第9話

とりあえず、祥太の店を出て、昨日の分の着替えとバックを持ちながら、会社への道をだどった。ちなみに、恭子とのおはようの連絡は取り合い、短い恋人の儀礼は済ませておいた。

 「あら、おはよう。何その荷物。明らかに汚いですって男臭がするんですけど」

茜が、コーヒーカップを持ちながら、俺のことを出迎えた。汚い男臭? そう思いながらもビニール袋に、鼻を近づけてクンクンと匂いを嗅ぐ。

「やだ、やめてよ。そんな事しないで。あと、その荷物は私の半径五メートルには近づけないで」

 はっきりとそう口にされてしまうと、傷ついてしまう。あえて、前に持ち出して近づけようとすると、彼女はエビのようにささっと後退し始めた。

 「やだ、本当にやめて。潔癖症って訳じゃないけど、男の汗の匂いってちょっと苦手なのよ。それなりに気を使ってる男の匂いならいいんだけど、近江のってマジでくさそうだし」

 「はあ? 気を使ってる男の匂いってどんな匂いだよ」

憤然と言い返すと、彼女は呆れたように首を横に振った。

「アホらし――仕事に戻るわ。せいぜい、男臭いままで彼女の前に行かないことね。絶対嫌がられるから」

そう言い切ると、彼女は会議室の方へと歩いて行った。

 

アホらしいといわれてしまえば、それまでなのだが、どうにも釈然としない気持ちで、俺はパソコンの前に座って、資料を作り始めた。今日は午後からプレゼンがあり、そのまとめをしなければならない。 

 カタカタと、パソコンを操作しながらも、昨日の会話を思い出し始める。神澤があそこまで子供に対して情を移しているとは――以外にも程がある。しかし、彼の家庭事情を考えるとそれも当たり前のことかもしれない。彼の両親は、彼が小学校の時に、離婚をしていた。その片親である母親に引き取られていたが、その母親は毎晩出かけるようになり、食費はおろか、まともな食事さえもとることはできなかったという。

 近所にいた老夫婦が、日々やせ細っている神澤をみて、異変に気づくまで彼は毎晩与えられた食パン二枚を食べる事しかできなかったという。

「それで、警官をやっていた叔父の家に行くことになったんですよ」

 高校時代、共に帰宅しながら、神澤は東京に来た状況を話し始めた。

 「親父の方は新しい女性がいて、もう家庭を持ち始める感じで、子育てを拒否してきたし……母親も、俺が施設に入れられるってなった段階で姿くらましたっていうし、ほんと、なんで俺のこと生んだんだよ、って感じなんですよね」

 呆れたように、重い話をサラサラとなんでもないような風に話すのは、こいつの悪い癖だよな、と何度も思ったことがある。

 辛い時は辛いって言っていいと思うぞ。別に俺は気にしない。

当時の俺はそんなことを言った気がする。その時のやつの表情はまさに、意表をつかれたような、そんな表情をした。

「気にしないってなんすか」

「だから、別にお前が弱音を吐いたところで何も変わりゃしねんだって。その過去も含めてお前なんだろ。女にだらしがなくて、毎日チャラチャラして周りに距離置いてよ……」

 そう、彼は『あえて』そうしているのだと気づいたのは、毎日一緒に野球の練習をしているからだろう。 わからないのだ。他人との距離のとり方が。そして、女の愛というのも知らない。本当の愛というものを知らないからこそ、この男は女性に対してそれを無意識的に求めてしまうのだろう。しかし、母親にもなったことがない、若い女性にそれを求めるのも酷な話。 

 「別にお前が病気になっても見舞いはしねえからな。ただ、今は知らなくてもいいと思うぞ、愛なんて。それに友達ならここにいんだろ。てめえがヘマやらかしたら容赦なくぶっ飛ばすからな」

 「え、何を……うぇ?」

間抜けなこと言ってやがる。本当にこいつは自分のことすらもわかってねえやつだったんだな。

「だから! いいんだよ。過去のことを話しをして引かれるかもだとかそんなこと考えなくて。チャラそうに話せばなんとかなるとか間抜けにも程があんだよ、バカ野郎」

 「なんか散々な言われような気がしますが」 

「てめえが辛くても俺は最後まで理解することなんてできねえんだからよ。辛いと吐いても俺はどうせ聞くことしかできねえんだからいつでも吐いてろ。答えは出せねえ、けど聞くことは一応、人生の先輩として……聞いておいてやるよ」

 そう、人の人生に、これという答えは出せはしない。どうせそいつの人生だ。他人がどうこういっても、無駄な時は無駄だ。辛い過去を持っていようが、どんな栄光の過去だろうが、俺の目の前にいるのは、こいつ――神澤 敏行だ。

 「今を必死に生きてりゃ、愛だとか、他人との距離だとかは……それなりのことを知れるかもしれないだろ」

そう言った時、やつはどんな顔をしていたのだったか、もう忘れてしまったな。

 「とっ……やっちまった」

 タイピングしながらそんなことを考えていると、文字が変な羅列を生み出していた。慌てて、それらを消去しながら、あいつが余計なもんを持ってきたせいだと思い、疫病神め……と内心舌打ちをこぼす。

 「 あいつの顔を見たら一回、どついておこう」

心にそう決めて、とりあえずともう一度打ち直しを始める。どうにかして、ある程度の資料作りを終えると、後ろから声をかけられた。

「おう、近江、終わりそうなのか」

部長が俺の背後に立っていた。40代半ばというところだろうか。頭頂部が若干怪しくなって来ているが、この会社では温和な人間として、社内の部下からの信頼が厚い。

「ええ、なんとか間に合いそうです」

最近は残業もせず帰っていたためか、こんなしわ寄せがくるとは思っても見なかった。予定では昨日の内に終わらせているはずだったが、もう少し盛り込んで欲しいとの部長のお達しでここまでかかってしまったのだ。 

「悪いな。まあ、お前ならなんとかしてくれるって思って任せたから」

「いえ、確かに部長の言うとおり、あのままだったらプレゼンがうまくいっていたかわかりませんし」

 「そう言ってくれると助かるよ」

 そのまま立ち去るかと思っていたが、部長はそのまま突っ立っている。何事かと顔をしかめると彼は言いにくそうに頬を掻いた。

「あーそれでな、大澤のことなんだが」

 大澤とは茜のことだ。何かあったのだろうか、と頷いてみせると、

「実は、あいつに任せているプロジェクトがうまくいっていないみたいなんだ」

「プロジェクト?」

「新商品の開発の宣伝を彼女に任せているんだが、かなり思いつめているみたいでな……俺としてもなんとか手助けしてみたいが……俺も忙しくてな」

 チラリと俺のパソコン内容に目を向けながらも、部長はそう口にする。もちろん、俺なんて目じゃないくらい、彼のほうが忙しいというのは理解している。

「ですが、今日は午後から会議がありまして――まあ、その今はちょっと難しいといいますか」

 「それはわかっている。別に今じゃなくて構わないんだ」

 ひらりと手を振って、ニヤリと笑った。

「その内ちょこっとでもいいから顔を出しておいてくれ。なにか、気になる事があればいつでも俺に聞きに来ればいいさ」

 「わかりました。ちゃんと聞いておきます」

 茜の事は確かに気になるが、それよりも大事なものが差し迫っている。もう一度、集中するため、俺はパソコン画面に向かった。 



ホームレスのオッサンに脳天チョップを食らわせた後、俺は再び走っていた。彼を殴った直後、携帯に連絡が入ったためだ。

「もしもし、しおりさんですか?」

「神澤くん? ああ、よかった。さっき、子供が戻ってきたんですよ」

いきなりのその連絡に俺は驚く。

「どういうことですか?」

「えっと、話せば長くなるんですけど……わたしもさっきまで外に出てて――えっ代われって……ちょっ」

ガサガサと音がしたかと思うと、低音ボイスが通話口から聞こえてきた。

「おう、後輩君か。俺だ。昨日はどうもな」

「祥太さん!?」

 「わりいな。外に出て、コンビニ行ったら子供が寝巻きのままで店の前にうずくまってたらからよ。事情聞いたら、一言だけ神澤って言ったから色々事情が分かってな」

 ほっと胸をなでおろして、俺はもう一度、携帯を構える。

 「すみません、すぐに家に戻るので……」

「いや、そのまま仕事に行けよ。俺はお前の家で世話するから」

 「世話って……」

思わず苦笑いをこぼす。犬か、ネコを思わず連想してしまう。

 「しおりちゃん……だっけか? 彼女も飯まだみたいだし、お前の家の食材勝手に使うわ。近江にも一応メールしとくけど、お前からするか?」

 「いえ、俺がしても最悪スルーされるだけなので……」

「お前も、大変な先輩を好いてるもんだよな」

 苦笑混じりのその声に思わず、あはは、と返す。

「まあ、厳しい先輩っすけどね」

そう言って、最後にいくつかの打ち合わせ、食材の有無を話、電話を切った。

「よし、仕事いくか……」

 そして、俺は走りだした。

 羽佐間はもともと、それほど気にしていないようで、交番に着くと、すでに何人かの老婆に囲まれていた。

 どうやら彼女らの道案内をしているらしい

 「あらまあ、どうもありがとう」

 彼女らは口々にそういいつつも、それぞれの手に持ったパンフレットを確認している。

 「羽佐間さん!」

 後ろからそう声をかけると、代表者らしきおばあさんと話しをしていた羽佐間は破顔した。

「おお、神澤君じゃないか。子供は見つかったのかい? それとも何か忘れ物かな?」

 「いえ、見つかったので今はまた俺の家にいます。ごめんなさい、遅れてしまって」

 「いや、いいんだ。今日も平和な一日になりそうだからな。ほら――ばあちゃん、もういいかい?」

 羽佐間はペンで記したであろう駅の乗り換えをメモした紙をおばあさんに渡した。

 三人は一様にそれぞれ口々に感謝の言葉を口にすると、若い学生のように楽しそうに談笑しつつ、俺らから離れていった。

「なんとも若そうなご婦人方でしたね」

 俺の言葉に、羽佐間はうむ、と頷いた。

「夜は短し、恋せよ乙女とかいうやつかな」

 さて、なんのことやらと思わず思っていると彼は再び、交番の中へと入っていく。

「さっさと着替えてきなさい、神澤君」

「はい、わかりました」

 素直にうなずくのも嫌なものだが、今回は自身が悪い事くらい承知の上である。ここは先輩に従うことが得策である。

 着替えるべく、俺はロッカー室へと向かった。

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