第21話 大寒

それから、毎日朝から夕方まで牧場で働き出した。以前働いていたとはいえ色々変わっていて、何もかも初めてのつもりで取り組む。顔見知りも幾人か働いていて、私が戻って来たことを歓迎してくれた。牧場にも週に二回の休みがあるが、いよいよ近づいたセンター試験に集中してほしくて私は彼女と話し合い、何もかも片付いてから会おうと決め、クリスマスもお正月も帰らずにいた。


センター試験が終わり、電話をかけてきた彼女の声は、不安で一杯だった。


「自分では、手応えはあったんでしょう?」

「うん、だけど、やっぱり怖くて…」


震える声が私の耳に届いた時、以前、泣きながら'会いたい'と言った彼女の声と重なった。


「桜ちゃん、明日会いに行くよ」

「えっ!?」

「私、明日休みなんだ。バイクで帰ってくるから、夕方会おう」

「…本当ですか?」

「うん、約束する」

「涼さん…」


電話口の向こうで涙ぐむ声が嬉しそうな口調になったことに安心して、電話を切った。


図書館にバイクを停めヘルメットを取ると、夕焼け空の下、制服姿の桜ちゃんが駆け寄ってきた。コートとマフラーをしているが、この寒空の下では寒そうだ。


「桜ちゃん、風邪引くよ。中に入って待てば良かったのに」

「ううん、大丈夫です。お帰りなさい」


寒さで鼻の頭が少し赤い彼女に、「ただいま」と笑いかけると、ぎゅっと抱きつかれて驚く。思わず抱き返したかったけど、ぐっと我慢して頭を撫でた。


「ここは寒いから、中に入ろう」


ポケットに鍵を入れようとして、渡そうと思っていた物を取り出した。


「桜ちゃん、これ」

「お守り、ですか?」

「牧場の近くに学問の神様が奉られている神社があって、行ってきたんだ。気休めにしかならないかも知れないけど…」

「ありがとう、涼さん」


彼女の笑顔にほっとして笑うと、入り口に向かって歩き出した。ほんの数メートルの距離だけど、二人で歩ける事が嬉しい。


「いらっしゃい、涼さん」

「久しぶり、夏樹さん」


何も変わらない風景に安心すると、夏樹さんが出迎えてくれた。


「桜ちゃんが、ずっと待っていたのよ」

「夏樹さん!」

「ふふふ」


慌てる桜ちゃんに、夏樹さんはおかしそうに笑った。


「毎回ここを待ち合わせ場所にしてもらって、ごめんね」

「全然構わないわよ。桜ちゃんはここの大切な利用者だから。

それに、もう少しで卒業だしね。きっと、春からは待ち合わせの場所も変わるんじゃない?」


少しだけ寂しそうに笑う夏樹さんに、桜ちゃんが声をかけた。


「あのっ、ここで三人で写真撮りませんか?」

「写真?」

「私のお守りにしたいんです。お願いします」

「良いわよ」


夏樹さんは私を見て笑った。彼女が了承したのなら、私も参加せざるを得ない。桜ちゃんを中心に三人で顔を寄せスマホで写真を取った。自分の少しだけぎこちない笑顔に恥ずかしさを覚えたが、桜ちゃんと夏樹さんは喜んでくれたようだ。


「あのね、桜ちゃんの試験が終わってからで良いから、もう一度写真をお願いして良いかな?」

「はい?」

「あー、綾乃ね」

「うん、綾乃ちゃんもきっと一緒に写りたいと思うから」

「そうですね、絶対撮りましょう!」


綾乃を思って三人で笑いあうと、何だか心がぽかぽかしていた。


夏樹さんと別れてから、駅まで桜ちゃんを歩いて送る事にした。暗くなった町は街灯がぽつりぽつりと点いているだけで、風が冷たく、指が凍えそうだ。手袋をしている桜ちゃんの手を掴むと、包むように繋いだ。


「少しは温かくなるかも、と思って」


驚く彼女にそう言うと、隣にそっと寄り添ってきた。「少し待ってください」と手を離すと手袋を取って、もう一度繋ぐ。「えへへ」と笑う桜ちゃんと、ぎゅっと指を絡めて歩き出した。


「ねぇ、桜ちゃん」

「何ですか?」

「お願いがあるんだけど…」

「えっ、ここでキスですか?」

「桜ちゃん!?」

「冗談ですよ」

「桜ちゃん、最近、綾乃の影響受けすぎだよ。

随分、性格が変わった気がする」

「そんな事ないですよ」


笑う桜ちゃんに、綾乃の影がちらついて、後で一応釘を刺しておこうと、心に誓った。


「私達、付き合っているんだから、丁寧語じゃなくて普通に話して欲しいな」

「普通、ですか?」

「そう。です、ますとか、要らないから」

「急に変えるのは、難しいですね…」

「ほら、また」

「あっ!」


笑いながら指摘すると、桜ちゃんはもごもごと呟いた。


「そんなに難しい?

友達みたいに話せば良いでしょう」

「だって…

そ、それなら、涼さんにも直して欲しい事があります」


桜ちゃんは立ち止まり、私を見上げた。つられて、私も立ち止まる。


「えっ、何?」

「私も言葉遣いを変えるから、涼さんも私を'桜'って呼んで欲しいです」

「つまり、呼び捨てって事?」

「はい」

「…簡単だと思うけど」

「じゃあ、呼んでみて下さい」


きらきらした目でこちらを見る桜ちゃんが、まるで'早く呼んで欲しい'と訴えているようで、何故か緊張してきた。名前を呼ぶだけなのに、いざ呼ぼうとすると言葉が出ない。


「…電車、乗り遅れるよ」

「涼さん、話を逸らさないで下さい!」

「いや、あの、だってほら、乗り遅れたら大変じゃない?」

「まだ10分以上あるんですよ。駅は目の前なのに乗り遅れる訳ないじゃないですか!」

「桜ちゃん…本当に強くなったね…」


このところずっと彼女に、言いくるめられてばかりの自分を遠い目で振り返っていると、「もう」と手を引かれて、駅の建物に連れていかれる。一つの蛍光灯しかない駅舎の中は薄暗くベンチと時刻表があるだけの簡素な造りで、私をベンチに座らせると、桜ちゃんは後ろの壁に両手をついて、私の正面に立った。顔の両側を桜ちゃんの手が隠していて、私の視界は彼女しか見えない。


「さ、桜さん!?これは、いわゆる壁ドンの状態ではないですか?

こ、こんな公共の場で、この体勢はちょっと…」


慌てる私に、流石に恥ずかしいのだろう、赤い顔の桜ちゃんは、それでも、そのままの体勢を止めようとはしない。


「私達以外誰もいないじゃないですか。恥ずかしかったら、早く呼んで下さい。

涼さん言いましたよね?簡単だって」

「はい…」

「それなら、言えますよね?」

「…はい」


覚悟を決めて、そっと名前を呼ぶ。


「…桜」


「!!

もう一度、言って…」


掠れた声で私を見つめる彼女の名を、真っ直ぐ見つめてもう一度口にした。


「桜」

「…涼さん」


桜ちゃんは私の顔に近づくと、そのままキスをした。突然の事に目を閉じることの出来ないまま、彼女の顔を見つめる。直ぐに離れた唇の感触をもう一度味わいたくて、今度は私が彼女を引き寄せ、踏切の警告音がなるまでずっとキスを繰り返した。



その後も、電話のやり取りや勉強の付き添いをしたりして、あっという間に農大の試験日になった。仕事が終わりスマホを開くと、メッセージが入っていて、どうやら無事に終わったようだ。

彼女の高校生活は間もなく終わる。自分の高校時代を振り返ると、心残りが多かった気がするが、きっと彼女は笑顔で卒業するのだろう。


いつの間にか暖かくなった風に、ふと、亡くなった友人の事を思い返す。突然の訃報に戸惑い、悲しんだ日々と、もう行くことはないだろうと思っていた岬が思い浮かんだ。彼女と二人で出掛けた、最初で最後の場所。


(もう一度行きたい…)


何故か、そんな衝動に駆られた。自転車に乗って一人で見た彼女と、同じ光景を一緒に見てみたい。沸き上がる感情を深呼吸して落ち着かせると、私はスマホを開いて、メッセージを送った。

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