第19話 霜降 (1)
牧場の社員寮が空いていたこともあり、面接から一月後に私は牧場に研修という形で働き出す事となった。出発する週の最後の日曜日、私は桜ちゃんと待ち合わせた。センター試験が近づき、今は追い込みの大切な時期で私は遠慮したのだが、桜ちゃんが譲らず、結局、夕方まで図書館で勉強している彼女の元へ少し早めに行くことで落ち着いた。
図書館に入り夏樹さんに挨拶すると、マスクをして机に向かう桜ちゃんがいた。こちらに気づき、目だけで笑う彼女が心配になる。
「桜ちゃん、風邪引いたの?」
「違います。風邪を引かないようにマスクしているんです。
私は元気ですよ」
マスクを外し笑う彼女に、そう言えば自分も、この時期は風邪やインフルエンザ予防にマスクを付けていたと思っていると声をかけられた。
「涼さん、今から事務室で一時間位かかる仕事があるんだ。閉館時間も近いし、良かったらここにいない?」
「えっ?」
「向こうに行ったら、しばらく会えないんでしょう?」
ぱちりとウインクして笑う夏樹さんに、彼女が私達に気を使ってくれたのだと分かった。
「うん、ありがとう」
戸締まりをして出ていく夏樹さんに笑って返事をすると、桜ちゃんと二人きりになった。カーテンが閉められているものの、電気は手前だけ点けてあるので、室内は明るい。彼女と二人だけになったことを意識すると、急に胸がどきどきした。
片付けを済ませた桜ちゃんも、鞄を持ったままどうして良いか分からない様に立っている。顔が少し赤いのは、先程の私達のやり取りを聞いていたからだろう。
「桜ちゃん、たまには違う椅子に座ろうよ」
明るく声をかけて、中央のソファーに座った。思った以上に沈む座り心地に驚くと、桜ちゃんもようやくいつも通りの笑顔になった。二人で並んで座ると身体が触れるほど近い距離を、嫌でも意識してしまう。
「涼さんは、明日何時頃行くんですか?」
「明日の昼前かな。荷物は全部送ったし、バイクも置いてきたから身軽だよ」
「私も、見送り行きたかったな…」
ぽつりとこぼれた呟きに、思わず彼女の頭をぽんぽんと撫でた。
「平日だから仕方がないよ。私は、その気持ちだけで十分だよ」
「だって、綾乃さんと夏樹さんは見送りに行くんでしょう」
「あー、うん…」
寂しそうな彼女の表情に、申し訳ない気持ちで一杯になる。「折角だから乗り換えの駅まで送ってあげる」と綾乃が言い出して、休館日で休みの夏樹さんも一緒に来てくれることになっていたのを、聞いたらしい。一人だけ取り残されて可哀想なくらい、しゅんとした桜ちゃんに、焦ってしまう。
「そんなに気落ちしないで。休みの日には帰ってくるから」
「だって、私、受験だし…。いつも電話しか出来ないし…。
それなのに、綾乃さんはたまに涼さんとご飯食べに行ったりするって言ってました…ずるい…」
「あっ、そ、それはそうだけど…」
慌てる私の隣で、ますますいじける桜ちゃんに何と言って良いか悩む。
(綾乃…!あいつ何もかもバラして!!)
彼女を気落ちさせた原因の綾乃を密かに恨みながら、不意に、良い考えが思いついた。
「そうだ。桜ちゃんのお願いを聞いてあげるから、それで許してくれないかな?」
「…お願い、ですか?」
「何でも良いよ」
少しだけ機嫌が直った桜ちゃんに、ほっとして笑いかけると、「本当ですか?」と念を押された。
「いや、あの、私に出来ることならっていう意味だけど…」
「分かりました。それなら、お願いしたいことがあります」
「うん、何かな?」
「キスしてください」
「…へっ?」
あまりにも予想外なお願いに固まった私を見たまま、赤い顔の桜ちゃんはもう一度繰り返した。
「だから、涼さんがキスしてくれるなら、許します」
「ちょっ、いや、あのっ!!」
「涼さん、落ち着いて下さい」
「いやいや、落ち着ける訳ないし!!
桜ちゃん、本気で言ってるの!?」
「本気です。
まさか、涼さんは私と冗談で付き合おうって言ったんですか?」
「そ、それは、本気だけど…」
「それなら何も問題ないじゃないですか」
いつもよりも積極的な感じで私に訴えてくる彼女に、たじたじになる。
「あの、だって、私達付き合ったばかりじゃない?
こういう事はもう少し時間をかけて、お互い知り合ってから…」
「私達、知り合って一年以上経つんですよ。十分だと思いますけど」
「こ、ここは公共の場だし、雰囲気とかムードとかも…」
「今は閉館しているから良いじゃないですか。それに、涼さんいつ帰ってくるか分からないし」
「だからって言って、さすがにそのお願いは…」
「涼さん、自分で言いましたよね'自分に出来ることなら'って」
「そうだけど…」
「それとも、嫌、ですか?」
いつしか真剣な口調に変わった桜ちゃんは、私を真っ直ぐ見た。その眼差しに、上手い言い訳が思い付かずに、結局、素直に白状した。
「嫌じゃないよ。…だけど、怖い」
「何が怖いんですか?」
私の言葉に問いかける彼女の口調は、優しかった。恐る恐る彼女を見ながら言葉を続ける。
「桜ちゃんに嫌われるかもしれないから…」
「私、涼さんを嫌いになったりしませんよ」
「…」
「涼さん」
「我慢、出来なくなるから」
「えっ、何がですか?」
「…キス」
「えっ!?」
戸惑う桜ちゃんに、いっその事何もかも打ち明けたくなり、恥ずかしいのを我慢して説明する。
「思いきって言うけど、私、一応それ以上の経験もあるから、軽いキスだけじゃきっと我慢出来ない。もっと桜ちゃんに触れたくなるに決まっている。
だけど、桜ちゃんは受験生でしょう。私の勝手で困らせる訳にはいかないじゃない。だからせめて、試験が終わるまでは我慢しようって決めていたの」
「…」
桜ちゃんが呆然としているのを見て、やっぱり言わなきゃ良かった、と後悔すると、手を取られた。
「嬉しいです…」
「えっ?」
「前に、涼さんが一度、キスしようとしてくれた事覚えています?」
「あー、うん…」
あの時も、土壇場で怖くなって結局逃げ出したんだっけ、と思い返す。
「私、冗談でも良いからして欲しかったんです」
「桜ちゃん」
「初めて図書館で会って、貴女が'帰ってきてくれてありがとう'って言ってくれた時から、ずっと好きでした。片想いでも良いって思った時もあったけど…
貴女が好きだって言ってくれて本当に嬉しかった。だから、私、好きな人とキスしたいんです」
「…」
言葉を失う私に笑う彼女は幸せそうで、私は引き寄せられるように、彼女を抱きしめた。こんなにも自分を想ってくれる彼女を、やっぱり私は何も解っていなかった。
「ありがとう、桜ちゃん」
ふわふわの髪に顔をうずめて囁くと、ぎゅっ、と抱き返される。顔を上げた桜ちゃんと視線を合わせると、今までの躊躇いが嘘のようにどちらからともなくキスをした。図書館の外の音も、どきどきする胸の音も、何も聞こえなくて、柔らかい唇だけが熱を持ったように熱い。そっと触れただけなのに、ぎこちない桜ちゃんが愛しくて、掴まれていた手を絡めるように繋いだ。ゆっくり顔を離すと、赤い顔で呆けた様な桜ちゃんが目の前にいた。
「桜ちゃん、大丈夫?」
「え、はい…」
はっとした様子で照れたように笑う桜ちゃんの頬に手を添えて、笑いかけると、「一応先に謝っておくね」と謝罪した。
「何をですか?」
不思議そうな彼女を引き寄せて、もう一度唇を重ねる。
「んっ!?」
驚く彼女を怖がらせないように、優しく何度か触れてから、深く口づけた。身体を強ばらせていた桜ちゃんが、何度も繰り返すうちに次第に力が抜けていくのが分かって、彼女の身体をソファーの背もたれに押しつけるようにしながら、キスを繰り返した。満足するまで繰り返してから、ようやく身体を離すとぐったりとして少しだけ涙目の桜ちゃんが、私を見上げていた。
「あの、…ごめんね。怖かった?」
「…少しだけ」
「その、やっぱり途中から、我慢できなくて…つい」
隣でひたすら謝る私に、ようやく息が整った桜ちゃんが手を伸ばす。何をするのか分からずそのままでいると、伸ばした手を私の首に回して耳元に顔を近づけた。
「大好き、涼さん」
その言葉と笑った彼女に、愛しさが溢れだして、もう一度桜ちゃんにキスをした。
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