5話 イルス村(3)


 この世界に於ける幽霊は、霊魂。人の肉体に入ればその肉体は呼吸をして動き出し、肉体が死亡すれば体を抜け出して、神様にすぐに拾われて次の転生先へと向かう。

 神様が死んだ人間の魂をすぐに拾う、ということは。

 人間の幽霊などこの世のどこにも存在しないということになる。


 だが―――サリナは幽霊が視える。


「今もそこにいるよ、お父さんとお母さん」

 部屋の隅を指さして、彼女はそんなことを言う。

 それがいかに、この世界の人間たちに拒絶される言葉であるか、それを理解するまでは、まだ幼すぎた。


「もう、どうすればいいのか……」

 ビアンカは唇を噛んだ。

「私の目が届く範囲では、サリナにはそこに霊魂がいると言わないようにしています。私が居ないときも、口に出さないように釘を刺しています。それでもこの子はお喋りだから、人前でいつ、自分が視えると言ってしまうのではないか、と気が気でないのです」

 心労はお察しする。


 しかしながら、

「なんで僕に相談するのさ?」

「貴方はサリナの発言を、肯定したから……。その、もしかして視えているのですか?」

 した。そういえば、最初に出逢った時、サリナが「幽霊がいる」と言ったことに対し、素直に褒めてしまった。


 雪路は困って頭を掻いた。

「いやあ。視えないけれど……幽霊という存在そのものについては、居るものとして認識している、というか……」

 寧ろ死神とは仲間です、とはさすがに言えないので、ある程度のところで言葉をぼかした。


「もしかして、居住区の皆さんは幽霊がいるということを知って……?」

「記憶喪失だから、そこら辺は分かんないよ」

 希望に目を輝かせるビアンカに対し、雪路は取り付く島もないような、冷たい声で突き放す。

「そう……ですか」

 明らかに声のトーンが下がった。


 雪路が幽霊について知っているのならば、助力を請おうとしていたのか。ビアンカ自身は大切な妹が、幽霊が視えるという現状をどう打開すればいいのか、分からないのだろう。


 何せビアンカ自身は幽霊が視えていない。

 五感とは対象を認識するために大切な器官だ。触れられれば、聞き取れれば、視えれば。そこにいる、と人間は認めるように出来ている。

 視えないビアンカは、サリナの言葉が認められないところがあるだろう。

 しかし、妹の言うことは信じたいし、実際に白骨死体の正体を看破したので、信じるしかない。けれども、周囲にそれを告げたら―――。

 差別か、追放か、最悪は殺されるか。


 人間は、自分と異なるものを認められない性質を持っている。


「あー……」

 雪路は大きく息を吐き出した。

 夕陽が窓から射しこんで、部屋全体を赤赤と照らし始めた。


 ビアンカの不安げな表情は露わになり、相変わらず能天気に部屋の隅を見つめて笑っているサリナは、傍から見れば気味が悪い少女この上ない。

 二人は両親を喪っている。今後暮らしていくには、少なからず周囲の助けが必要になって来るだろう。


 と、なると。

「……視えなくなればいいんだな?」

「え?」

 雪路の言葉に、ビアンカは目を丸くして雪路を見た。

 何を言われたのか、分からないという目だ。

 雪路も自分のことがよく分からない。なぜそういう気になったのか。

「視えなくすることだったらできるけど」

「え……?それは、どういう……」

 戸惑うだろうし理由も聞きたくなるだろう。雪路は敢えて感情を抑えた声で告げる。


「サリナちゃんが一生幽霊を視えなくすることはできる、としたらどうしてほしい?」

 ビアンカは口を開閉させる。視線が泳ぎ、何かを考えている様子だった。おそらく自分に問いかけている。それでいいのか。信じていいのか。脳内会議はおおよそ数秒に渡って繰り広げられ、そして答えは出たらしい。


「もしそれが可能なら……お願いしたいです……」

 予想通りの答えだった。

 懇願するような声色だった。


 だが。

「ま、決定権はお嬢さんにはないけれどね」

 雪路は再び冷たく言い放ち、ベッドの上で足をぷらぷらと振って、ぼんやりと雪路たちのやり取りを聞いていたサリナへと視線を向ける。


「それで?どうする、サリナちゃん」

「なにが?」

 当然の返答に、雪路はなるべく子供でも分かるような言葉を選びつつ、話す。

「幽霊、視えなくなりたい?」

「えーと……ゆうれい?」

 首を傾げるサリナの反応を見るに、どうやら幽霊が一体どういうものなのか、理解がしっかりとできていないようだ。


「お父さんとお母さん、お姉さんとどう違う?」

 雪路の問いに、サリナは部屋の隅を数秒見つめてから答える。

「お父さんたちはね、体の向こうまでみえるよ」

 体が透けているということか。


「サリナちゃん。お父さんとお母さんのような人たちが、視えなくなるお呪い、欲しいかな?」

「あそことか、こことかにいる人たちも、みえなくなるの?」

 サリナが色んな場所を指さした。そして、どうやら様々な所に幽霊が点在しているらしい。どれだけ死者が多いのだろうか、この村は。

「そうだね。皆、視えなくなるよ。お姉ちゃんみたいに、体の向こう側まで見えない人だけになる」


 さて。そこまで言ってサリナの表情が曇った。眉根が寄せられ、口がへの字に引き絞められる。見飽きた子供の反応に、雪路はため息を吐いた。

「ヤダ!」

 感情をそのまま声にして、サリナは叫んだ。

「お父さんたちがみえなくなるの、ぜったいにヤだ!だってそれって、会えなくなるってことでしょ!」


 ご意見ご尤も。振り返ればビアンカが唇を引き絞めて、目を大きく見開いている。感情が喉元まで込み上げてきているが、ぐっと呑み込んでいるのだ。

 それは果たして、ビアンカ自身がもう両親に会えない悲しみ故か。

 それとも、聞き分けの無い妹への怒り故か。

 そこまでは、雪路には分からない。

 ただ、当の本人が霊視能力を失いたくないというのならば、雪路にはサリナの力を消し去る権利は一切ない。


 交渉決裂―――。


「ねぇ、ゆきじ」

 ふ、と。

 喚いていた感情が消え去ったような、淡々とした声色でサリナが語り掛けてきた。

「お父さんたちが、言ってるよ」

「は?」

「“くる”って」

「ん?」

 ―――“来る”。


 何が、と問う前に、窓ガラスが弾けるようにして壊れた。非常に太く、鋭い爪を持つ腕が雪路に向かって伸びてきた。雪路の視線が動く。

 真っ赤な獣の瞳と目が合った。

 マナやアニマの感知、はたまた異常な存在、更には感情に対しての感知能力に関してはある程度の自信がある雪路だが、この世界に“生きる”獣については完全に専門外だ。

 雪路は腰の剣へと手を伸ばす。だが、反応が遅れたので、間に合わない。


 自分は死んでも生き返るからいいとして、背後にいるサリナとビアンカに、逃げろという指示すら間に合わないのは心残りで。

 獣の手が鼻先にまで迫った時、無数の氷の刃が獣の手に突き刺さった、その光景を見て、やっと息を詰めた。

 一気に室内の気温が下がったのは、気のせいではない。


 雪路の腰に挿さった剣。その中に宿っている氷の精霊が目を覚ましたのだ。

 声はまだ届かないが、それでも僅かな“意志”の気配を雪路は感じ取る。

 獣の悲鳴が辺りに轟いた。雪路の鼻先まで迫った手が部屋の外へと引っ込んで行った。そこまで見て、獣の腕が異様に長いことに、雪路はやっと気が付いた。


「……なんだ、あれ」

 それを見た時、懐かしさと嫌悪の感情が、雪路の中で沸き起こる。

 体長は五メートルほどか。全身が太く細い体毛で覆われている。地面まで届く長い腕がぐねぐねと風に揺れている。対して足は短く太い。胸部からはあばら骨が皮膚を破って露わになっている。その奥で、やけに大きな心臓が不規則に蠢いていることが伺える。そして―――面長の口から長く垂れた舌の先には、腐った人間の腕が突き刺さっていた。


 現実では到底生まれることはあり得ない獣―――合成獣だ。

 ひ、と引きつった声を出したのは、雪路の後ろで妹をしっかりと庇うように抱きかかえているビアンカだった。今にも腰を浮かして逃げ出そうとしている。恐怖に腰を抜かしていないだけ凄い、と雪路は素直に感心した。


 そして、そんな彼女へ、雪路はそっと囁いた。

「動くな。声を上げるな」

 指示は至ってシンプルだった。

 獣というものは基本的に、怯えて背を向けるものを追う本能があると聞いたことがある。

 目の前の獣に動く前兆は今のところ見られない。動いた瞬間、襲い掛かって来た瞬間、剣を抜いて獣を切り飛ばす準備が雪路には既にできている。

 一挙一動を見逃さないように、雪路は獣を見据え続ける。


(なるべく力は使うなよ。まだ万全の体調じゃないんだろ)

 剣の中で覚醒した精霊に、心の中で呼びかけながら。

 睨み合いが続く―――かと思われた。


 ぴくりと獣が耳を動かしたかと思えば、雪路から村の外へと視線を移す。その先にあるのは森である。獣はじっと森を見つめた後、両手を地面について駆けだした。後ろ足で地面を蹴ってはおらず、前足のみで走っているらしいが、それでも雪路が追えない程度の足の速さであった。

 そうして獣は怯える人々など見向きもせず、一直線に森へと消えていった。

「……マジでなんだったんだ、あれ……」


 獣が消え去った森を見つめつつ、雪路はそんな感想を漏らした。

 と―――。


「……精霊術士だったの……?」

 誰かの言葉が辺りに妙に響いた。かと思えば、どこかに隠れていた村人たちが一斉に雪路に群がった。

「いや、本当に精霊術士なのかい?」

「氷の力を使った!間違いないぞ!」

「いやはや、これは助かったぞ」

「凄いわねぇ、こんなに若いのに」

「本当、ありがとう。助かった!」


 物珍しそうに見つめてくる者。感謝を口にする者。村人たちの言葉や態度はそれぞれ微妙に異なるが、ただ一つ。畏敬の念が少なからず声色に込められていることを、雪路は感じ取っていた。


「精霊術師様。是非ともあの化け物を倒してくださいな」

 雪路たちに部屋を貸してくれた中年女性が、そんなことを口にした。すると、今までバラバラだった村人たちの感想が、一気に“獣を倒す”という意見の同意へと収束していった。

「ああ、頼むよ」

「是非とも」

「お願いします」

「私らでは対処できない」


 押し寄せてくるのは獣への恐怖と殺意。馬鹿らしくて、雪路はこの状況をどう回避すべきか、思考を巡らせ始めたが、どうにも打開案は思いつかない。なので、取り敢えずの妥協案を思いつく。


「あー、じゃあ、さ。誰か、この村の墓場に案内してくれない?」

「は?なぜまた、墓場に……?」

 村人は怪訝そうに眉根を寄せて尋ねてきたので、雪路は“答え”を返す。

「そりゃ当然。化け物たちの食い扶持を潰すためだよ」



 鬱蒼と生い茂る森の中。空は暮れ、いよいよ本格的な闇が襲い来る中、迷いも躊躇いもなく、アデルはある一点へと突き進んでいた。

 ある一点とは、奇妙な気配の出所で。それは異様に巨大な化け物の出所に直結する筈とふんでいた。


 しかし、前に進むごとに鼻につく臭いがどうにも気になった。

 それは腐臭だ。肉の腐る臭いだ。獣がそこら辺で死んでいるのか。それにしては、奇妙に臭いの出所は集中しているような気がして、アデルは嫌な予感を覚えていた。


「……くそっ……なんだ、これは……」

底に到着した時、腐臭と死体に群がる虫たちの音が煩さに、思わずアデルは顔を歪めた。

 そこには、大きな穴が存在していた。その中心には―――人間の腐った死体が放り込まれていた。ざっと見て数十体。死体には、やけに欠損が多い。足が無かったり、腕がなかったり、頭がなかったり。そして、胴がなく、開腹されたその内側に在る筈の骨が存在していない死体もあった。

 そして、総じて死体は、簡素な一枚の白い布で作られた服を着ている。それは、居住区の外の人間たちが、遺体に着せる服だった。


 それはつまり、人間たちによって埋葬された死体であることを意味する。

(この死体……一体どこから……?)

 いや。

 答えは、簡単だ。

 アデルは小さく舌打ちをした。

(胸糞悪い……)


 背後から迫る獣の足音。それが長い腕を振り上げてアデルに襲い掛かった、その瞬間。アデルが大きく目を見開いて、振り返る。その覇気に獣は一瞬動揺し、動きを止めた。

 その隙を突いて、獣の肉体に、地面から生えた硬質な槍が幾本も突き刺さった。獣でいうところの頭、首、心臓に腹。およそ生き物の急所を貫かれた獣は、少しもがき苦しんだが、呼吸がすぅっと消えていくと同時に、瞳からもまた、生気が消えていった。


 アデルは獣を観察する。

 生物として最低限の機能。生き延びていくための効率的な肉体ですらない、哀れな命。それを見たアデルは、胸から込み上げてきた怒りを、言葉と共に吐き出した。


「……誰だこんな事をやった奴は!」


 苛立ちと共に木の幹を殴りつけた。木の幹は弾けるようにして砕け、地面にゆっくりと倒れていく。

 それを見たアデルは、顔を手で覆って一呼吸。息をゆっくりと吐き出した。


(とにかく、村へ戻らなけりゃいけねぇな……)

 何が起こっているのか、全体像は未だ見えていない。

 しかしながら、イルス村と呼ばれるあの村に、死体の山を積み上げた元凶がいることは、確かだ。

 なぜならば―――。



 そこは、墓場だった。

「一体ここに、何の用が……?」

 雪路の背後で、ビアンカが尋ねてくる。

 田舎者の野次馬根性とでも言おうか。村人たちが何十人も雪路の後を着いて来ていて、正直煩わしい。


「どうして墓地なんかに」

「もしかして、精霊が“死”属性なのかしら」

「いや、けどさっき氷を出していたぞ」


 さわさわさわ、と村人たちは憶測を口にする。

 煩い。

「あのさ。見世物じゃないんだけど」

 振り返れば村人たちは愛想笑いを浮かべる。立ち去る気配はない。雪路はため息を吐いて、傍の掘立小屋に立てかけられた桑を握った。


「これ貰うね」

「え?はあ……」

 雪路の唐突な言葉に、村人は思わず返事をした。雪路は手の中で桑の柄をくるくると回しながら、墓地を睨んだ。それから、村人の一人に聞く。

「ねぇ、この墓地、いつもこうなの?」

「いつも……とは?えっと、まあ。墓地、ですし。人気はいつもありませんし……」

「これは?」

 足元に落ちていた花の種らしきものを雪路は拾って尋ねる。


「それは死者への弔いに蒔く花です。どんな時期でも蒔いて数週間のうちに花開く不思議な花でして。花が開いた時、死者の魂は無事に次の肉体に宿る、と昔から言われています」

「ふぅん……。輪廻転生みたいな考え方がある場所なんだ、ここ」

 最初、サリナとビアンカが森の中にいたのは、この種を拾うためか、と雪路はやっと合点がいった。


「壁の中では蒔かないものなのですか?」

 村人が戸惑ったように尋ねてくるが、雪路はそれを無視して視線を墓地へと再び戻した。


「と、なると。この村では最近死者ばかり出ているから、墓地は所々この花が咲いている、というわけか」

「そうですね」

 つまり、村人たちの目に今映っているのは、花が所々咲く、彼らが見慣れた正常な墓地であることだと、雪路は理解する。

 そして、薄く笑った。


「やっすい結界だなぁ」

「は―――?」

 結界という聞きなれない言葉に、村人たちは一人を除いて戸惑いの色を浮かべた。


「いやはや、人間はこれでも騙せるかもしれないけどね。アデルは違和感もっていたし、何より腐臭がひどい」

 笑いながら、雪路はくるくると桑を回し―――

「下手糞が」

桑の先を地面に突き付けた。

 変化はすぐに起こる。桑の先端から不可視の波が幾つも広がっていく。その波は、墓地の周囲を包む結界という名の壁に当たった途端―――それを壊して先へ、先へと広がっていった。


 結界はガラスのように弱く、簡単に罅が入って壊れていく。散っていく。壊れた結界に映るのは正常な墓地。そして、壊れた結界の先に見えるのは、異常な墓地だった。

 地面は掘り起こされ、墓石は倒されている。咲いていた花は踏まれたのか地面に寝ており、既に死んでいる。腐臭が漂い、死体の残りと思われる足や手がちらほらと、落ちていた。


「な、なんだ、これは……」

 村人たちが呆然とした。どうやらやっと、現実の墓地が見えるようになったらしい。

「これ、どういう事?」

 真っ青な顔をしたビアンカが、雪路に教えを請う。

 そんな彼女の手を繋いでいる、サリナが不意に視線を泳がせて、とある一点を指さした。


「ねえ、お姉ちゃん。お母さんたちが……」

 指を指した先にいる人物は、雪路が墓地にきてから此の方、ずっと視界の端に捉えていた人物と一緒だった。

 雪路とアデルを村に迎え入れた中年の女性。

 骨となった死体が、つい最近いなくなっていた人物のものだと、証言した女性。


「みんな、おばさんを指さしているよ。なんで?」

 サリナの問いかけに、雪路は答える。腰の剣の柄に、指先を置きながら。

 既に全身に力を僅かに込め、臨戦態勢を取りながら。


「なんでもなにも、おばさんの皮を被ったアポストロが犯人だからだよ、サリナちゃん」

 笑う雪路の顔を見て、その中年の女性は―――人間の皮を被ったアポストロは、唇を引き絞めた。

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