第3話

まったく、貴重な昼休みをあの野郎のせいで無駄に終わったじゃねえか。パソコンに向かいながら苛立ち紛れにキーボードを強めに叩いてみせる。

「なんかうるさいんですけど。ほら、コーヒー」

後ろからそう声をかけられ、振り向くと同時に眼前にコーヒーを差し出される。

声だけでなんとなく誰かは予想がついていたが、予想どおり大澤 茜が目の前に立っていた。長い髪を後ろで束ねており、メガネをかけている。この会社きっての美人と噂される人物だ。昔からの同期なので彼女は何かと便宜を図ってくれる。

「ああ、すまんな」

コーヒーを受け取りながらぼんやりと今夜は何を食べようかと考え出してしまうのも男の悩みの一つだ。恭子もそれなりに池袋周辺の飲食店については詳しいだろう。俺を超えるほどに。だとすれば何を選択するべきか。イタリアン? それとも和食か。

考えに耽りながら珈琲を啜っていると、後ろからさらに紙の束のようなもので叩かれる。

「いってえ!」

「しっかりしなさいよ。ほら、これあげるから」

茜の差し出した雑誌を受け取る。以外にもこういうところは目ざとく見つけてくるのでやはり同僚としては貴重な存在なのだ。雑誌には周辺のデートスポットと共にそれなりに値の張るレストランなどが記載されている。つまりはこういうところも参考にして見せろというところだろう。


「まったく、俊も抜けてるわよね……まあ私だったらそんな雑誌読む男、なし……だけれど」

「じゃあ、なんで俺に渡したんだよ!」

クスクスと笑いだした彼女に突っ込む。世の男性用にきちんと出版されている雑誌なのだ。ならばこれくらいいいではないか。表紙に視線を戻すと凛々しい俳優が、渋谷の交差点に立つその姿には男としても格好良いと感じてしまう。

そこで気づいたが、これは女性用なのか。

「ありがたいっちゃありがたいけどな……」

「何?」

「こういうのを持ち歩くとやっぱ気恥ずかしいというか……」

俺がそう口にすると、茜は呆れたように溜息をついた。

「あーやだやだ、そうやって古風な考えを持つ男って。別にいいと思うけれど、彼女だって気にしないでしょう」

「気にするとか、気にしないだとか、そういうもんだいでもないと思うんだけれど」

 沽券や、プライドの話をしたところで茜にわかるものでもないと、感じてそれ以上会話をするのはやめておいた。

「まあ、変なところ気にしてないで少しはこれで勉強したまえ、後輩君」

 茜はそう言い切り、その場から離れていった。だが、これから彼女に会うというのに、もし、この雑誌を見られたら気まずいことこのうえない。

果たしてこれをどこに置けば……とふと思い当たって携帯電話を取り出した。一人だけ、いた。最高の隠れ場所になる奴が。

仕事が終わり次第、すぐに立ち上がりとあるビルまで歩き出す。行き交う人間にはカップルだったり、あるいは俺と同じように帰り支度につくサラリーマンが数多くいる。そんな人の流れに逆らう形でとある裏路地へと入っていった。

そこにあるのは大概、許可のない風俗店だったり、不法滞在している外国人のたまり場の場所だ。人目を気にしながらも、木製の扉を開き、中に入る。

 店の中は、照明がついているものの、暗く設定をしているせいで全てが薄暗く見える。

「お客さん、まだ店は開いて……ってお前かよ」

バーカウンターの中に立っているのは、長身の細身の男だ。髪は全てをオールバックにしており、ワイシャツ、ベスト、ネクタイ、つまるところ全ての人間がバーテンダーといえばこんな姿だろうというのを見事に体現している男だ。

 女性客であればくらりとくるような甘いマスクの男の名前は間宮 祥太といい、俺の昔の悪友というやつだ。中学卒業と共に別々の道を互いに歩むことになったが、連絡は常に取り合うような親友でもあったのでこうして頻繁に会うようにしている。

 ちなみに、こんな場所に彼女を連れてくるのか……と言われれば答えはNOである。この店の客は大概事情を抱えている奴らなのでそんな危険な店に恭子を連れてくるわけには行かない。

「祥太、一杯飲ませろ、代わりにこの雑誌を預かってくれ」

「てんでいきなりなんの話かと思えば、てめえ。なんだ一体」

 「いや、これには訳があるんだ。昔のよしみで……頼む」

 祥太にその雑誌を受け渡し、俺はどかっと革張りのスチールに腰掛けた。高級な椅子という訳ではない。この店が開店するという段階になって師匠筋にあたるバーテンダーから貰い受けたものである。しかし、この店にはよく似合っている。

 「まったく、こんな雑誌読む男の気がしれねえと昔っから思ってはいたが、お前が読むようになったのか。なんだ。振られそうなのか? いい女紹介するぞ」

 訝しげにその雑誌をカウンターの隅に放り投げ、翔太はタバコに火をつける。モップ一つ持っていても様になる男ってのはなかなかいない。いや、格好良い男であればなんでも似合うのかもしれない。

 「勘弁してくれ、水商売の女なんかこっちから願い下げだよ」

白い煙を吐き出す親友は、しばらく考えたのち、それもそうかと納得したかのように頷くと、試すようにニヤリと笑った。

 「何飲む」

 「ゴットファーザーで」

 俺の言葉に祥太はふっと息が漏れるような笑みを残し、モップを近くのテーブルに立てかけると、咥えタバコのままカウンターの中に入った。

「んだよ、デート前に強い酒飲んでいいのかよ、色男」

 「今日は少し飲んでから行きてえ気分だったんだよ」

「今度でいいからここに連れて来いよ。予約してくれれりゃ、いい酒仕入れておくぜ」

「うるせえよ。どうせいつもよりふっかけてくるんだろ」

「お前になら遠慮なくふっかけられるからな」

 馬鹿らしい問答に飽きて、手であしらうと、祥太は小さく含み笑いをして作業に取り掛かる。

 「そういや、この前茜さん来てたぞ。酒飲みてえって」

アイスボールと言われる球体状の氷を作るべくアイスピックで氷を砕きながら、祥太はそう思い出すように口にした。わざわざそんなことをいうということは何かあったのだろうか。

 「ふうん、なにかいってたか?」

彼女に祥太を紹介したのは俺なので一応聞いても問題はないだろう。

 「ああ、仕事が大変だっていってたけど……まあ……あとは世間話くらいだ」

そういえば、今大きな仕事を任されているのだ。夜遅くまで彼女は残っている。流石に連日の残業にストレスが溜まっていたのだろう。鬱憤ばらしか。

 「今は難しい仕事の最中だからな。他になにか言ってそうだな」

 「いいや、他には何もねえよ。ただ元気だとか社交辞令だとか、この店の周りがどうこうだの二人で話しをしていただけだ。二時間くらいしたら帰った」

 憮然と言い返した祥太にどことなく怪しい気配があったが、彼も一応飲食店を担うものとして客の個人情報は親友であっても言えないのだろう。仕方なく俺も頷いておくだけにしておく。

 それとも、なにか困ったことでもあったのだろうか。普段は違うチームのために一緒に働くというのも珍しいが、なにか手伝えることがあるのかもしれない。なんとなしに聞いてみても罰は当たらないだろう。

 カラン、という音と共に目の前に琥珀色の飲み物が置かれた。グラスを持ち上げ、それを口に含む。芳醇な香りが口から鼻に抜けていく。

 「うまい」

「そりゃどうも」

短い会話をし、再び俺は酒に没頭する。静かに味を確かめ、香りを楽しむ。ふと目の前から視線を感じて顔を上げると、祥太が見下ろすようにして俺をみていた。

「なんだよ。俺の顔になにかついてるか?」

 「いや、別に。難しい顔して黙ってるからよ。また厄介なことにでも首を突っ込んでるのかとおもってな」

 厄介といえば厄介なやつには出会ったかもしれない。事の顛末をかいつまんで話すと、祥太はタバコを吸殻に押し付けながら相槌を打った。

「はあ、後輩ねえ。別にいいじゃねえか。今回は偶然だったんだろ? 別に対した問題でもねえだろうよ」

「問題ってわけでもねえんだけどよ。ただ、少しあいつって変わったことがあるからまた……」

「ははあん? なるほど? デートの邪魔されたくねえわけだ、お前としては」

得心したような口ぶりを発揮する翔太のいうことは当たっている。相変わらず人の心の機微を察する様には舌を巻く。

 「そうだよ。今は大事な時期なんだ。できれば会いたくなかったってことでよ」

言い訳がましくなってしまったかもしれないが、それが本心であることには違いなかった。別に神澤のせいだということではない。これは自分自身の問題でもある。ちょっとした心配要素でも二人の間に割り込ませたくはなかった。

「かわいい後輩を見捨てるなんて、可哀想だなまったく」

 別にああいう手合いは正直相手にしないほうがいいというのが自分の意見ではあったが、ここは黙ってグラスを傾けておく、会ってないのだからどんな人間かはわからないはずだ。人の心を読む祥太でも。

「さて、それ飲んだらさっさと帰れよ。彼女さんによろしくいっといてくれ」

「お前の紹介なんてしたことねえから彼女、お前のことなんて知らねえよ」

そうツッコミを入れるが、祥太は聞いているのか聞いていないのか肩をすくめるばかりで何もいわない。思い切りグラスに入った酒を飲み干し、そのまま、席を立つ。

「じゃ、その内またくるわ」

 「その内じゃなく、今日の夜にどうぞ」

だから、こねえと言いかけて……やめておいた。こういう手合いも相手にしないにかぎる。

そのまま扉を開け、少し闇が深くなった外に出て行った。


 

「あ、いたいた。ごめんね――遅れて」

駆け足でやってきた恭子は申し訳なさそうに顔の前で拝んでみせる。翔太の店を出てから三十分ほどだろうか。待ち合わせから少しすぎてしまったが彼女も社会人なのだからこういったことは日常茶飯事だ。俺が遅れてくることだってある。今回のように恭子が遅れること自体は珍しいのかもしれない。

 「いや、こっちこそ無理言ってるみたいでごめん」

 正直な感想がつい口からこぼれてしまった。仕事で疲れているのに、こうやって呼び出すのはなんとも申し訳ない気分になってしまうものだ。

 「それはいわない約束でしょう? 俊だって仕事帰りじゃない。そんな真面目な考えするのって好きだけど、別に無理はしてないわよ」

 柔らかい笑みと共に、恭子は俺の差し出した手を握ってくれる。走ってここまできたせいか、俺の手は汗ばんでやしないかと心配になるが、彼女の表情に変化はない。

 夕御飯は何にしようかと互いに打ち合わせをしながら歩く。ビルの間には、丸い月が浮かんでいた。

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