さらばトッシー
さらばトッシー
坂を登り、初め屋敷の赤い屋根が見え、次いであの規則正しい継ぎ目のレンガの壁が徐々にその姿を僕たちの眼の前に現していく。
坂を登りきると、すぐ向こうに低い生垣に囲まれた庭が見えた。
拍子抜けする構えの『氷の館』だが、外の世界からの来訪者なんてまずいない彼女のお屋敷。世の中にうじゃうじゃ存在する金持ち(僕もその1人か)のお屋敷みたいに、侵入者に備えられたフェンスや高い壁なんてものは当時は存在しなかったのだ。
早速トッシーが生垣を乗り越え、庭の中に。設置されている手頃なオブジェの影に隠れた。そして彼は僕に対して「そちらは任せるぞ」と手振りでジェスチャーを送った。
作戦はこうだ。
引きこもりの『氷のお嬢』だが、週に1度は必ず、通信販売で注文した何かが入った小包を郵便受けから取り出し、その小包を携えて屋敷へと戻るのだ。
そこに居合わせた僕がまず、小袋の束を抱えてお屋敷の郵便受けの前に姿を現す。
手に抱えた荷物を郵便受けに入れる振りをして、地面に取りこぼしてしまう。慌てて拾い集めようとする僕だけども、どうせお嬢様のお屋敷に届ける物なのだから、受け渡しの手間が省けるとお嬢様も拾うのを手伝ってくれるだろうという算段である。
そうして落ちている物を拾い集めるべく地面に屈み込んでいる無防備状態のお嬢様のスカートを、後ろから近づいたトッシーが捲り上げるのだ。
典型的な「背後からの奇襲スカートめくり」であった。
お嬢様がやって来た。
玄関の扉を開き表に出てきたお嬢様。石畳を歩いてこちらまでやって来る。
背中まで伸びる長い黒髪は、引きこもり生活で太陽の日差しから守られて非常に艷やか。手入れも行き届いている。
全身を包み足元まで伸びたオーガンジーの純白のドレス。太陽の光線の加減で胸元辺りがほんのりと透け、歩行の動作でドレスの生地に張り付いて、僅かにでも浮き上がる細い身体の線が、幼い僕たちにとってはそれだけで色っぽかった。
待ち構えていた僕は、たった今屋敷の前まで来た振りをして、タイミングを合わせて郵便受けの前に駆け寄った。そして、
「おっとっとー」なんて言いながら、手に持っていた小袋の束を取りこぼしてみせた。ぶっつけ本番だったけどわざとらしすぎたかな?
それでも狙い通り、一部の袋は小扉を隔てた屋敷の敷地内まで転がっていったのだった。
慌てたふりして拾い集める僕なのだけどもここで大きな誤算が生じてしまう。なんと、お嬢様は小袋を拾おうとする僕のことを冷たい視線で見やるばかりで、自分は何一つ手伝ってくれやしないのだ。庭の中に入った小袋だってあるのに。
そう。僕たちは、お嬢様を『お嬢様』たらしめるその性格を全く理解していなかったのだ。
トッシーも隠れていたオブジェから身を乗り出して、すぐ背中まで辿り着いてしまっている。
このままお嬢様がこの場を立ち去り振り向いたら、彼の姿が見えてしまうだろう。かと言って今から再びさっきの場所に隠れるのも遅すぎた。
焦燥虚しくお嬢様が僕に背を向けた。彼女が眼の前にトッシーの姿を認めたか否かの瞬間……。
僕は咄嗟に行動を起こしていた。
郵便受けのすぐ隣の門扉の鉄柵の隙間から、足を思いっきり差し入れてお嬢様のスカートの裾を踏みつける僕。その時の僕は本当に無我夢中で「お嬢様の高価なドレスの裾を、よりによって土足で踏みつけるなんて」といった事を考える間もなかった。
彼女の気を逸らし、その場に縫い止めて動きを瞬時にでも止めることに成功した僕は、両目でトッシーに合図を送った。
「さぁ今だ。今こそ君の『本望』を遂げるのだ」
トッシーの動作も速かった。
『氷のお嬢』の足元まで駆け寄ったトッシー。その場に屈み込むと、裾を踏まれてその場に縫い留められた彼女のスカートの裾に、両の手を差し入れる。
そのまま力一杯、勢いよく捲り上げてみせた!
ドレスの高級感、そして彼女の存在感に反比例して、その薄手の材質で出来たドレスは、存外軽かった。
夏のカーテンの如くふんわりとたなびくお嬢様のスカート。
その内部。こちらからは見ることが出来ない情景を今、正面のトッシーが目撃する。
中の『情景』に対する蠱惑とも、羨望とも、驚きとも云える反応。そして実際にやり遂げたという充足感をも。全ての感情が込められたトッシーの表情。彼は立派にやり遂げたのだ。
『氷のお嬢』に懸想した者なら誰しも皆。想像せずにはいられなかったであろう秘密の場所。
普通ならまず『目撃』する事がないそこを、彼は実際に目視してみせたのだ。
――ああ、可愛そうなトッシー。
確かに作戦は成功した。彼は全てを目撃できたのだろう。きっと満足できたことだろう。決して後悔はしないだろう。
そうだとしてもだ、彼に与えられた報いは強烈であった。
捲り上がったスカートの中。ドレスの内側に籠もっていた冷気が彼に向かって一気に放出。
氷の粒が彼の全身に纏わりついたかと思うと、粒同士がくっついて徐々に大きい氷が形作られる。
氷の塊はそのまま大きな一つの氷の塊となり、哀れトッシーは、その大きな氷の柱の中に閉じ込められてしまった。――両の手を高く差し上げ、真っ直ぐ眼の前の情景を見据えたスカート捲りをやり遂げた姿を留めたまま。
『氷のお嬢』は、たった今自身が氷漬けにしたトッシーに気を留める風情もなく、ドレスの裾を汚した僕に一瞥をくれるとその場から立ち去った。郵便受けから取り出した小袋を脇に抱えて。僕は尻餅をついたまま、為す術もなくそれを見送った。
さてその後。
僕たちの行為がキッカケだったのかどうかは定かでは無いが、この出来事からしばらく後、お嬢様はその生まれ持った感情の無さに見合った『行為』を、屋敷のメイドを始めとする人々に与える冷徹なお人に変わった。
いつしかその呼び名も、冷たさの中にどこか未熟さを含意していた『氷のお嬢』というそれから、『氷の女王』という峻厳な呼び名へと変わった。
そして「君臨すれども統治せず」ではないが、当人はいつまでも変わらぬ若い姿のまま、ただそこにいるだけで存在感のある御仁として、近隣の地域の民から畏れられる方となったのであった。
お嬢と氷とスカートと @kunugiri
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