第17話 白露 (3)

玄関を大きめに開ける音が聞こえて、思わず身体を離す。ごしごしと涙を拭いて桜ちゃんに微笑みかけると、ほっとした顔があった。


わざと音を立ててこちらに向かってくる彼女の気遣いに苦笑しながらも、有り難く思う。

部屋を覗き込んだのは夏樹さんで、綾乃はちらりとこちらを見ただけだった。


「涼さん、落ち着いた?」

「あ、うん」


「ねぇ、桜ちゃん、だっけ?」


不意に綾乃に呼びかけられ、桜ちゃんがびくっとしながらも、綾乃を見た。


「はい…」

「足、痛いんじゃない?」


「足?」


桜ちゃんの足を見ると、白い靴下の爪先と踵が赤く滲んでいた。


「どうしたの?」


驚く私に、思い出したように彼女は答えた。


「多分、慣れない革靴で走ったから…」


答えの意味が分からない私を無視して、綾乃が彼女の手を取った。


「とりあえず、手当てするから。夏樹さん、涼を頼んでいい?」

「ええ、分かったわ」


戸惑いながらも手を掴まれている為、綾乃に連れられて行った桜ちゃんの姿が見えなくなってから、夏樹さんは口を開いた。


「私達が来る前に、桜ちゃんは一度ここに来たんでしょう?」

「うん…」


「貴女の様子がおかしいことに気がついて、私に助けを求めるつもりで、図書館まで走ろうとしたんだって」

「えっ!?」


ここから図書館まではかなりの距離がある。彼女が夕方ここに来たのなら、図書館にたどり着くのは間に合わない筈だ。


「仕事が終わって、裏口の鍵を掛けたとき図書館の電話が鳴ったの。最初誰だか分からなかったわ。だけどね、彼女は必死に力のない掠れた声で、'貴女を助けてほしい'って言ったの」

「…」


私は、桜ちゃんを拒絶したのに、彼女は私を助けてくれたのだ…


「…さっき綾乃ちゃんが桜ちゃんを連れていったのは、彼女の前で、貴女のそんな顔を見せたくなかったんだよ」


夏樹さんは私に笑いかけると、そっと涙を指で拭ってくれた。


「大丈夫だよ。

涼さんも、桜ちゃんも、綾乃ちゃんも。きっと大丈夫」


「ごめん…」


ぽたぽたと落ちる涙が夏樹さんの指を濡らす。彼女は反対の手で私の髪をそっと撫でると、いたずら顔で私を見つめた。


「本当はぎゅってしてあげたいけど、桜ちゃんに嫌われたくないから止めておくね」


その言葉にお互い顔を見合わせて、思わず泣きながら笑い合った。

【改ページ】

立木さんが'綾乃ちゃん'と呼んでいた人から手当てを受けてガーゼや包帯で覆ってもらった。靴ずれだけでなく転んだ時に膝にも擦り傷があったらしく、手当てをする女性の方が痛そうな表情を浮かべていた。やがて居間で座っていた私に、立木さんが声をかけた。


「桜ちゃん」

「はい」

「あのね、綾乃ちゃんと相談したのだけど、もう暗くなった事だし、あなたをお家まで車で送ろうと思うのだけど、良いかしら?」

「えっ、でも…」


まだ涼さんと話したいことはたくさんある。そんな私に、立木さんの隣の女性が、答えた。


「涼は大丈夫よ。とりあえず、今日は私達が付き添うから。

あなた、明日も学校でしょう?身体も疲れているだろうし、ゆっくり休んだ方が良いわ」

「…はい」


何となく言いくるめられた気がして、もやもやする。そんな私と女性のやり取りを、立木さんが少し困ったように見ていた。


「桜ちゃん、歩けそう?」

「はい、一応。だけど、靴が入るかな」


包帯で巻かれた足は、革靴を履くには難しそうだ。サンダルか何かあれば良いのに、と少しだけ思っていたら、女性が奥の部屋に行き、涼さんを連れ出してきた。ふらつきながらも歩いてきた涼さんは、私の足を見て息をのんだ。何も言わない涼さんの目は少し赤かった。


「涼、履かない靴を借りて良い?」

「…あ、良いよ。その靴箱の奥」

「これ?」

「うん」


取り出した靴が私の前に置かれる。


「これ履いて帰れば良いよ。また来たときに返せば良いから」

「あ、ありがとうございます…」


涼さんの靴は私の足より大きくて、ゆっくりと履けた。そんな私を見て「じゃあ、行こうか」と女性が声をかけた。


「桜ちゃん」


呼ばれた声に振り向けと、泣き笑いの顔で涼さんが言った。


「本当に、ありがとう」

「涼さん…」


しばらくの沈黙の後、少し目を泳がせながら言葉を続ける。


「あの、明日、良かったら電話して良いかな…」

「…はい。

待ってますね」


微笑む私に、ほっとしたように涼さんは手を振った。足の痛みも気にならずに、私も手を振り返してから玄関を出た。


「お願いします」と車の助手席に乗り込むと、住所を聞かれたので大まかな場所を伝える。「とりあえず近くまで行くから、また教えて」と言われ、エンジン音が鳴った。


「荷物は鞄だけ?」


その言葉に、車庫に置いたままの鞄を思い出す。慌てた私に、「後ろに置いてあるから」と見せてくれた。


「ありがとうございます…」

「良いよ。別に」


車が動き出す。静かに洋楽が流れているだけの空間に知らない女性と二人きりでいる事が落ち着かない。


(この人は、涼さん達とどんな関係なんだろう…)


運転する女性をちらりと見て考える。一見可愛らしい感じの女性だが、淡々とした口調とその行動力に、どんな人なのか分からなくて戸惑う。最初車で迎えに来てくれたとき、涼さんの事で一杯で、私達はお互い名前すら名乗っていなかった。

立木さんや涼さんとの会話から、親しい間柄である事は違いない…そこまで考えてから、何か引っ掛かった。


「あのさ」

「は、はいっ?」


不意に声をかけられて、上擦る返事を返すと、女性は苦笑しながら「そんなに怖がらなくても良いわよ」と言った。


「すいません…」

「だから、謝らなくても良いって」

「はい」


少しだけ穏やかな雰囲気になり、女性は前を向きながらぽつりと言った。


「涼を助けてくれて、ありがとう」


「…いえ、私、一人じゃ結局何も出来なかったし」

「ううん、あなたが諦めないでくれたから、私達は涼に気づくことが出来た」


そこで初めて、女性は私の方を向いた。


「あなたのおかげよ。ありがとう」


笑った顔は先程までとは違い、そこには親しみと優しさがあった。


「涼は昔から、なかなか自分の悩みや感情を打ち明けられない性格でね。高校の頃、似たようなことがあったの。

…あの時も私は気づいてあげれなかった」


涼さんを大切に思いながらも、自分が気づかなかった事を自嘲するような口調に、思わず否定したくなった。


「今日はあなたがいてくれたから、涼さんは元気になれたじゃないですか。

涼さんが一度話してくれたんです。自分の事をいつも見守ってくれる友人がいて、立木さんと同じくらいとても感謝しているって。それって、あなたの事ですよね?」

「…」


驚いたように目を開く彼女は、前を向いて小さく「そっか…」とだけ呟いた。しばらくの沈黙の後で、女性は思い出したかのように口を開いた。


「そういえば、名前言っていなかったね。私、香田綾乃」

「あ、私、早川桜です」

「桜ちゃん、で良いかな?

私も下の名前で良いから」

「綾乃さん?」

「そう。それと、これはお願いなんだけどさ、夏樹さんも名前で呼んであげてよ」

「立木さん、ですか?」


突然のお願いに戸惑う私に、少し照れたように綾乃さんは笑った。


「夏樹さんもね、ああ見えて恥ずかしがり屋なんだ。桜ちゃんと仲良くなれて嬉しいんだけど名前で呼んで欲しいって、なかなか言い出せないって言っていたから…」

「えっ?」

「だから、桜ちゃんが良かったら、名前を呼んであげて。

それと、私が頼んだことは内緒にしていてね」


「はい」


私の言葉に安心したように笑う綾乃さんは、まるで自分の事の様に嬉しそうに笑った。

自宅前に車を停めてもらいお礼を言って降りると、なぜか綾乃さんも降りた。そのまま玄関のチャイムを押す綾乃さんに慌てて訊ねる。


「綾乃さん!?何するんですか?」

「桜ちゃんの足の事、一言謝っておこうと思って」

「そんな事、大丈夫ですから!」


そんなやり取りをしていると扉が開き、母親が顔を出した。私と知らない女性がいることに驚いた様子の母親に、綾乃さんは自分の友人を私に助けてもらった事、その為に足の傷が出来たことを丁寧に説明して、謝罪した。私はそんな彼女の様子に、改めて彼女への印象が変わるのを感じた。きっと、この人も自分の大切な人の為に、自分を投げ出す事を厭わない人なんだろう。

母親が笑って綾乃さんと話しているのを見て、怒られることはない、と安心した。いつの間にかお互い頭を下げている様子から、もう話は終わったようだ。


「それじゃ、桜ちゃん。またね」

「はい、ありがとうございました」


車を見送ってから、部屋に戻る。何だか色々あった日だったと思いながら、ベッドに入った。電気を消した暗闇の中で、今日の事を振り返ると、突然何かが繋がった気がした。


「!?」


大声をあげそうになり、咄嗟に口を押さえる。眠気なんてどこかに去ってしまい、心臓がばくばくしているのが分かった。自分の考えに「まさか」という気持ちがあったが、きっと間違っていないという確信もあった。明日、涼さんが電話した時に聞いてみよう、と考えながらそれが待ち遠しくて、早く一日が始まれば良いのに、と願った。

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