第一章
5話 イルス村(1)
正直に言って、桜江雪路はかなり戸惑っていた。
なぜか。
人間の青年の姿をした精霊が、あっさりと自分のことを―――アポストロと呼ばれる、おそらく彼らからしてみれば“敵”である存在の雪路を、信頼すると宣言したことに、である。
事実は話した。しかし証拠はない。
それなのに、得体の知れないものを、しかし自分が信じたいから信じる、という。
論理的ではない。実に感情論。
(人間臭い精霊だな……)
そういう感想を雪路は抱く。
そも。
雪路が知る精霊とは、大地や大気に流れる特殊な力、地脈やアニマと呼ばれる力が存在する世界にのみ現れる、自然の化身だ。
自然とは非常に理屈捏ねたものであり、よって自然の化身である精霊は理屈と論理を持ち合わせているが、人間の標準的な倫理と感情は持ち合わせない。
水の精霊ならば、自身が司る水を汚す人間には容赦なく。水を清らかに保つ人間ならば慈悲深く力を貸す、というように、自分の利益か不利益になるかを、相手の行動や力量、それらを実際に目にしないと力を貸さない傾向が非常に強い。
故に、この世界の精霊は。
人間という存在にいいように使われているからこそ、人間そのものに嫌悪しているので、力の一切を貸さないのかと思えば。
ぽっと出て沸いたような存在である雪路を無償で助けたりするし、あまつさえ語ったことをそのまま信じると抜かす。
それは奇妙で仕方がない。今までに見たことのないタイプの精霊だった。
(自然を操る、という点では他の世界の精霊と何ら変わらないんだけれどなぁ……)
雪路は大きく欠伸をした。
土を固めただけの簡単な道の上を走っているからか、雪路が乗る車は何度も上下に揺れる。
アスハ古跡での戦いの次の日。早速、雪路とアデルは北を目指して出発した。青々とした木々の色が窓ガラスに映り込む。極めて平和な昼下がり、といったところか。特にここまで変化はなく、そして会話もなく進んで行く。
「……ねえねえ、ラジオとかないの?」
「ないな。電波の範囲外だ」
「なんてつまらない世界なんだ」
前方から返って来た予想通りの返事に、雪路はぼやいた。一応CDは持ち歩いているのだが、どうやらこの車はCDを入れるオーディオ機械すら取り付けられていない。簡単なスピーカーが前後の扉に取り付けられているのみである。
「暇で死にそうだ」
「死なない奴が何を言う」
冷たくアデルに返されて、雪路はため息を吐いた。
暇な要因はアデルが、案外話さない性質であったことにも起因している。というか、ずっと眉間に皺を寄せて、真剣な表情でハンドルに体を近づけて前傾姿勢、前方をずっと睨んでいるあたり、運転が苦手なのだろう。
「運転、代わろうか?」
「いらん。ていうか、足が届かんだろう、お前」
「んなっ!失礼な!さすがに届くよ!」
確かにこの世界に来てマナを封印した影響で、肉体が年齢退行を起こしたので、今の雪路の見た目の年齢はおおよそ十代前半にまで戻ってしまっている。それでもぎりぎり、車のアクセルに足が届く自信はあった。
「なんだよ、運転にあまりにも自信なさそうだから、親切心で言ってあげたのに!」
「誰が運転に自信がない、だ!ちゃんと運転できているだろうが!」
今度は予想外の返答。雪路は思わず「えー」と声を上げた。
「いや。今の自分の姿勢、カメラで撮って見て見なよ。見事な前傾姿勢。運転初心者にありがちな姿勢になっているから」
「初心者じゃない!」
コイツ、結構面倒臭い。
あまりに人間臭すぎる精霊の主張に、雪路は会話を無理矢理切ろうと思ったが、
「……あれ?ねえねえ」
「なんだ!」
苛立ちながら返す、アデルに向かって雪路は伝えた。
「あそこ」
雪路は森の中を指さした。木々の隙間から見えるのは、二人の人間。一人の女性が庇うように小さな女の子を抱いて、それと対峙していた。
それ、とは。
体長五メートルほどもあろう巨大な熊である。口からはだらだらと涎を垂らして、瞳を爛々と輝かせて人間二人を見ている。体は痩せ細っているあたり、飢えているらしい。
「喰われる」
「早く言え!」
即座にアデルは怒りに声を上げながら、車を停めて外へと飛び出して行った。
どうやら助けに行くらしい。
「……やっぱ変な精霊だなぁ」
雪路は感想を口にして、腰から拳銃を取り出した。
アデルが熊に向けて突進して行く。握りしめた拳から、今まで感じたことのない気配が漂い始める。それは、自然界の特殊な力―――アニマによく似ているが、別のものであることを、雪路は専門家ゆえに即座に理解した。
例えるならば、それは燃える魂のように、揺らめいた、あまりにも儚い力の一端。
(あれが霊力かな?随分と不安定な力だなぁ)
冷静に分析した後、雪路は拳銃を構えて、熊の脳天に照準を合わせる。そこまでの時間はおよそ一秒。そして。
一発の発砲音が森の中に轟いた。音は森の奥まで響き渡っていき、木の幹に当たって木霊する。
ぐらりと人間二人を襲っていた熊の体が傾いだ。そのこめかみに今しがたできた穴から、だらりと血が流れ落ちた。熊の巨体がゆっくりと地面に倒れる。相当な重量らしく、地面が僅かに揺れるのを感じた。
「……」
雪路は黙って銃を下ろし、小さく息を吐く。
そして、
「お前何やってんだこの野郎」
戻って来たアデルに片手で締め上げられた。
「助けるんだったらさっさと言え」
「言う前に飛び出して行ったんじゃん……」
雪路は声を詰まらせながら抗議する。
ヤバい、このままでは呼吸困難で一回死ぬ。
「あ、あの!」
背後から声がかかったことに気を取られ、雪路の首にかかったアデルの手の力が弱まった。今だとばかりに雪路はアデルの魔の手から逃げ出して、地面に手をついて荒く呼吸を繰り返す。
「あの、大丈夫、ですか?」
声の主は当然、先ほど熊に襲われていた女性だ。彼女はどうやら首を絞められていた雪路を心配しているらしい。薄い金髪が簾のように顔にかかるのを気にせず、雪路の顔を覗き込んできた。青い瞳が真っすぐに雪路を見てくる。
こういう善意がこもった瞳は中々苦手なので、雪路は思わず目を背けた。
すると、今度は女性の連れである小さな女の子のきらきらとした緑の瞳と目が合った。
雪路は唸る。純粋な瞳も苦手だ。
「大丈夫だ。こいつは死なんから」
「は、はあ……」
アデルの言葉を冗談と受け取ったのだろう。女性はどう反応していいのか分からなかったらしく、困惑の表情を浮かべた。
「それにしても、やたらでかい熊だったね」
雪路は感想を口にする。
「熊って大きくても三メートル程度のものだと思っていたけれど」
「俺もそう記憶している」
おや、珍しい。自分の今までの異世界での経験と、“この世界”の常識があまりにも一致しなかったので、アデルと意見が珍しく合ったことに、雪路は少し驚いて眉毛を上げた。
「まあ、常識から外れた個体って、ちょっとした世界のズレに生まれるものだ……」
雪路は言葉を止め、今度は即座に行動に出た。女性の肩を掴んで乱暴に自身の後ろへやると同時に、腰に挿してある剣を素早く引き抜き―――同時に後ろから襲い来ていた五メートルほどの熊の胴を横に斬り伏せた。
ぎゃ、と熊は小さな悲鳴を上げた。先に宙に浮いた上半身が地面に落ち、続いて下半身が横に倒れた。
熊の黒い瞳からは生気が抜けていったのを確認し、雪路は一息ついた。
(……生死確認を忘れていた……)
存外、自然の生き物とはしぶといものだ。それこそ、生きようという意志が強い生き物ほどに。
それを知っていて油断したのは、雪路自身、生死というものにあまり執着がないからか。
「……お前、十分に強いじゃねえか」
アデルが熊の死体を睨みながら、一言、感想を述べた。
強靭な筋肉を持つ熊を、一刀のもとに切り伏せる光景を見れば、その人物は強いと判断するだろう―――が。
「向かって来る相手なら突っ立った状態でも、ある程度の対処はできるからね。相手の動きを読んで先回りすればいいからさ」
「凄いな」
素直な賞賛だったが、雪路は肩を竦めた。
「そこまでじゃないよ。相手から向かって来ることと、剣を振る程度の狭い範囲の攻撃でないと、対処できないもん」
向かって来る敵を倒すことを大前提とした攻撃だ。現時点で、雪路は身体能力全般が落ちてしまっているために、自分から攻撃を仕掛けることはできない。仕掛けたとしても、避けられて殺されるのが関の山。
幾ら死なない体でも、痛いものは痛いのだから、わざわざ殺されに行くような行為を、雪路は基本的に取らないと決めている。
「結局人外からは、俺が守ってやるしかないってことか」
ため息交じりに呟いて、アデルは真っ二つになった熊の死体に近づいて、しゃがみ込んだ。
「……これ、結構よさそうな肉だな。捌いて食うか」
突拍子もなくアデルが言うものだから、雪路は顔を顰めた。
「うええええ?そんなものを食べんの?獣臭いじゃん!」
「けど、折角の肉をこのまま埋めるのも勿体ないし……」
アデルが熊の死体の足を掴んで引っ張り上げようとして。
ごとり、と熊の腹から丸い何かが地面へ転がり落ちた。
白くて丸い。瞳があるべき部分は空洞のしゃれこうべ。―――人間の骨だ。
「ひ、人喰い熊じゃん、コイツ!え、食べるの、本当に?」
「人間を喰った熊なんて食えるか!食の趣味が合わん!」
「趣味が合ったら食べるんだ?」
アデルの発言に不穏なものを感じた雪路が冷静なツッコミを入れた。
それから、転がり落ちたしゃれこうべをまじまじと見る。
頭蓋の大きさからでは断定まではいかないが、おそらくは成人男性のものだろう。胃液の影響は殆ど受けていないのか、骨の表面はつるりと綺麗で、溶けている部分は見当たらない。
「ねぇ、お姉ちゃん」
背後で、小さな女の子が喋る声がする。
女の子は、ぼんやりとしゃれこうべを見つめて、姉であるらしい女性の服の裾を引っ張っていた。
「あれ。エヴリンおじさんだよ」
あれ、と女の子が指を指すのは、地面に転がった骨である。
それを聞いた女性が、顔色をさあっと青白く変えながら、慌てて叱った。
「なんてことを言っているの、サリナ!そんなワケがないでしょう!」
女性がなぜ、女の子を叱ったのか、雪路にはその理由は全く理解できなかった。子供ならばどんな世界でも“見える”ことは十分にあり得る話なのだから。
とはいえ、この世界が異常な状態であることは既に確定していることなので、固定概念には囚われず、柔軟に対応していこう。
「因みにそのエヴリンおじさんっていう人の、身長は?」
雪路は試しに尋ねてみる。
「えっとね、そこのおっきいお兄ちゃんよりも少しひくいくらいだよ」
「……お兄ちゃんか……。もう一日、コハクの声を聴いてねぇな……」
サリナの言葉に、物寂しそうにアデルが呟いた。目が虚ろだ。
救いようがないほどの、重度のシスターコンプレックス。まさか“お兄ちゃん”という単語だけで反応するとは思わなかったので、雪路は呆れ返り、アデルを無視することにする。
そうして頭蓋骨の傍に近寄った。拾い上げて口を開く。口の中には並びが悪い歯がある。永久歯がしっかりと生えているのを見ると、頭蓋骨の主が生前、大人であえることが伺えた。しかし、それだけでは少々情報が足りなかったので、ポシェットから医療用の手袋を取り出して嵌める。それから熊の胃の中にあった人間の骨を幾つか引きずり出して、その場に並べた。
「何をやってんだ?」
「骨を並べれば、身長くらいは分かるでしょ。それに」
アデルの質問に答えながら、雪路はポシェットから掌に納まる程度の大きさの薄い機械を取り出した。機械の裏側についているレンズを並べた骨に向けて、写真を一枚撮った。機械の画面に『解析中』の文字が表示されて数秒後。骨から得た情報を元に、3D画像が画面に現れた。
「年齢は……ってあれ?どしたの」
振り返れば呆然と、雪路が手に持った機械を見て立ち尽くしている人間の女性二人がいるので、雪路は目を細めた。
「これ、そんなに珍しい物なの?」
アデルに機械の希少性について尋ねる。
「いや。同型で似ているの物は居住区で見る。骨から情報を得るほどの高度な技術は聞いたことはないが……。だがな……」
アデルは小さくため息を吐いた。
「居住区の外では珍しいものなんだよ、電気で動く機械は。そして、それを持っているということは、つまり……」
「……ちいさいお姉ちゃん、もしかしてきょじゅうくの人なの?」
目をきらきらと輝かせて、サリナが雪路に近寄って来た。子供特有の純粋な好奇心が詰まった視線が苦手な雪路がうっと唸る。
「こら、お姉ちゃんじゃないでしょ、お兄ちゃんでしょう」
サリナの姉と思しき女性はサリナを叱りつける。
それから慌てた様子で深く雪路に頭を下げた。
「申し訳ありません。まだ口の利き方も分からない子供ですので、どうかお許しを……」
生来そういう人間の感情に敏感な雪路はよく分かる。女性の態度が明らかに変わった。恩人に向ける感謝の意識が、恐怖の念へと変わった。
「……どゆこと?」
この女性の態度の変化に推測はできるが、正しい答えを聞くために、雪路は敢えてアデルに尋ねた。
アデルはとても面倒そうに答える。
「居住区はいわば特権階級の人間が住む場所なんだ。
居住区の中は文明が数段階進んだ場所で、よって機械文明がある程度発達している。
だが、居住区の外ではその機械文明が存在しない。
機械とは居住区の内側に住む特権階級の人間たちだけが持ちえる身分証みたいなもんだ。よって機械を持っているだけで外に住む人間たちより遥かに偉い、というのがこの世界での常識なんだよ」
結局、この世界の人間の間でも、身分差のようなものは存在しており。
女性の態度から察するに、居住区の外側の人間は、居住区の内側の人間から少なからず理不尽を強いられているのだろうか。
「ふぅん、つまんないの」
雪路はアデルの説明を、たった一言で両断した。
「人間の差別好きは嫌って言うほど知っている。もっと面白い話が良かったなぁ」
「お前が説明を求めたから話してやったんだろうが……この糞チビ」
身勝手な雪路の言葉に戦慄くアデルは置いておいて。雪路はさっさと次の話へと移る。
「で、さ。年齢四十代後半、中肉中背、少し栄養失調気味。身長は百八十前後……というのが機械が算出した、この骨の持ち主の生前の特徴なんだけれど。エヴリンっていう人の特徴と一致してる?お嬢さん」
「え、ええ。まあ……そうですね」
サリナの姉である女性は、視線を泳がせながらも答えた。そして、
「ほらね!わたしの言ったとおりでしょ、お姉ちゃん!」
「サリナ、黙りなさい」
どこか誇らしげに胸を張るサリナを、姉は強い口調で命令した。サリナは肩を震わせて、怯えた様子で黙り込む。少し気まずい空気が流れ始めるが、雪路は全くそれを無視して、
「へぇ。凄いじゃん、サリナちゃん。勘が鋭いんだ」
素直に褒めたことに、サリナもその姉も、目を丸くした。
それから破顔したのはサリナだった。とても嬉しそうに表情を緩ませて、にかりと笑った。
「そうでしょ、わたし、すごいでしょ!」
「そうだねぇ、この世界の生き物なんてどいつもこいつも鈍感な奴ばかりだと思っていたけど、やっぱり子供は違うみたいだ。ある意味そこの強面よりも凄いかもしれないね」
「誰が強面だ、誰が」
アデルが不機嫌そうに眉根を寄せる。その顔は正しく鬼のようで、サリナは表情をこわばらせて慌てて雪路の後ろに隠れた。その反応を見たアデルはあからさまにショックを受けた様子で、その場に硬直する。
(こいつ、もしかして自分の顔が怖いって自覚がないのかな……)
よく考えれば、アデルは山の中で妹と一緒にずっと暮らしていたという。買い物の時だけ居住区に下りてきていたらしいが、それ以外はずっと山の中。コミュニケーション相手は見知った一人だけ。顔が怖いという指摘をされたことが無い可能性は十分にある。
まあ、顔が怖いので誰も指摘できなかった、という可能性も十分にあるのだが。
「それにしても人喰い熊がいる物騒な森なんて、早く抜けちゃいたいから、さっさと出発しようよ」
「お前、喋るだけ喋って……」
アデルが頭を抱えているのは、雪路がころころと話題を変えるからだろう。
雪路もその辺の自分の性格については自覚をしているが、如何せん何千年以上経っても治らなかった性格なので、もうどうしようもない事も知っている。
「……だが、確かにこの森の気配が僅かにおかしいのも確かだ。早く抜けよう」
森の気配、というのは、精霊特有の感覚に由来するものなのだろうか。雪路にとっては、森は森。僅かに死が漂う、普通の場所としか感じ取れない。
アデルは二人の人間の女性へ視線を向ける。
「あんたらはどうするんだ?よかったら村まで送って行ってやる」
「へ?」
抜けた声を出した雪路をアデルが睨んだ。
「なんだ?」
「いや、少し意外だなって……」
アデルは人間が嫌いだと、何となしに察していた。恨んでいるのかもしれない。過去に何があったのか、精霊という大枠に起こった概要しか知らない雪路だが、それでも。
本人たちの意志に関係なく、人間に強制的に従わされている。
人間たちからは道具扱いを受けている。
この二つの要素だけでも、人間を恨むには十分な理由だ。
どうやらアデルという精霊は、“人間だから”を理由に誰でも無差別に憎しみを抱くタイプではないらしい。
少し見直した。
「あ、あの……送っていただいてよろしいのでしょうか……?」
女性が恐る恐る、といった様子で尋ねてくる。
「当然だ。妹のいる女を置いて行くのはさすがに気が引けるからな」
基準はそこか。
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