2話 精霊と異邦人(1)

 命が枯れかけた世界の大地に手を翳す。掌から注ぎ込まれる力が、大地に無数に張り巡らされた、力が流れるパイプ―――生き物でいうところの血管のようなもの―――を通って、細々と古跡全体へと広がっていく。

(だからといって、かつての姿になることはない)

 結局、彼が行っていることは、大地に残っている僅かな栄養を効率よく回し、大地そのものが崩れるのをギリギリ防いでいるにすぎない。

 彼は小さく息を吐いて、天井を見上げる。

 かつてはドーム状の建築物だったのだろう屋根には、ぽっかりと穴が開いて青い空が覗いている。そこには、鳥一匹飛んでいない。

 獣たちは、その土地が通常の生き物であるならば立ち入ることができない、死の土地だという事を知っているから。それは、上空とて例外ではない。

 古跡。

 かつて、人間が栄えた証明であり、衰退した証拠でもある、廃墟の名。まともな生命は一つもない、生きる者にとっては死地である。

 放っておけば空間ごと消え去る運命にある土地を護るのは、精霊たちにとって、古くから神に与えられた本能だ。

 たとえ蘇ることがないとしても。自身の心の向くままに従う。

「……帰るか」

 大地の力を司る精霊―――アデルは、小さく呟いた。



 ベルレイン山脈。


 この世界に唯一存在する大陸の中心に聳え立つ険しい山脈で、凹凸が一切ないのっぺりとした崖が、旅人の行く手を遮る厳めしい山が立ち並ぶ。

 その癖、特にこれといって珍しい鉱石が出るわけではないし、珍しい食材が採れるわけでもない。生活に必要なものは採取できず、古跡が多く危険ばかりが付きまとう土地に、変わり者でもない限り、人間は立ち入らない。


 人目から隠れて住む、大地の力を使えるアデルたちにはちょうど良い土地だった。

 位置にして標高三千メートルほど。周囲と同じく、人の侵入を拒むように、つるりとした壁面で出来た崖の上に、不自然に木造りの家がある。

 そこへ戻ったアデルは、ドアノブを握って扉を開いた。

 キッチンで作られている、目玉焼きと焼いたベーコンの混ざった香ばしい香りが、玄関にまで届いてきた。


「ただいま」

 少し声を張って帰宅を知らせれば、キッチンから可愛らしい声が返って来る。

「お帰り。さっさと支度して、お兄ちゃん。今日は居住区に行く予定でしょ」

「分かった。ちょっと待っていろ」

 答えて、アデルは廊下を足早に通り過ぎ、自室へと入る。

 アデルの自室は、彼の几帳面な性格が現れていた。ベッドに机、全ては丁寧に整えられ、棚の中の分厚い本は、しっかりと書名ごとに並べられている。


「さて、と」

 古跡に立ち入るときに着用すると決めている薄汚いコートを脱いで、箪笥の中からいつもの服を引き出し、汚れた服を着替える。白いシャツにベスト。黒いズボンを穿いて、服装が乱れていないか確認するために、鏡の前に立った。

 少し長めのはっきりとした色合いの金色の髪を持ち、服の上からでも分かる引き締まった体つきの、二十歳前後の青年がそこに立っていた。瞳は青に深い碧が混ざったような色。目つきは鋭い―――というよりも悪い。

 以前、子供に泣かれたことがあって以来、注意はしているが、それでも自分の生まれつきの目つきは治らない。


―――けれどもそれは、貴方の特徴でもあるでしょう?


 ふ、と。

 懐かしい声が聞こえたような気がした。その懐かしさに自然と柔らかく微笑んだ。

自室を出て、再びリビングに向かう。

 やや広い空間には、朝食が並べられた大きな机と椅子が四つ、並べられている。何れも木造りである。そして、椅子の一つにちょこりと座って、足をぷらぷらと振っている可愛らしい妹―――コハクがアデルに気づいて、顔を上げた。


「おはよう、コハク」

 やや長い黒髪をサイドテールにして、翡翠色の双眸を持つ、十代半ば頃の少女に挨拶をすれば、彼女は少しだけはにかんで、答える。

「おはよう、お兄ちゃん」

 朝食は、二人そろってから必ず食べるようにしている。席に座って、二人で同時に手を合わせて、

「「いただきます」」

声を揃えて、食事の合図をした。


 飲んだ温かいココアの甘さが、口いっぱいに広がっていくのを感じながら、香ばしく焼き上がったトーストを頬張った。

「うん、うまい」

「当然でしょ。あたしが作ったんだから」

 少し嬉しそうに鼻を鳴らしながら、コハクは、カリカリとトーストを食べる。

「今日、買いに行くのは、まず、野菜ね。術で鮮度を保っていたのだけれど、さすがにちょっとダメになっちゃったから。後、お洋服も買いたい。お気に入りが擦り切れてきちゃった」

「そうなると、金が入用だな。いつもの換金所で鉱石を換金しよう」

「あそこのおじさんなら、うまい具合に買い取ってくれるものね。何より、嘘を吐いていないのが分かるし」

 いつものように、淡々と二人は会話を進ませていく。

 今日の予定は、人里に下りての買い物。

 買う物はある程度定めておいて、それに必要な金額を計算し、換金する鉱石を決める。

 過剰な金額になる物品の用意は厳禁だ。下手に高価なものを換金して、噂にでもなれば、金品目当ての強盗に後をつけられる可能性がある。

 そうなれば、蹴散らすのが面倒なのだから。


「それじゃあ、朝飯を食べ終わったら行くぞ。洗い物はしておくから、準備しておけ」

「はいはい、了解」

 本日の予定が決まった。

 食事はのんびりと、しかし速やかに終了し、コハクは町に出かける準備をするために自室に戻る。待っている時間がもったいないので、アデルは台所で皿を洗い始める。

 射してくる日の光が眩しい。今日はやはり、とても良い天気だ。絶好の外出日和だろう。

「お兄ちゃん、準備できたわよ」

 丁度、皿が洗い終わったところで、背後から声がかかる。振り返れば、いつもの白いコートを着て、出かける用意万全の状態のコハクが立っていた。

「よし。それじゃあ行くか」

 アデルは朝陽が差し込む玄関へと向かう。壁に掛けてあった黒いコートを羽織って、木造りの、やや重い扉を開く。

 午前九時。太陽が高く昇っていた。

 兄と妹は、家から出て、迷わず崖の方へと向かう。そこは、断崖絶壁というに相応しい崖だ。壁面には、空へと垂直に伸びており、手で掴む場所すらない。その崖へ、兄妹はまるでその先に階段があるかのように、一歩踏み出した。

 差し出した足元に、みしりと音を立てて崖からせり出た足場が現れる。一歩踏み出せば、一つ足場が現れる。必要なくなった足場は、ゆっくりと崖の内側へと戻っていき、断崖へと元通りだ。


 この崖は、アデルたちが人間の侵入を拒むために作り上げたものだ。

 火、水、土、風という精霊の能力性質の基礎四元素のうち、土を司るアデルたちだからこそできる精霊術だ。

「全く、こんな人目を忍んで隠れ続けるなんて面倒なこと、いつまで続ければいいのかしら」

 崖を下りながら、コハクがぼやいた。

「人間が滅びるまでだな。……なに、後数十年のうちに、人間は滅ぼされるよ」

 アデルは答える。

 ここ数十年のうちに、人間は急速な文明発展を遂げた。精霊という生命体に目を付け、じ分たちの都合の良い解釈のもと、奴隷のように扱うようになった。

 一度破壊された倫理は中々に戻らない。

壊れた倫理を正しいとし、調子に乗れば、文明崩壊の前兆であるのを、彼らは知っているのだろうか。


「……それは、神サマの天罰が下るから?」

 コハクが小首を傾げて尋ねてくる。その言葉を、アデルは否定する。

「それはない。アイツはもう消えてしまったからな」

「じゃあ、誰が人間を滅ぼすのかしら?アポストロ?彼ら、とんでもなく強いじゃない。精霊術士が数人、束になっても勝てない程度には」

「いや。奴らは人間を滅ぼそうとはしていない。おそらく……別の目的があって、人間を殺している。その目的が何なのか、分からないから気味が悪いがな」


 アポストロ。三十年前に突如として現れた、翼を持つ人間の姿をした、謎の生命体。意志も知力も人間や精霊相当のものを持ち、戦闘力は人間以上、精霊と互角の実力を持つ化け物だ。

 彼らが現れてから、十年ほど後。人間たちが精霊を捕える活動が活発化した。

 ―――精霊術士と呼ばれる、精霊の力を奪い行使する能力者を増やすために。

 それが非常に腹立たしい。精霊の意志を縛り、力をわが物顔で使い、精霊の力が尽きたらゴミのように廃棄する。

 生命への尊厳そのものを忘れた人間たちは、アデルからすればもう、生命体とは呼べない存在になっていた。

「けど、ちょっと困るな……。人間が全員いなくなったら」

 崖を降りきって、地面に着地した時、コハクははにかみながら呟いた。

「そうだな。おっさんの、おいしいパンが食べられなくなる。まあ、その前に技術を盗むさ。安心しろ」

 アデルは答えて先導し、山を下り始める。

 その大きな優しい後ろ姿を見て、どこか申し訳なさそうにコハクが笑って、

「―――なに?」

その瞳が大きく見開かれた。


 足を止め、コハクは周囲を見渡す。

 それに気づいて、アデルも足を止めた。

「どうした?」

 尋ねても、コハクは忙しなく辺りを見渡すばかりだ。と、不意に、翡翠の瞳は不意に細めた彼女は、視線をある一点に集中させた。


 視線の先には古跡があった。

 人間の旧文明の成れの果てと言われるそれは、いつ、どれほど前からそこにあるのか、五百年生きる精霊でさえ知らない。

「―――くるわ」

 コハクの声は震えている。

「何か、大きな力……これは……けど、この気配って……」


 直後のことである。

 古跡から紫色の輝きが発せられる。体感にしておおよそ五秒ほど。光は大気に溶け込むように消えていく。

 僅かに、大地の気配が変わったような気がした。

 気のせいだったのかもしれないが、それでも。

 大地の力が活性化しているのは、確かだ。みるみるうちに目の前の古跡が成長し始めていた。本来ならば十年は掛けなければ変化が分からない枝葉が伸びて、足元の雑草の丈が高くなっていた。まるで良質な栄養を得たかのように緑が青々とし―――変化は、やっと止まった。

「一体何が……?」

 初めての現象に、思わず困惑を口にするアデルに対し、コハクの行動は素早かった。成長した木々を避けつつも、勢いよく古跡へと駆け出した。大地の力も借りて、速力が増していく。彼女の背中が見えなくなるまで数秒と経たなかった。


「おい、コハク!コハク、どうしたんだ!」

アデルは慌てて彼女を追い始める。

 呼びかけても返事がない。とうに声が届かない場所まで行ってしまったのだろうか。

(だが……コハクのあそこまで必死な顔は、初めて見たな)

 ふと、アデルは思った。

 出会ってからの三十年で、初めて見た、と。

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