2話 精霊と異邦人(2)

 古跡もまた、山の中同様に、変貌を遂げていた。

 錆びれ乾いていた筈の大地に、水が溜まっていた。地面だけでなく、大気の湿度も増していた。コンクリートの壁には蔦が絡みつき、足元にはぼうぼうと草が生え、小さな花が咲き、虫まで飛んでいる。


 アデルが何百年もかけても、命が枯れることを防ぐしかなかった古跡の大地が、今、まさに息を吹き返していたのだ。

「この変化は一体、なんだ……?」

 答える者がいないとは知りながら、疑問を口にせずにはいられない。


 蘇るはずのない、現状維持が精一杯だった大地だった。

 延命するしかできない大地だった。だからこそ、アデルが請け負った。

 それが、ここまで蘇るとは。

 誰が一体これをやったのか。

 疑問は積み重なる。

 誰が、どうやって―――。


 ひゅ、と。

 アデルの足元に影が現れる。その影はどんどんと大きくなっていく。

近づいてくる―――否、上から落ちてくる。

 アデルは小さく息を吐いて、拳を握りしめ、体を捩じって。

 降って来た体長三メートルほどの古跡獣を地面と水平に殴り飛ばした。筋繊維が千切れる感触が、アデルの拳に伝わる。そのまま古跡獣は吹き飛んで、塀に直撃して地面に倒れた。 

 腹の部分に、アデルの拳が作り上げた巨大なくぼみをこさえた古跡獣は、気絶しているようで動かない。


「……コハクか」

 質量のある古跡獣を飛ばせる怪力を、コハクは持っている。おおよそ彼女が自衛のために古跡獣を弾き飛ばしたのだろうと予測を立て、アデルはかつて巨大な商業施設だった廃墟の階段を駆け上がる。

 ただ、古跡獣は精霊を襲わない。

 襲うのは、彼らが憎むべき人間だけだ。

 おそらくコハクはいつも通りの親切心を働かせて、人間を助けてしまったのだろう。

 ならば、彼女が助けてしまった人間を、完膚なきまでに叩きのめして、コハクが精霊であるという事実を口外しないように誓いを立てさせなければならない。

 やる気を出したアデルは力強く拳を握りしめて、階段を上り切る。

 そして、そこに居たのは。

 妹と。

 黒髪の小柄な人間の少年。


 すぐさまアデルは人間の子供に詰め寄り、殴り飛ばそうとしたのだが―――あまりにもひ弱そうなので、さすがに勘弁してやって、代わりに少年の胸倉を掴んだ。

 ぐえ、と少年は小さく声を上げる。

「おい」

 低いドスの利いた声がかかる。

「は、はい」

 少し緊張した声色で少年が返す。

「助けてやったのだから、貴様が今しがたここで見たことは、他言無用だ。もちろん、妹が精霊であることを含めて、だ」

 少年は驚きの声を上げる。

 そして、アデルが予測していなかった言葉を口にした。

「精霊?ん、え?あんたたち、精霊なのか?大気中にアニマがないのに?」


 まるで、コハクが精霊と今しがたまで認識していなかったような口調だった。

 ―――精霊は見た目こそ人間だが、人間以上に怪力に超常能力を持ち、寿命が長い生き物だ。取り敢えず、人間は巨体三メートルの古跡獣を殴り飛ばす少女を見たら、その少女は間違いなく精霊だと認識する。

 今、アデルが目の前で締め上げている少年は、その認識ができなかった。つまり、人間の常識を持ち合わせていない人間、ということになる。

 更に、奇妙な事を言った。

 アニマ。

 その単語には一切聞き覚えがないのだが、まるで当然のように少年は尋ねてきた。

 彼にとって、アニマというものが大気中にあることが、常識であるかのように。

(なんだ、こいつは)

 アデルは目を細めた。

 奇妙な人間。

 それが、アデルにとっての桜江雪路に対する第一印象になった。


 尤もその印象は、数分後、“自らのこめかみを拳銃で撃ち抜いて尚、死なない奇妙な生き物”へと上塗りされることになるのだが。


 結論から言えば、桜江雪路という少年は自称人外生物であり、異界からやってきた異邦人であった。

 居住区の路地裏で別れを告げて去って行く彼の後姿を見送りながら、アデルは自分自身に問いかけた。


 さて、このまま見逃していいものか?

 死なないらしいが、土の中に閉じ込めて身動きを取れなくしておくことはできる。

 アデルの脳内では、警鐘が鳴り続けている。

 あの生き物は、得体が知れない危険な奴だ。何をしでかすか分からない。自分の常識の外に生き続けてきた奴だ。

「お兄ちゃん」

 体に力を込め始めたアデルに向けて、囁くようにコハクが呼び掛けた。

「あの人は大丈夫」

「……?」

「味方じゃないけれど、敵でもないわ」

 首を傾げるアデルに、確かな口調でコハクは断言する。

「私たちの事は何も言わないし、私たちが何かをしない限りは実害がない存在よ」

「どうして、そう言えるんだ?」

「それは……」

 アデルの問いかけに、コハクは口ごもる。


 時折、コハクは困ったように言葉を濁すことがある。

 例えば、彼女の過去を尋ねた時とか。

 彼女を拾った三十年前から、何かしらの隠し事があることを、アデルは知っている。だが、護るべき妹と判断したのだから。

 兄というものは、妹を護り、信じてやることが仕事であると知っているから。

 だから、現状維持を貫き通す。関係性を壊したくないからだ。

「まあ、お前が言うのならばそうなのだろうな」

 ただ、追及せずにアデルは桜江雪路の小さな背中を見送った。

「……ごめんなさい」

 消え入りそうな声で、コハクは謝った。自分の事情を話せない時、大概彼女は申し訳なさそうにするのだ。

 そんな彼女の頭を、アデルは優しく叩いた。

 気にするな、と態度で示す。

 お互い様なのだから。アデルにも、隠し事は沢山ある。


「さて。今日はやることが沢山あるぞ。まずはコハクの服から探すか」

「……うん」

 自身の頭に僅かにコハクの白い指が触れる。少しだけ嬉しそうにコハクは微笑んだ。



 自称人間が住む居住区は、壁の外では考えられないほどの煌びやかな建物に服、おいしそうな食事に幸せそうな人間の声が溢れている。

 全ての人間の叡知は、居住区には集まっている。

 そう嘯く人間の、なんと多い事か。

 馬鹿げている、とアデルはいつも、心の仲で笑い捨てる。


「ふぅん、中々いいじゃない、コレ」

 いつも通りの無表情で、コハクは新しい服を試着した自身を鏡に映し、くるりと回った。

 とある服飾店。女性専門の衣服を売っているだけあって、女性客が多い。時折男性客がコハクの可憐さに視線を送って来るが、アデルのひと睨みで、縮こまってその場を去って行った。

 人間のフリをして買い物をする。やや神経を使う行為だ。

 大抵の人間は鈍いので、アデルたちを見ただけで、精霊だとは看破できない。それでも鋭い人間とは時折居るもので、精霊が持つ特有の霊力を感知できる人間がいる。

もし、ばれれば、即座に人間にばれて拘束される。霊力を抑えるのは、それなりに息苦しい行為だ。


 それでも、コハクの嬉しそうな顔を見れば、息苦しさは吹き飛ぶ。

 たとえ、彼女が選んだ服が、店舗内の机の上に十着以上積み上げられており、かなりの出費になりそうでも。

「どうかしら、お兄ちゃん」

「いいと思うぞ。とてもよくお前に似合っている」

「お世辞とかじゃなくて?」

「当然だ」

 ふふ、と上機嫌に笑いながら、コハクはまた、試着室へと入って行った。

「とても可愛いお嬢さんですね。よくお似合いでしたよ」

 コハクが着替えている間に、女性店員が和やかに話しかけてくる。


 アデルはコハクほど、人間の感情を見る能力は持っていないが、それでも本心が籠っているいることは分かったので、穏やかな声で返した。

「ああ。自慢の妹です」

「え、妹……?」

 女性店員は小さな驚きを声に含ませた。

 当然の反応と言ってもいいので、アデルは特に気を悪くはしない。

 アデルとコハクは似ていないから。

「……血は繋がっていないですから」

 一言付け加えれば、女性店員は納得した。それから、少し申し訳なさそうに俯いた。

「その……不躾なことを……申し訳ありません……」

「気にしなくていいですよ。よく言われることですから」

 アデルは取り繕った。


 精霊には、基本的に兄や妹といった概念はない。家族もない。血縁という概念も存在しない。

 精霊は、互いの繋がりを重要視しないからだ。

 ただ、アデルは三十年前、コハクと出逢い、過ごすうちに彼女を「妹」として認識するようになった。

 コハクもアデルを「兄」として認識するようになった。

 だからアデルとコハクは兄妹だ。

 ただそれだけの、単純な話である。

「さて」

 アデルは、机の上に積み上がったコハクが今まで選んだ服の値段を確認し始める。

 タグを見るたびに、アデルの眉間に皺が寄っていく。


「……まとめ買いで割引には……」

「その、全て新作なので対象外でして……」

(足りるかな……)

 女性店員の返答に、アデルは財布の中が心配になる。

 と―――試着室のカーテンが荒々しく開かれた。

 そこには試着を終えて自分の服に着替えた、真っ青な顔をしたコハクが立っていた。彼女のそこまで余裕がない表情は初めてで、戸惑いながらアデルは問いかけた。

「どうした?コハク……?」

「くる」

 翡翠色の瞳を大きく見開いて、コハクは告げた。

「アポストロが、二人、くる」

 直後、アデルも確かに感知した。急速に近づいてくるのは、アポストロ特有の力のものだった。

 真っ黒で邪で、全ての生命を吸い取るような虚の気配。

「コハク……!」

「お兄ちゃん!防いで……っ!」

 悲鳴に近いコハクの声に、事の深刻さが伺い知れる。妹の言葉にほぼ条件反射でアデルは大地に自らの体内の“力”を流し込んだ。


 地面が沈む。人間の悲鳴が少し上がった。

 爆音が外から響き渡る。人間たちの悲鳴が折り重なるが、それは外からの爆音によってかき消された。

 人間の鼓膜が破れたかもしれないほどの、大音量。

 それでも爆風の被害に店舗が遭わなかったのは、咄嗟にアデルが張った大地の壁の結界のお陰の他ならない。

 音と衝撃に震えた大気にそれが溶け込んで消え去った頃、その場で腰を抜かしている女性店員に、コハクは冷静に指示を出した。


「裏口があるでしょ。そこから客を連れて逃げなさい。裏の方向にはまだ、アポストロはいない。生き残れる可能性があるわ」

「あ、あ……。わ、わかりまし、た……」

 震える足で何とか立ち上がって、涙目の店員は声を無理矢理張り上げた。

「お客様、表は、危険です!こちらへ……」

 店員と同様に突然の恐怖に声を失っていた客たちは、出された指示に従い始めた。おそらく、人間たちはアポストロに居住区を襲われた時の為の訓練を行っている。その賜物だろう。

 アデルは通り過ぎていく人間を睨みつける。

 彼らの瞳には恐怖と嘲りが含まれていた。じろじろとアデルとコハクを見て、「精霊?」「なんでこんなところに」そんな言葉を口に出す。


 人間が契約術を開発して、三十余年。

 すっかり精霊と人間の関係は変わった。

 今まで畏怖の存在であり、人々に祈りを捧げられる対象であった精霊は、いつの間にか人間の道具と成り果てた。

 精霊は、人間たちを助けることを止め、人間に少しでも捕まらないため、人間のフリをして過ごすことにした。

 そして、人間への精霊の蔑視が始まったのもこの頃となる。

 アデルもまた、例外に漏れずその一人だ。

 人間なんて。

 僅か八十年しか生きられない下等生物だ、と。


 それでも。


「……ありがとうございます」

 女性店員が、去り際に残した一言は、社交辞令のようなものか。

 若しくは、人の姿をしていたからこそ、僅かな情が湧いたのか。

 どのような理由があろうと、礼の一言を述べられる人間が、まだこの世界にいるという事実だけで、コハクは小さく笑っていることを、アデルは知っている。

 そして、彼女の笑う顔を見るたびに、アデルの中の人間を助けるのではなかった、という後悔は覆り続けるのだ。

「コハク、俺が先に出る」

「……うん」

 店舗の表口から外に出ようとするコハクに声を掛け、アデルは彼女の前に立ち、警戒しながら外に出る。

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