3話 アスハ古跡(1)
これは死んだ、と桜江雪路は、アポストロと呼ばれる人間もどきに拳銃で攻撃を加えた後、悟った。経験からくる確信に近い未来予測だ。間違いない。
現に、魔力防壁を破った銃弾の出所である雪路の姿を見つけた瞬間、空を飛ぶ男のアポストロの表情が歪んだ。
その表情が、怒りというよりも恐怖に近いものであることには、少し違和感を持ったのだが、とにかくも。アポストロは今確かに殺気を放ち、危険と判断した雪路を殺さんとばかりに、空中に魔力をかき集めて、魔術式を組み始めている。その魔術式は稚拙なものであり、弱い類の魔術には変わりないのだが―――雪路を殺すには十分な威力は有している。
(せめて死んで復活するところだけは見られないようにしよう)
自分が不死である、という切り札を知られないために、雪路は慌てて屋根からアポストロの視界から逃れられる家の裏へと跳んだ。
直後、熱線。
熱が肌を焼き、骨の髄に至るまで、全てを溶かそうと襲い掛かって来る。
普通の人間なら即座に溶かして消し去ることができる威力。雪路は舌打ちをしながら、家壁に急いで“強化調律”を施そうとした。が、それよりも早く、腰の剣から冷気が溢れ出た。
「―――え?」
目の前まで来ていた熱線が冷気によって急速に冷やされていく、その様子を雪路は確かに見た。冷気が壁になっている、という表現が正しいだろうか。ただ、これが自然界で発生し得る現象かと言われれば、それは「あり得ない」と断言できる。それほどに珍妙な光景であった。
気づいたら、冷気の壁に熱線が直撃し、白い蒸気が辺り一面に蔓延していた。呼吸がしにくいのは、熱線に酸素を殆ど奪われたせいか。
咳き込みながらも雪路は少しの間、呆然とした。
(嘘だろ……。これが自称“精霊”の力……?)
雪路の知る精霊とは。
他の異世界に於いては自然の無意識が具現化したものだった。人間ではどうすることもできない台風のような猛威を振うことはできるし、地割れを引き起こして惑星そのものを壊すこともできるが、そこには常に、自然の摂理が付きまとう。
よって、そもそも自然から生まれるものではない、特殊な力であるマナで精製された、自然の摂理を捻じ曲げることができる魔術には、敵わないことが非常に多い。
だが、今、雪路の目の前で彼の中の常識は脆くも崩れ落ちた。
精霊の力が、魔術に勝った。
(……この世界、いよいよ歪んでいるじゃないか)
厄介な所に来た、と雪路は再認識する。
それでも、今剣の中に封じられている白い精霊が、力の限りを振り絞り、雪路を庇ってくれた、という現状は変わらない。
「助かった」
雪路はまず、礼をしっかりと口にして、優しく剣の柄に触れて、立ち直す。
そうして、居住区を襲撃していた二体のアポストロの気配が遠ざかっていくのを感知した。
(色々と聞きたいことがあるな。逃がしてたまるか……)
雪路はそれを追おうとし、
「待ちやがれ!どこに行きやがった!」
怒鳴り声に足を止めた。
アデルだ。怒りに声が震えている。
アポストロは彼の妹であるコハクを攫って行った。コハクが精霊だから攫って行ったのか。それとも、他の理由なのか。
そんなものはおそらく、あの兄を名乗る精霊にとっては関係が無い事だ。
彼は今、大切な妹を攫われて憤っている。
必ず追っていくはずだ。
さて、速力で遥かに勝り、既に見えなくなっているであろうアポストロを追う手立てはついているのだろうか。
「……僕も人が好くなったなぁ」
雪路は小さく息を吐き、ひとりごちる。それから白い煙の中、アデルの気配を辿って近づき、その大きな背中を指で軽くつついた。
「ねぇ」
「―――あ?」
子供だったら思わず泣き叫んで逃げ出す、鬼すら怯えるような形相でアデルが振り返った。
「僕、あれの気配を追えるからさ。怒ってないで、足を探そうよ。あれの速力は僕が翼を撃ち抜いたから、大分下がっているからさ、車くらいの速度で十分追えるけど」
「追えるのか!そりゃ僥倖!」
アデルはがっしりと雪路を掴んで肩に担ぎ上げる。
行動が早い。
だが、アデルが辺りを見渡しても、動きそうな乗用車の類が見つからない。先ほどのアポストロの熱線で壊れてしまった車やバイクが、炎を上げているばかりだ。
「くそっ……。取り敢えず走って……」
「さすがに逃げられちゃうよ」
「黙れ!」
雪路のやや気のない言葉に、苛立ってアデルが大声を上げた。
「てめぇ、コハクを助ける気があるのか!」
「いや、僕はあのアポストロにちょっと用があるだけで、コハクちゃんはついでなんだけれど」
余計な事を口走り、雪路は再びアデルに睨まれる。
「ついで……だと?俺の妹があのあほ面の誘拐犯のついでだと?」
「……なんかすいません」
声が尻すぼみになるのは、我ながら情けない、と雪路は思う。
その時、エンジン音が猛烈な勢いで近づいてきた。やって来たのは小型の黒い車であり、ドアには「統一軍」の紋がプリントされている。中からは想像通り、軍服を着た若い少年の軍人が現れて、
「大人しくしろ、精霊!」
「よし、いいカモが来た!車を奪うぞ!」
軍人が叫ぶと同時に雪路が叫ぶ。
やはりアデルの反応は早く、軍人へ向かって突進を開始した。
精霊であるアデルが、逃げると思っていたのだろうか。虚を突かれたように軍人は目を丸くし、慌てて腰のホルスターから精霊の気配が漂う拳銃を抜こうとする。が、その前にアデルは彼の腹を蹴りつけた。
ぐふ、と籠った声を上げて、そのまま軍人は昏倒する。
「さあ、行くぞ!コハクはどっちだ!」
車に入るや否や、アデルは抱えていた雪路を後部座席に放り投げ、さっさと運転席に座りながら尋ねてくる。
「西、とにかく真っすぐ西……うわっ!」
答えた直後に雪路は急発進した車の勢いによって、後部座席の背もたれに押し付けられた。
「ちょっと!安全運転!」
「やってられるか、そんなもの!」
雪路の文句を返しながら、アデルは更に車の速度を上げる。エンジン音が大きくなり、少しハンドルを切る都度に、雪路は左右に振られる羽目となる。さすがに命の危険を感じて、何とか雪路がシートベルトを着けた時、居住区と外の世界を区切る分厚い壁が見えてきていた。
形ばかりの壁。アポストロという空からの強敵に対して作られた筈なのに、本来の役割を果たさない壁は、ただ死んだように聳え立つばかりで、更に紋は中途半端に開いている。
あっという間に車は門を通り抜け、深い森を猛スピードで進んで行く。
「本当になんで、あんな意味のない門を作ったんだよ……」
「おい、このままでいいのか!」
雪路のぼやきすら聞こえていないらしく、アデルは鋭く質問をしてくる。
「このままでいいよ」
意識を外に集中させながら、雪路は答えた。
アポストロ特有のマナの気配は、真っすぐ迷いなく西へと向かって行く。その先に、目的地があるのだろうか。
「……なあ」
僅かに声のトーンを落としながら、アデルが再び尋ねてくる。
「なんで、お前はコハクの気配を追える?」
「……ああ、やっぱりできないんだ」
アデルのその言葉に、確信を持った。
この世界の人々は、マナや彼らが言う所の霊力という、目に見えない力の類を感知できないらしい。
「コハクちゃんの気配を追っているわけじゃないよ。彼女の気配、やや弱いから。それよりも、あんたたちがアポストロと呼ぶモノの気配……まあ、確実にはあいつらの気配ってマナという力なのだけれど、それが独特だから。とても分かり易いんだ」
「その気配を感知する力は、異世界とやらでは普通の事なのか?それともお前の能力の一種と考えていいのか?」
「それは異世界によってまちまち。敏感な人が多い所があれば、さっぱりな所も多い。この世界の人間ができなくても、特に世界全てとしてはなんら珍しい話でもない」
肩を竦めつつ、雪路は腰から拳銃を引き抜いて、ある特殊な銃弾を装填し始める。
「そして、僕の場合は特に感知が得意、と言っておこうか。なんせ専門家にみっちりと仕込まれた能力だからね」
雪路はマナから“気”まで感知する能力を身に付けるために行った、地獄のような修行の日々を思い出し、苦笑する。
「……そうか」
何かを考えながら相槌を打ったのだろう。アデルの声は消えていく。
「ま、取り敢えずアポストロの方は任せてよ。あいつの防護壁は僕の拳銃で壊せるから」
「なんだ?防護壁って」
「体を護るマナで出来た防護服のようなものの事。簡単に言えば防御力が上がる」
その言葉に、アデルは舌打ちをする。
「成程。攻撃が中々通じないわけだ」
「まあ、破り方にはコツがあるだけで、覚えれば誰でも……ん?」
雪路は変化したアポストロの気配に、目を瞠った。
「どうした?」
「あの雑魚の気配が揺らいだ」
まるで耳に水の膜が張ったかのようだ。気配が掴み難くなった。
「あそこだ」
雪路が目の前に現れたとある場所を指さした。
そこには、ひっそりと佇む朽ちた建物があった。
雪路が最初に訪れた古跡がショッピングモールだとすれば、こちらは高層ビルだ。ただ、高層ビルは途中でぽっきりと折れており、更に僅かに傾いているという朽ちようだ。
「古跡の中か」
「へえ、あれも古跡なんだ」
雪路は首を傾げた。
古跡に着いて辺りを見渡してみれば、草木が生い茂る土地と、何も植物が生えていない不毛な土地で見事な境界線が出来ている。そこを踏み越えると、軽い酔いを感じ取る。
(気配が……変わった?)
雪路は眉間に皺を寄せた。最初に雪路が訪れた古跡は、このような感覚には囚われなかった。まるでこの枯れ果てた古跡の土地は、全く別の世界のように思えた。
自然の気配すらしない、死んだ大地。その上にある高層ビルの残骸は、まるで死体のようだ。
車を降りて建物の中に入る。屋内は中心が完全な吹き抜けで、階層が目で見て数えられた。但し、建物全体が傾いているせいで、斜め上を向かないと天井が見えない。階を数えてみれば、地面と垂直に立っている自分まで、体が傾いているかのような錯覚に陥った。元は地上二十階のオフィスビル、といった所か。開放感のある洒落た作りで、広い廊下がとても目立つ。
この古跡の中もまた、まるで生命力が感じられない場所で、古跡と称される建物には、蔦は絡みついておらず、水たまりも見当たらない。
「古跡とその周辺だけ、まるで別の世界みたいだね」
率直な感想を雪路は述べた。
「どこの古跡も、こんな感じだ。草すら生えない死にかけた空間なんだよ、古跡というのは」
辺りに警戒を払いながら、アデルが説明を加えた。
彼の言葉に雪路は納得した。生命の力が極端に失われた死にかけた土地。それは、崩壊し始めたどの世界にも存在するものだ。尤も、この古跡という場所ほど極端なものは珍しいのだが―――。
「ん?あれ?けど僕が居た古跡は、生命力に溢れていたけれど……」
「―――んなことより、まずはコハクだ。あの子はどこにいる?」
雪路の次の疑問は、アデルの必死さによって無理矢理遮られた。
確かに優先順位はアデルの主張の方が上であるので、雪路は口を噤んで、意識を集中させる。ただ、雪路の感知能力は中々に機能しない。
「そのことなんだけれど、この場所、アポストロに限らず色んな気配がとても感知しづらいんだよね」
「は?なんだそれは?」
「僕の感知する力って、レーダーみたいに僕を中心に波紋のように広がっていくものなのだけれど、その広がりが妙に鈍いんだよ。この古跡という“領域”にアポストロとコハクちゃんがいるっていう事は分かるけれど、的確な位置が掴めない」
いつも雪路が異空間に常備している専用の補助武器があれば別なのだが、今現在、マナを使用できない故に、異空間魔術を使えず取り出せないため、それは敢えて言わない。
アデルは辺りを見渡しながら、顎を撫でた。
「ここにはいるんだな?」
「それは確かだけど」
ここで嘘を吐いても仕方がない。
「時間がもったいない。とにかく足で探すか……」
言いながら、アデルは傍にあった錆び付いたドアを開き―――。
ドアの入口いっぱいに敷き詰められた幾つもの顔に驚き、肩を震わせて硬直した。
古跡獣と呼ばれる化け物が、入口いっぱいに詰まっていた。体に幾つもついている顔が、開かれた入口に移動してきて、その虚ろな瞳が一斉にアデルを睨んだ。
「「……は?」」
雪路とアデルが呆けた声を出した直後。
数十もの顔が一斉に虚ろな瞳を見開いて、絶叫を開始した。その声は何十にも重なって、辺りに轟いた。それは明らかに人間の声だ。
ドアから首を伸ばし、アデルに噛みつこうと古跡獣が襲い掛かる。開いた口には牙が並び、容易に人間の体など貫くことができるだろう。
なのだが。
「うおら!」
そんな凶暴な牙はその役割を果たす前に、アデルの拳の一撃を顔面にまともに喰らい、幾つかは衝撃で抜け落ちた。そのまま肉体は後ろへと吹き飛ばされ、壁に叩きつけられてべしゃりと生々しい音を立てる。千切れたらしい。肉片が辺りに散っている。
「邪魔すんじゃねえよ」
舌打ちをしながら、アデルは肩を回した。
一切の容赦がない。古跡獣を見つけた直後に思い切りよく蹴飛ばしたコハクと同じような行動を起こすアデルを見て、つくづく二人は兄妹であるのだと認識する。
そして。雪路の目の前には、一つの顔が落ちてきた。アデルに殴られた時に引き千切れた古跡獣の首だ。虚ろな瞳が雪路を見て、その口が、弱弱しくゆっくりと動く。
―――タスケテ。
声は出ていなかった。ただ、口の動きから言葉を想像できた。
雪路は一瞬、古跡獣が“なぜ人間の言葉を喋っているのか”という疑問に意識を向けたのだが、
「ぎゃああああああああ!」
上の階から響いてきた、男の悲鳴によって疑問は掻き消えた。
声の主がアポストロのものだと雪路はすぐに判断する。
「上!さっきのアポストロの声だ!」
「おし!」
アデルは頷いた。そうして雪路を小脇に抱え込んだ。
「ん?」
なぜ抱え込まれたのか、雪路はさっぱり分からず、目を点にした。
傍に在る階段で上に行くのではないのか。なぜ建物の壁へと走り出すのか。理解が全くできない。
「すぐ行くぞ、コハク!」
アデルが壁に向かって跳んだ。壁に足場はない。だが、アデルの足は、壁から突如として現れた足場を確かに踏みつける。足場は吹き抜けの壁沿いに次々と現れていく。右、左、右、左、とまるで反復横跳びでもするように、アデルは跳ぶように目的の階への最短距離を、上へ、上へと上っていく。
「な、な……?」
「俺は大地の属性を持つ精霊だからな。土はもちろん鉱石も全て、霊力が続く限りは俺の想いのままなんだよ!」
雪路の混乱を、自身が行使している力のせいと勝手に受け取ったアデルが、意気揚々と説明していく。対し、雪路はというと、
「……地味すぎる」
「あ?」
その一言でアデルの声色は一気に剣呑なものへと変化する。
気にせずに雪路は続ける。
「地味、地味すぎるよ!もっと馬鹿みたいにド派手な事はできないの!精霊っていうから数十メートル上へ一気に跳んだり空中に足場を作ったりできるものかと思えば、なんて地味なんだ!確かに人間より身体能力は上みたいだけれど、つまんない!地味だし、つまんない!」
まるで子供の駄々っ子のように喚く雪路に、苛立ちを隠さずにアデルは声を荒げた。
「うるせぇぞ!数十メートルも上へ跳んだり、空中に足場を作ったりするには重力制御を使わなければならないだろう!古跡ではそんな派手なことはできん!なんせ生命力が枯渇した大地だからな!俺の力なんて十分の一も発揮できないんだよ!」
「待て待て待て!今なんかとても不安なこと言った!確実にヤバいことをさらりと言った!」
雪路は喚いた。
どうやらこの世界の精霊を名乗る生命体も、他の世界の精霊同様、大地や大気を自由にする力を持つらしい。よってこの自然の生命力が枯渇した古跡という場は、精霊にとっては最悪のフィールドであるらしい。
それで果たして、型落ちとはいえ破壊を生業とするアポストロに勝てるのか。
「ねえ、もしかして今、馬鹿力しか発揮できない感じなの?勝てるの?」
「勝てる!あの男は戦い馴れしていない様子だったからな!体術だけで十分だ!」
完全に言い切って、アデルは地上十一階のフロアの廊下に着地した。廊下は長く続いている。元は飲食店が立ち並んでいるフロアだったのか、ショーウィンドウが多いが外窓は少なく、吹き抜けから離れるほどに太陽の光が入らなくなり、廊下は暗くなっていく。
雪路はむっと顔を歪めた。
「ここいらから声がしたよな?」
アデルの確認に、雪路は答える。
「一応。……けどね」
廊下を慎重に進む。
むわりとした血の匂いが暗がりから漂ってくる。それに気づいたらしく、アデルもまた、顔を歪めた。
貪る音。それは、肉を引き千切り、がりがりと骨を食む音だ。時折床に滴る音がするが、それが一体何が下たる音なのか、他の音と併せれば想像に難くない。
「電気、点けるよ」
雪路はポシェットから小型の懐中電灯を取り出して、アデルに一応声を掛けてから、前方へ懐中電灯のレンズを向け、電源を入れた。
照らし出されたのは、雪路の予想通りの光景だった。
人間の姿をしたものが一つ。それを貪る古跡獣が一人。人間の姿をした生き物は雪路たちが追っていたアポストロのもので間違いない。
否。生き物という単語は些か間違いだ。なぜならば、アポストロは既に死んでいるから、あれはただの抜け殻で、肉の塊だ。
雪路は驚いた。
低級とはいえ、人間や自然を超越した生命体であるはずのアポストロが、こうもあっさりと獣に食い千切られて殺されている。それは、今まで遭遇したことのない場面だったからだ。
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