第22話 最終話 啓蟄

「ふぅ」


何度目かのため息をついて立ち上がると、邪魔にならないように室内を歩き回った。朝から全く落ち着かなくて、とりあえず図書館に行ってみたものの、やっぱり落ち着かない。


「もうそろそろ電話が来るんじゃない?」

「そうだと思うけど…あー、緊張する。

私、自分の時もこんなに緊張しなかったのに」

「心配要らないわよ」

「私もそう思っているんだけどね…」


私の様子に微笑んで、何も言わない夏樹さんも内心気にしているらしく、いつもより時計を見る事が多い。大学の合格発表が既に行われている筈で、結果が分かったら電話をしてくれると言われて、仕事の休みを合わせて連休で帰って来た。一通りの手応えはあったと聞いてはいたものの、心配で何も手につかない。仕事を休んでやっぱり正解だったと思ってしまう。


「私、少し外に出てくる」


ドアを開けようとした途端、スマホが着信を告げた。緊張しながら通話を押し、耳に当てる。


「もしもし?」

「…涼さん」


涙声の呼び声に、さっと血の気が引く。私の様子をカウンターから立ち上がって夏樹さんも見守っていた。


「桜?」

「合格、してた」


身体の力が抜けてその場に座り込む私に、夏樹さんが慌てて駆け寄る。


「良かった…」


その一言で、彼女の表情がぱっと明るくなった。私の手を握りしめ、声に出さずに喜んでいる。


「涼さん。…私、涼さんとの約束守れそうだよ」


彼女の言葉に胸が詰まり、それでも、どうしても伝えたくて震える声で告げた。


「合格おめでとう、桜。

それと、ありがとう」


その夜は綾乃の家に集まり三人でお祝いした。主役がいないことが残念だったが久しぶりに楽しい時間を過ごして、そのまま泊まることになった。


「桜ちゃんがお酒を飲めるようになったら、四人で飲もう」


少し前に夏樹さんが疲れて眠り、私も眠ろうとする間際、綾乃が言った言葉が胸に残った。


翌日準備を整えて、桜を迎えに行った。空は綺麗に晴れ渡り、絶好のツーリング日和だ。待ち合わせ場所に行くと、既に桜が待っていて、ぶんぶんと大きく手を振る。ヘルメットの中で顔がにやけそうになったのを我慢する。


「合格おめでとう」

「ありがとう、涼さん」


「昨日は、お祝いしてもらった?」

「うん、皆喜んでくれたよ」

「それは良かった」

「だけど、私も涼さん達の所に行きたかったな」

「良いじゃない。また、今度きちんとしようよ」

「本当に?」

「勿論。夏樹さん達も楽しみにしてるって言ってたよ」


笑顔の桜に、ヘルメットを渡す。彼女は受け取ってから、あれ?という顔をした。


「これ…前の物と違う?」

「そう。新しい物に変えたの」

「どうして?」

「これは、桜専用」


フルフェイスで白地にピンクのアクセントが入ったハーフヘルメットは、ネットで見つけて彼女の為に衝動買いした物だった。桜にきっと似合うと思っていたが、想像以上に可愛らしい。


「わぁ!ありがとう」


早速装着してバックルを着けようとする桜に「着けてあげるよ」と言うと、嬉しそうに顎を上げた。


「うん、可愛い」


照れて笑う桜は待ちきれないように「早く行こうよ」と急かしてきた。バイクのエンジンをかけると、後ろに乗ってぎゅっと抱きつく。


「行くよ」


声をかけて、ゆっくり走らせる。思えば、最後に彼女をバイクに乗せたのは去年の今頃だった。あれから何となく乗せることを躊躇って、彼女を迎えに行くときはいつも車だった。

普段以上に気を配って、道路を走る。やがて、家に続く見慣れた上り坂に出ると、後ろで桜が顔を背中に押し付けてきた。彼女もきっと思い返しているのだろう。少しだけスピードを緩めてゆっくり登る。家を過ぎしばらく行くと、徐々にアップダウンが激しい山道に差し掛かる。道路の両面は緑がずっと続いていた。真っ直ぐな坂道を登りきると、山の上に出た。桜が私の身体をぎゅっと掴む。路肩に展望台を兼ねた休憩所が見え、そこにバイクを停めた。彼女を下ろしてヘルメットを取る。展望台の奥まで歩き、柵に手を乗せて前に広がる景色を眺めた。


「綺麗…」


桜の呟く声を耳に受け、食い入るように目の前の光景を見た。山桜が咲いている様で、緑の中に点々と淡いピンクが散りばめられ美しいコントラストを描いていた。前方に見える海は穏やかで波も見えない。深い青い水の色が空の青さと水平線の向こうで入り交じっているようだ。


(あの時と全然違う…)


呆然とする私に、桜が心配そうに声をかけてきた。


「どうしたの?」

「何が?」

「涙…」


バッグからハンカチを取り出し、涙を拭いた彼女は私に笑いかけた。


「好きなだけ泣いて良いよ。

私、涼さんとずっと一緒にいるから。」

「…」


彼女が思い出の中の友人と重なった。思わず抱きしめると、驚きながらも、優しく背中を擦ってくれた。


「ごめん…もう少しだけ、このままでいて」


回した腕が私を抱き寄せてくれるのを感じて、私は過去の思い出を流すように、泣き続けた。



「私ね、中学、高校の頃は荒れていたんだ」


ひとしきり泣き終えて、すっきりすると、ベンチに並んで座った。ぽつりと話した私の過去を桜は驚いたようだったが、何も言わなかった。


「バイクの免許を取ってからは、毎日出歩いていたよ。家出も結構したしね。だけど、そんな時に、麗に出会ったんだ」


「麗さんって、前に綾乃さんが言っていた人?」

「うん。彼女が捨てられていた犬を拾って困っていたのが切っ掛けで、私達は仲良くなった」


「それって、もしかして、ごまちゃん?」

「そう。ちなみに、黒猫を拾ったのは綾乃なんだ。あいつも別の意味で荒れていたから。私と綾乃はその頃何となく一緒にいることが多かった。

桜は、海岸のオブジェがある場所を知っている?」


「あ、夏樹さんがこの街で一番好きな所って言っていた場所?」

「あの海岸が待ち合わせ場所で、三人で毎日集まっていたんだ。ただ座って話をしたり、花火をしたり、星も良く見たよ」


「高校二年の終わりくらいに、進路を決めなきゃいけなくなって、ようやく農大に行こうと思いついて、それから勉強を始めたんだけどね。今まで本当に勉強していなかったから、全くついていけなかった。その時になって、初めて焦りが生まれた。

相談したくても誰にも出来なくて、一人でずっと考え込んで、皆の前では、何ともないように振る舞って…


だけど、ある時、麗が急に'ツーリングに行こう'って誘ってくれたんだ。あの時もこの時期だったと思う。二人で原付に乗ってここまで来たの。綾乃はまだ免許がなかったから…」


昔を懐かしむように、ベンチに手を置いた。桜は黙ったまま私の続きを待っている。


「ここで、こうやって景色を見ていたら、麗が言ったんだ。

'涼が何を悩んでいるか分からないけど、一人でいる事が辛かったら、私が傍にいるから。

卒業しても私と綾乃は、涼の傍にいるって約束するから。だから、一人で抱え込まないで。一人で泣かなくて良いよ'って」

「…」

「その言葉が凄く嬉しくて、あの時も、わんわん泣いたよ。私には支えてくれる人がいる、その事が本当に嬉しかった。

だけど、それからしばらくして、麗は事故にあった。私と綾乃は自分の身体の半分を無くしたみたいだったよ。


ある日突然、何の前触れもなく、彼女はいなくなった…」


「私はずっとここに来るのを避けていたんだ。嫌でも、麗を思い出すから…だけど、桜の撮った写真はあの時見た光景より、本当に綺麗だった」


「桜と出会って、好きになって、もう一度この場所に来たかったんだ。私の大切な思い出を、桜と一緒に見る事が出来たら、きっと私はもう一度きちんと自分の事を受け止められると思った。


二人でこの光景を見たら、もっと、大切で素敵な思い出が出来ると思ったんだ」



「…今日、私と見て、どうだった?」


少し心配そうに訊ねる彼女に、にこりと笑った。


「桜と見る事が出来て、本当に良かったよ。

この光景を、私はきっと忘れない」


隣の彼女の両手を取る。真っ直ぐに見つめると、赤い目の桜は私を見返した。


「私を好きになってくれて、ありがとう、桜。

自分でも面倒な性格だって分かっているけど、こんな私で良かったら、これからもずっと、一緒にいてくれないかな?」

「はい…」


泣き笑いの桜は、それでも明るく告げた。


「私が、涼さんを大切にします。貴女を一人にはしません。

だから、安心して私を好きでいて下さい」


何だかおかしなやり取りに、思わず笑いだした私につられて、桜も笑った。再び涙があふれそうな私を、優しく彼女が抱きしめてくれた。


落ち着いてから持ってきた軽食を広げて、二人で景色を見ながら楽しんだ。彼女が景色を見ている間に、もう一つのプレゼントを準備する。どうやって渡そうか考えていたが、結局、良い考えが浮かばずにそのまま渡すことにした。


「桜、あの、これ、遅くなったけど…」


細長い包みを手渡すと、桜は驚いたように私を見た。


「私、ヘルメット貰ったよ」

「いや、あれは、私が自己満足で買ったものだから…

本当は、もう少し早く渡したかったんだけど。

これ、合格祝いと少し早いけど誕生日のプレゼント」

「良いの、貰っても?」

「勿論。むしろ、受け取って欲しいな」

「涼さん、開けて良いかな?」


私が頷くと、丁寧に包装紙を開き、中の箱をそっと開いた。中には、青い水の色の小さな宝石が付いたネックレスが入っていた。


「!?」

「桜の誕生石のアクアマリンは、海のように優しく穏やかっていう意味があるんだって。それを聞いた時、桜にぴったりだなって思ったんだけど…どうかな?」


「嬉しい…

だけど、私貰ってばかりで、何も返せていない…」

「そんな事ないよ」


少し落ち込む彼女を抱き寄せる。むしろ、私的にはもっと甘やかしたいのだが、流石に言えない。


「来年も再来年も誕生日は来るんだよ。その時にまた考えれば良いじゃない」

「そうだね、うん。楽しみにしていてね、涼さん」


腕の中の笑顔に、心が幸せな感情で押し潰されそうだ。


「ねぇ、涼さん。つけてくれる?」

「良いよ」


彼女から受けとると、首に手を回してネックレスを着ける。首元にちらりと見える銀と青が、桜を高校生から大人の女性へと変えているようだ。


「似合ってる」

「ありがとう」


嬉しそうな表情を見つめていると、彼女と視線が合った。お互いに微笑んでから、そっと唇を重ねた。軽く触れただけのキスは二人の気持ちが伝わるようで心地好かった。


「涼さん、好きだよ。

大好きだよ」

「私も、好きだよ」


もう一度抱きしめながら私は目を閉じて、彼女に告げた。


岬を出て、町に着く頃には夕方になっていた。時間を見計らって、待ち合わせのファミレスに入る。


「ごめんね、夕食まで一緒に食べれれば良かったんだけど」

「ううん、またバイクで帰るんでしょう。少しでも早い方が良いよ」

「軽トラも処分したし、新しい車を買おうかな」

「私、涼さんと一緒に乗るバイクは好きだよ」

「バイクは雨だと出れないからね」

「そっか…あれ?」


私の後をついていた桜は、前で手を振る二人を見つけてぱっと声を上げた。


「二人とも、今日はどうしたんですか!?」

「それは勿論、桜ちゃんの合格祝いと卒業祝いをするためにいるのよ」

「桜ちゃん、私達がご馳走するから好きな物を頼んでね」

「えっ、良いんですか?」

「ええ、大丈夫。社会人だから心配しないで」


「やった!それなら涼、ゴチになります!」

「こら!あんたは別よ」

「ええっ、私、まだ学生だよ。良いじゃない」

「…ちょっと待って。あんた、今年卒業したんでしょう?」

「そうだよ。卒業して、入学するの」

「どこに?」

「大学院」

「えっ、…マジ?」

「大マジ」


隣の夏樹さんに視線を送ると、笑って頷いた。どうやら本当らしい。


「あんた、ろくろく勉強もしなかったくせに、無駄に頭が良いんだから、嫌になる」

「まあ、とりあえず、自分探しという事で二年間猶予を貰った」

「それなら仕方ない。お祝いしなきゃね」

「やったー!!」


嬉しそうにメニューを開くと、「桜ちゃん、何食べる?」と早速話し合う。夕食にはまだ早い時間だったので、私、桜、夏樹さんはケーキを、綾乃はステーキと、ポテトの大盛を注文した。


「綾乃、もうすぐ夕食だけど、大丈夫なの?」

「全然大丈夫。夏樹さんのご飯美味しいから。こんなの余裕だよ」


呆れる私に構わずコップを持つと、「乾杯しよう」と急かしてくる。


「それじゃあ、桜ちゃんの卒業と大学合格に、乾杯!」

「おめでとう」

「ありがとうございます」


皆でコップを軽く合わせて乾杯すると、嬉しそうに桜も合わせた。いつもの二人が前に座り、私の隣に桜がいる。わいわい言いながら過ごす、この光景は何だか不思議だった。


「何か不思議だね」


綾乃も同じ事を思ったらしい。そういえば、このメンバーで食事をするのは初めてだ。

注文した料理が運ばれてきて、フォークを持つと、早速食べ始める。私はレアチーズ、桜はベイクドチーズ、夏樹さんはガトーショコラだ。夏樹さんのケーキも美味しそうで、いつものように一口貰おうと声をかけた。


「夏樹さん。一口貰って良い?」

「うん、どうぞ」

「ありがとう。こっちも食べて」


一口貰ったガトーショコラは美味しくて、幸せな気分になる。そんな私達を横の二人がジト目で見ていた。


「桜ちゃん、あの二人どう思う?

隣に恋人がいるのに見せつけてくれるよね?」

「本当ですよね。夏樹さんと涼さんって、二人でよくご飯も食べているみたいだし、ズルいですよね」


桜の一言が胸にぐさりと刺さり、焦って思わず言い訳する。


「なっ!?そ、そんな事ないよ。

ちゃんと、桜からも一口貰おうと思ったんだから」

「本当に?」

「うんうん、本当」

「それなら、はい、どうぞ」


そう言って、自分のフォークに一口ケーキを乗せると、私の口元に持ってきた。


「いやいや!?自分で食べるから」

「良いじゃないですか、これくらい」

「全然良くないから!!二人が見てるし。これじゃ、罰ゲームじゃない」

「大丈夫、心配いらないから。早く食べて」

「そうだよ、早く食べてあげなよ。涼

私達がしっかり見ててあげるからさ。ねぇ、桜ちゃん?」

「綾乃!前から言おうと思っていたけど、あんた、本っ当に、桜から離れなさい!

段々、桜が綾乃に似てきた!」

「良いじゃない、私達仲良しだもんね?桜ちゃん」

「はい、綾乃さん」

「ふふふ」


以前より格段に賑やかになった光景に、夏樹さんは嬉しそうに笑っていた。


ファミレスを出て駐車場に向かうと、不意に桜が「皆で写真を撮りましょう」と言い出した。以前交わした約束を覚えていたらしい。駐車場の片隅で、四人で集まりスマホを見る。何度か撮って出来た写真を見ると、桜を中心に皆笑顔で写っていた。それを見て、引っ越しをする時に本棚から出てきた写真を思い出した。麗がカメラ嫌いの私を無理矢理引っ張って、三人で撮った唯一の写真。ずっと閉まっておいたままだったけど、今日の写真を現像して部屋に飾ろう、と思った。どちらも私の大切な人が写っているから。


次に四人で会うのはいつになるのか分からないけど、またすぐに会うかのような雰囲気がそこにはあった。桜に別れの挨拶をする二人を見て、私は、一つの事を心に決めていた。私の言葉を綾乃はきちんと分かってくれるだろうか、少しだけそう考えたが、彼女ならきっと大丈夫だろうと思い直す。

桜の隣に立ち、彼女の肩に手を置く。驚く桜に構わず、綾乃を見た。


「綾乃」

「ん?」


「私、桜を綾乃に紹介するから」


私と綾乃、そして麗がいつもの様に海岸で夕日を見ながらぼんやりしている時、ふと麗が言ったあの時を思い出す。


'涼、綾乃。もし、私達に、一生一緒に過ごしたい人が出来たらさ、お互いに紹介しようよ'

'何で?'

'良いじゃない。必ず連れてきてよ'

'はいはい、そんな人が出来たらね。

まあ、きっと麗が一番だろうから、気長に待っとくよ'

'そんな事分からないじゃない?

約束ね。涼も分かった?'

'何が?'

'…涼?聞いていたでしょう?'

'分かった、分かったから、約束するから'


たった一度だけ世間話の様に他愛ない約束を、綾乃は覚えていて、夏樹さんを私に紹介してくれた。だから、私も彼女と麗との最後の約束を守りたい。


突然の事に、隣の桜は不思議そうな顔を浮かべている。彼女はまだこの意味を知らなくても良い。これは、私の決意表明だから…


はっとした表情で綾乃を見る夏樹さんの隣で、私を真っ直ぐに見た綾乃は、穏やかに微笑む。

そして、本当に嬉しそうに笑って、一言だけ告げた。


「ありがとう、涼」


〈完〉




後書き


これで「私と貴女と…2」は完結となります。

番外編として一話毎のショートストーリーが明日からもしばらく続きます。

もう少しお付き合い下さい。

菜央実

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