第8話
自宅兼用にしているとは思わなかったが、実のところ、ビルの一、二階は祥太の所有物らしい。結局のところ、これも師匠筋の人から譲りうけたものだと、階段を上がりながら祥太はそう口にした。
ちなみに、神澤は店の中に置きっぱなしである。別に一日くらいシャワーや布団に潜らなくても、人間は死なない。
「後輩クン、後で起きたらきっと怒るだろうな」
「いきなり来て、俺に説教を食らわせた罰だ」
憮然と言い返せば、祥太は呆れたように苦笑をもらした。
「けど、仕方ねえんじゃねえか。相談内容があれだったんだからよ」
階段を上がり切り、扉を開きながら中に入っていく。俺もその後に続いて中に入った。
ビルだからなのか、中は異様に広い。しかしそこまで家具を置く必要性を感じないのか、ほどんどがむき出しの状態だ。リビングだけはシックな家具が配置されていた。黒を基調とした豪華な作りだ。余った椅子なのか、いくつかは下の店でもみたスチールの椅子が置いてある。
「お前にしては綺麗にしてるな」
「師匠からのお達しでね。少しはやっとかないと怒られちまうからな」
肩をすくめながら、祥太はいくつかの扉を指した。
「あそこがシャワーだ。後、トイレは隣。冷蔵庫にあるもんは適当に飲んでいい。起きたらそのまま出勤してろ。俺はもう寝る」
そう言い切ると、彼は、そのままリビングのソファーで寝始めた。
「いつもこんな生活してんのか」
「まあ、な。客と一緒に夜明けまで飲んでいたりするからな。布団なんて高価なもんは俺の家に置いてねえんだ」
「俺はどこで寝ればいい?」
「床に寝ろよ」
にべもない祥太の声にマジかよ。とつっこむ。しかし彼は返事をせず、寝返りを打って眠りについてしまった。
まあ、別にいいか……。それとも下で適当に寝てもいいのかもしれない。そう考え、とりあえず買ってきたものと一緒にシャワー室にはいる。
誰かに呼ばれた気がした。夢の中で、俺は誰かと食事をしていた。ありふれた家庭風景。体にはどうしようもなくなるほどの倦怠感がある。俺は、目の前の女性と何かを話していた。ああ、この子は昔委員長で優しかった人だ。昔は好きだったなあ……。彼女は高校の頃の制服を着ていた。こちらが何かを話すと、笑い、その度に八重歯がちらつく。
彼女が笑うと、俺は異様に嬉しくなった。そして、そういえば、彼女には付き合っている男がいたはず……と思い出して、彼のことを探すが、彼はどこにもいない。そうか――別れたのかもしれない。目の前の彼女をみると、彼女は聖母のように微笑んでいた。
彼女が無意識にこちらに手を伸ばしてきたので、俺も伸ばして、手を握る。彼女の細い指と俺の指が絡み合い、また、彼女が笑って……
目をあけると、そこは見慣れない酒場だった。体のあちこちが痛む。顔を上げて、周りをみわたせば、大体の事情を思い出す。
「夢かよ」
頭を抑えながら、自己嫌悪に陥る。なんて夢を見てんだ。俺は……らしくねえよ。周りを見渡すが、祥太さんの姿も先輩の姿もないことに気づいた。携帯を取り出すと時間は朝の6時。出勤にはもう少し時間があるので、とりあえず一回は自宅に戻ろうと決める。
「あーいってえ」
立ち上がりながら伸びをすると、体の節々から変な音がした。当たり前だ。椅子の上でうつ伏せになって寝ていたのだから当たり前といえば当たり前の話だ。
「起こしてくれればよかったのに……」
とりあえずと席を見渡すと、そこに一人の男が寝そべっている。というより服装から先輩だとわかった。起こさないようにと思いながらもトイレに入り、用を足す。
――そういえば、先輩の出勤時間を知らない。大体9時くらいだろうか。だとすれば俺が出るくらいに起こしておいたほうがいいかもしれないな。
歯磨きやらなんやらは後に回すとして、まずは先輩を起こすところから始めなければならない。さて、どうやって起こしたものか。昔から寝相はあまり良くないことは前から知っている。果たして、それを見られて恭子さん……先輩の彼女さんは幻滅してしまうのではないだろうか。
「おう。起きたのか」
トイレのドアを開けて、店の中に戻ると、すでに先輩が起き上がって呑気にあくびをしているところであった。なんだよ、俺が心配してやったのに。
「先輩も早いっすね」
「ああ、社会人になってから決まった時間に起きるように一応心がけてんだ。といっても休みの日はもう少し遅く起きる事もあるんだが……」
きっと、堅物の彼の事だ。遅く起きることなんて滅多にないのだろう。しっかりしすぎるというか、なんというか……。
「これから仕事ですか。俺も仕事なんで今日はとりあえず一回自宅に帰ってから出勤しようと考えているんですけど」
「ああ、それでいいんじゃないか」
返事が短いのも、まだ脳みそが起きていないせいもあるのだろう。昨夜は何時まで飲んでいたのだろうと思ったが、そういえば自分はかなり最初の段階で、眠りについていたな、と恥ずかしながら思ってしまう。あんなに飲めなかったか? きっと色々自分でも気づかないうちに、気を張って子供の世話をしていたせいもあるのだろう。とりあえず、自宅に残している二人が心配だ。
「もうそろそろ俺は出ます。すいませんがお先に」
「ああ、また連絡してこい。俺も何か子供については考えとく」
そういえば酔に任せて、色々と叫んでいた気がする。そうか、子供の案件についてはちゃんと伝えられていたのか。
無言で頷き返し、とりあえずと、俺は外に出た。
*
「ああ、待っていたんですよー!」
自宅のドアを開けると共に、しおりさんが泣きそうな表情でこちらに詰め寄る、しおりさんとぶつかりそうになるのを必死で止める。
「おっと、どうしたんですか、いきなり!」
朝からのラッキースケベとはこの事か? と親父っぽい考えが浮かんでくる。
「朝から暴れっぱなしで……どうしたらいいのか、わからなくなってきて」
「暴れっぱなし?」
その瞬間、しおりの後ろで子供がマグカップを振り上げているところであった。これはまずい。おまえ、それどうするつもりだ!?
「あぶない!!」
さっと、しおりをどかすと共にスローモーションでマグカップが飛んでくる。それは俺の顔にぶち当たり、床でパリン、と割れた。
「ああ、大丈夫ですか、神澤さん!?」
「ええ、だいじょ……うぶです」
なんでもかんでも投げてくるのは俺が嫌いだからなのか? とりあえずとガラスの破片を拾い上げてくれるようにしおりさんにお願いし、俺は鼻を押さえながら子供に近づく。
「なんでこんなことするんだよ」
「……んたが……」
微かに声が聞こえ、え?と聞返すと、子供は目に涙をためて大きな声を出した。
「あんたが嘘をついたからだ!」
バッと子供は寝巻きのままで外に走り出し、驚くしおりを無視して、そのまま外へと飛び出していった。
「……へ?」
数秒後、なんとか、そう口にしたが、子供が外に飛び出していったのは間違いがない。
「神澤さん! 追いかけないと!」
さらに泣きそうなしおりさんの声に気づき、慌ててその後を追う。
どうやって、探したものだろう。子供の姿はすぐに消えていた。とりあえず、羽佐間に連絡するべきだろうか……それよりも。まず自身が子供だったらどうしているだろう。どこも知らない世界だとしたら、知っている場所に行くはずだ。知らないところにまず走るということはしないだろう。
それでは自分だったら? まずは交番が思いつく。あそこにはきっとだが羽佐間が先に来ているはずだ。他には駅のホーム。そして、喫茶店。それくらいだろうか。とりあえず子供がいったであろう場所を一つ一つ潰して行くことにした。
そこにいなければ、手の打ちようがない。
「すいません、羽佐間さん。おはようございます」
携帯口にそう口にすると、大きな声が聞こえてきた。
「どうしたんだい、神澤君! 子供は元気なのか?」
「それがですね、実は少し仕事に遅れそうで!」
「は? どうしてだい?」
事情をかいつまんで話すと、彼は笑った。
「そうかい! そういうことなら仕方がないな! ではしばらくの間なら大丈夫だから安心して子供を探してくれたまえ!」
携帯を切って、改めて周りを見渡す。
「おお、どうしたんじゃ、クソ坊主」
声をかけられ、振り向けば、そこにいたのはホームレスのおっさんである。相変わらずののんびりとした顔に若干のイラつきを覚えながらも歯を食いしばって、答える。
「ええ、まあ、なんといますか。鬼ごっこです。子供をみませんでしたか?」
口に出して思った。頭の悪いことを言ってしまった。
「鬼ごっこ? そりゃまた大変じゃのう。子供ならいたぞ」
「どこに!?」
「ほれ、あそこに」
ホームレスが指さした先にいるのは数多くの子供の小学生、親に手を引かれた子供達である。そうか、もうこんな時間だったのか、と時計をみれば、8時を少し回ったところであった。慌てて、ホームレスに向き直り、わかりやすく説明をする。
「何かこう……怪我をしている子供といいますか」
そう俺が言うと、彼は考え込むように空を仰いだ。
「ほうじゃのう。見たような見ていないような気がする。目立つからのう、怪我をしていれば」
「その…‥実は友人の子供なんです。ふざけ合ってたら、彼そのまま外に逃げ出しちゃって。追いかけてきたんですよ」
「なるほど、なあ――じゃあ、あの時の子供か」
ギクッと彼をみれば、彼は得意げな顔をしてこちらを見ていた。口元に生えている髭を呑気になでているところをみれば、最初から知っていた、ということだろう。
「知っていたんじゃないですか!」
「姿を完璧に見た訳じゃないからのう、どんな子供なんてのかまではわからん」
あっさりとそんな事を言い募るホームレスを思わず殴りたくなってきてしまう。近江先輩であれば間違いなく、このおっさんを殴っていたことだろう。まどろっこしいことしてんじゃねえぞ、おっさん! と
「それで、その子供をみませんでしたか」
内心の怒りをなんとかなだめつつも、そう口にすると、彼は残念そうに首を横に振った。 「すまんが、わからんのう。それよりもあの娘さんとはうまくいきそうなのか?」
出勤時間内だが、とりあえず一発頭を叩いておこうと俺は心の底から思い、右手を振り上げた。
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