第18話

風呂場からは相変わらずの声(神澤さんの面白がる声と、子供の金切り声だ)朔の元気」そうな声が聞こえるので安心していると、リビングで待っていた近江さんに不思議そうな顔をされた。

「なんですか?」

「いや、笑っているから。さっきので怒られるのかと思ったよ」

思わず自分の口元に手を当てて、隠すと自覚なしかよ、と近江さんはカーペットの上に胡坐をかいた。そのままテーブルの上にあったさきいかや缶ビールを手に取る。

どうやらもう夕食は終わったらしい。

「おかずとかいらなかったですかね」

「いや、あいつらなら喜ぶだろう。冷蔵庫の中にでも入れておけばいいよ」

近江さんは忙しそうに缶ビールを持った手で台所の方を指した。

まあ温めれば明日の朝にでも食べれるだろうと一人、台所にある冷蔵庫に向かう。

ついでに、といってはなんだが、夕食の洗い残しを洗ってしまおう。

 「そういえば、しおりちゃんの実家って喫茶店なのか?」

 台所にまで彼の低音ボイスが響いてくる。私の好みの声ではあるけれど、彼からは女性のいる匂いが漂ってくるし、何より女慣れしている。神澤さんもそうだけれどどちらかといえば、近江さんのそれは優しい感触だ。

「ええ、まあ趣味に毛の生えたような個人喫茶店ですけれど最近になってようやくバイトも入ったのでなんとかやっていけそうなんです」

 スポンジに洗剤をかけて洗い始める。この家に来て三回目くらいではあるが意外としっかりと皿置き場があったり炊飯器は高価なものだったり調理器具もそろっているところを見ると、さすが公務員。と舌を巻いてしまう。

 「けど池袋に出せるって相当だよなあ。この前もいたけれど、祥太いんだろ」

「あ、はい。この前は料理ご馳走になりました」

「あいつなんて師匠に弟子入りしてようやっと店を譲りうけたんだ。それまでは相当苦労してたみたいだけど」

「うちもそうですよ……おかあさ……母が、喫茶店のマスターに弟子入りしまして」

 自身の小さい時、母は師匠に弟子入りをした。彼がやってくると、コーヒーの香ばしい香りがよくしていたものだ。

 「へえ、女性がマスターなんて珍しいもんだな」

彼の感心した声に、少し誇らしい気持ちになる。

「けど、それも趣味みたいなものでしたけどね。店を持ちたいって思い始めたのが数年後でしたから。それも父と出会ってから」

それからはトントン拍子に彼らは愛をはぐくみ、そして、店を持ったころに、母が病死した。乳がんによる、病死だった。

「私は中学生でしたけど、今でも母が好きなコーヒーの香りを嗅ぐたびになんとなく母の事を思い出してしまって」

 抱き寄せてくれた温もりや髪の匂い、声などは今でもくっきりと覚えている。

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