡れない」
「そこはほら、アデル。お前の力で土の橋を架けられないの?」
「この濁流だ。そこら中の土を寄せ集めたら、その分足場が脆くなる。下手をしたら俺たちの足元が崩壊する可能性がある。危険だ」
「えー、そうなの?うわぁ……精霊術って不便だねぇ」
「お前の使う法則無視の馬鹿げた力じゃないからな」
「馬鹿げたって……。一応魔術と言って欲しいかな。……まあ、僕が使うのは厳密には魔術じゃないけどさ」
言いながら、雪路は上流へと視線を向ける。
「……この濁流だと、さすがに川を凍らせてもすぐに壊れちゃうって」
アデルは雪路が軽く指先で触れている剣を見る。
その中には、氷を司る精霊が封印されている。どうやら雪路はその精霊の声を聴き、あろうことか能力を行使させているらしい。尤も、雪路から強制しているのではなく、本人の意志に沿っている、という。
人間たちが行使する契約術に縛られた精霊は、契約主の言葉をただ忠実に従う道具へと成り果てる。そこに意志はなく、そこに自由はなく、故に精霊たちは人間への不信感をここ二十年ほどで一気に募らせていた。
何より、契約術を解く術を精霊側が有していなかったのであるが―――雪路はその封印を解いてみる、とか言い、実際に徐々に、剣の中の精霊は解放され始めているらしい。
一応、説明を聞いたがよく理解できなかったので、結局アデルは以下、一言で済ますことにした。
“異世界人なのだから、奇跡を使えても何ら不思議ではない”。
「―――ん?」
僅かに―――車のエンジン音。アデルたちがつい先ほどやって来た森の道から聞こえてくる。
車で移動する人間は、今時珍しい。車という文明の利器は、その絶対数がまず少なく、極めて高価であるため、一部の金持ちか、或いは軍の人間しか所持していないものであり。よってアデルは警戒心を強めた。
森の中からやって来た車は、キャンピングカーともいえる、立派な大きさを持つ車だった。その側面にプリントされた紋章は、統一軍のもの。後部座席の扉が乱暴に開かれて、そこから赤髪の女性が怒りの形相で現れた。
「やっと見つけたぞ!盗人共!」
怒髪天。
女性は車から飛び降りて、早々に腰から剣を引き抜いた。
「今すぐ武器を捨て、その場に伏せろ!それからまずは私への謝辞だ、謝辞を要求する!」
「……」
アデルは黙った。黙ったまま、赤髪の女性を三秒ほど見つめて、それから雪路を見た。雪路はアデルの目が点になったような呆けた表情を見て、
「……まさか、誰だか忘れたの?」
「ああ」
「なんて精霊だ!人の顔を忘れるとは!」
一人で喚く赤髪の女性を無視して、雪路は説明する。
「ほら、僕がこの子の入った剣を頂戴して、アデルが古跡で戦ったっていう軍人のお嬢さんだよ。名前はイライナ」
「……そういえば、そんな奴もいたな」
「薄情だね」
「人間の顔など覚えるだけ無駄だ」
「それは少し、同感」
穏やかに会話をするアデルたちに対し、赤髪の女性は顔を真っ赤にして怒鳴る。
「おい、貴様ら!私を無視するな!今、貴様らが置かれている状況は分かっているのか!」
しかし、雪路はやはり無視して、ぶるりと身を震わせた。
「それよりも、剣の中から冷気が滅茶苦茶漂って来る。とんでもなく怒っているんだけれど。寒いし頭の中で彼女の声が凄いし……。どうすればいいと思う?」
言われてみれば、雪路が右の腰に吊っている剣から冷気が漏れ、僅かに空気を冷やしていた。
剣の中の精霊からしてみれば、自分を封印した憎き人間―――赤髪の女性がい
る。その立場からして考えれば、殺したくてたまらないかもしれない。なので、
「あの女を殺せば収まるんじゃないのか?」
正直な予測を口にすれば、雪路は大げさに身を引いた。
「うわー、考え方が野蛮。僕、そういうのはちょっと……」
「アポストロを平然と切り殺した奴が何を言っている」
「あ!そうだ、そこのチビ!」
「なんだよ」
赤髪がまた喚くので、雪路は嫌そうに彼女へ顔を向けた。チビ、と言われたことに少し腹を立てたのだろうか。眉間に皺が寄っている。
「イルス村でアポストロを殺したのは、お前だな!一緒に同行してくれ!是非とも話が聞きたい!」
赤髪の女性はやや興奮気味であり、そして僅かに疑心暗鬼の、複雑な感情が入り混じる瞳を雪路に向けていた。
アポストロを殺すことができた人間は、今まで一人もいない。よくて防戦。大抵は蹂躙されるのがオチだ。そんな彼ら人間からすれば、雪路は正しく希望の光。アポストロの殺し方を知れば、精霊の力を利用して人間たちはアポストロへ反撃の一手を手に入れることも可能となる。
ならば雪路という、一見人間に見える人材は、彼女にしてみれば、無条件の味方に見えるだろう。ただ、見えるだけであり、実際に味方ではない。雪路はべ、と舌を出す。
「ヤだ」
体の前で手をクロスさせ、雪路がシンプルに答えた。
「なぜ断る!アポストロから人類を護れるのだぞ!」
「えー、だってぇ……教えるのが糞面倒だし、人間の味方をする道理もメリットもないし……。……僕と交渉するならちゃんと、用意をしてからにしなさい」
弾けるような音が、川の上流から聞こえてきたのはその時だった。見れば大量の濁流がアデルたちへ向かって流れ込んでくるのが見えた。
「うわ」
雪路が緊張感のない声を漏らし、
「俺、泳げん」
アデルの突然の告白に、
「え、嘘だろ」
雪路が硬直した表情でアデルを見た直後、濁流がアデルたちを飲み込んだ。
水の流れは激しく、茶色に染まった水のせいで、雪路の姿はすぐに見失う。比較的筋肉質で重いアデルの体がぐるぐると回る。水の流れに負けて、ぐるり、ぐるりと。呼吸は続かない。意識は遠のく。人の姿が解ける。解けそうになり、腹の底に力を込めて―――そのまま、アデルの意識は、水の底へと沈んでいく。
声は響く。
―――お前、名前は?
奇妙に脳に響く声だ。
―――ない。忘れた。
答えたら、少しだけ意外そうな声が返って来た。
―――やけにあっさりとしているな。驚いた。お前たちは皆、そうなのか?
―――知らないし、分からない。
―――ああ、そうかい。まあ、かなりの重圧だったろうから、寧ろ形態を保っているだけでも褒めるべきか。
そう言って。
頭を撫でられたことは、鮮明に今でも覚えている。
その顔をもう、思い出せないというのに。
瞼を震わせて、ゆっくりと目を覚ます。視界に広がったのは、白い石で作られた、高い天井だった。どこからか日が射してきているのか、明るい。
「う~……」
ぼやけた頭を軽く振って、アデルは体を起こす。咳を二、三度して肺の中の水を吐き出して、状況を把握するために辺りを見渡した。
石造りの古い遺跡だ。古跡とも言うが、年代で言えば、アデルと雪路が初めて出会ったような、人間の近代的な建築物が朽ちたような場所ではない。石だけで作られた建築物。石畳は欠けている。窓はあるが、ガラスは存在していない。所々に噴水や小さな水路があるが、全ての水は茶色に濁っている。そのせいか、やたらと辺りは土臭い。彫刻なども随所に施されているが、全てが旧時代のものであり、神や神話をモチーフにしたものが実に多い。
コンクリート造りの無機質な近代文明のものとは明らかに異なる、一つ一つに命を吹き込むような建物の造り。
遥か昔の古代文明の遺跡だ。その水辺の畔に、アデルは居た。
「ここは……川の下流か」
湖の上に古跡があり、そこにアデルたちは流れ着いたらしい。水の気配が周辺から嫌というほどするので、アデルはぶるりと震えた。
「雪路は無事か……?」
呟いてみて、よく考えれば雪路は精霊の気配をかなり精密に察知できることを思い出した。
と、なれば。自分が動くより、あちらから来た方が早い。
(とりあえず、待つ……か)
よっこらせ、と腰を落ち着けようとしたアデルだったが、
「動くな」
背後から剣先を首筋に突き立てられ、仰々しくため息を吐く。
赤髪の女性が、アデルに敵意の眼差しを以て剣を構えていた。
「あー……イライナ、だったか。こんな状況でよく、敵意を向けてこられるな」
呆れ果てた。馬鹿か、と思った。
今、ここは古跡で、しかも水の気配に満ちているのに。
「黙れ。とはいえ、戦力が必要だ。今、ここで契約してやる。ありがたく思え」
彼女はそう言いながら、ポシェットから契約術に使用する、味気のないチェーンを取り出した。
「ありがたく思え……な。思い上がりすぎだ、人間。ここは古跡だぞ」
あまりに傲慢なイライナの言葉に対し、アデルは鼻で笑った。体は既に、とある生物がやってくる、その振動を捉えている。
「―――古跡獣が、お前たち人間を喰いにやって来る」
長い廊下を通り抜け、身長三メートルほどの細身の古跡獣が姿を現す。形は人間に近いが、白い肌がのっぺりとしていて、およそ生き物とは言い難い。
「くそっ!」
イライナは舌打ちをして古跡獣へと視線を向ける。その間に、アデルはそっと後ろへ下がって、そのまま退散を試みる。
古跡獣が吠える。前かがみになり、イライナへ向かって突進を開始した。イライナは剣を前方に向けて怒鳴る。
「燃やせ!」
それは、剣の中に宿した精霊に向けての命令だったのだろう。しかし、剣の中から弾けるように飛び出した炎は本当に小さなものであり、勢いもない。まるで蝋燭の灯のような弱弱しさで、大気中に溶けるようにして消えてしまう。
「なんで……」
ギリギリ、体を捻って逃げ出したイライナは、剣を睨んだ。
(当然じゃないか。ここは水場だぞ)
少し遠い場所でイライナの様子を眺めていたアデルは、心の中で呟いた。自然界は常に一定の法則で回っている。水が木を育て、火は木を燃やすように。自然の司令塔であり化身である精霊もまた、例外ではない。
苦手な属性、というものが存在する。
湿気がたっぷりと籠ったこの古跡は、火の精霊にとって実に居心地が悪く、自分の能力を十全に発揮できない場所に決まっている。更に古跡という特性上、精霊の能力は殆ど発揮できない。
「……!おい、炎だ、炎を出すんだ!」
苛立った様子でイライナは怒鳴り散らす。炎は当然、出ない。ガス欠のように黒い煙が燻るばかりだ。
(喰われるな、あれは)
アデルは冷静に分析する。
雪路のように古跡獣の肉体を一刀の元、両断するような能力はこの世界の人間には存在しない。ああいう芸当をするにはまず、精霊の力を借りることが前提だ。その精霊の力を借りることができない現状、彼女は古跡獣にとって、ただの動き回る肉の塊である。彼女の振るう剣は皮膚を薄く斬り裂くだけ。命まで届くわけがない。
(まあ、人間が死のうが知ったことではない)
アデルはぼんやりと、イライナが苦戦する光景を眺めていたが。
「炎を、力を、さっさと出せ!」
声の内に宿る見えない強制力が、剣の中にいる精霊の力を締め上げ、搾り出そうとする。その苦痛に、精霊の悲鳴がアデルの脳に直接響く。
アデルは血相を変えた。
このままでは精霊が死んでしまう、と直感で理解したからだ。
「ああ、糞ったれが!」
足に力を込める。今現在、精霊としての能力は殆ど制限されているが、生まれ持っての身体能力は人間を遥かに凌駕している。駆けだしたアデルはそのままイライナの首根っこを掴んで自分の元へと引き寄せた。
「邪魔だ!」
「な、何を……!」
文句を言おうとしたイライナに、素早くアデルは言葉で追撃をする。
「そのままだと精霊が死ぬ!俺に任せて下がっていろ!」
イライナの返事は聞かずに、アデルは体を捩じり、丁度こちらへ向かってきていた古跡獣の腹に、強烈な蹴りの一撃を入れた。息が詰まる音が聞こえてきた。やや体に不釣り合いな足で古跡獣が踏ん張ったが、その頬にアデルはあらん限りの力を込めて拳で殴りつけた。
頬骨が砕ける音。げぇ、と奇妙な声を古跡獣が漏らす。そのまま白い石づくりの壁に古跡獣が叩きつけられた。
「よし、逃げるぞ」
「は……え!」
イライナを担ぎ上げて、アデルは一目散に古跡の奥へと逃げ出した。古跡獣のうめき声が聞こえてくる。起き上がる前に、奴の視界から逃げなければ。
本来、森の中の獣であるのならば、すぐさま止めを刺す場面であるが、それはできない。
ここは古跡。古跡獣は、古跡の中では死なない。死ぬことができない。
所謂、不死という存在だから。
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