第16話 白露 (2)
桜ちゃんが去って、静寂が戻る。もう二度と会うこともないと思っていた彼女の声が懐かしくて、また胸が痛んだ。
「もう、構わないで…」
あれから、綾乃から来た電話にスマホのメッセージを打って返信すると、電源を切って、この部屋に籠った。ごまの切ない鳴き声に我慢できず、一度餌を与えただけで、何の気力も湧かないまま部屋で寝転がったまま過ごした。
時間も空腹も感じなくて心がどこかに行ってしまったように、空虚だけが私を支配する。誰かに助けてもらおうなんて思えなくて、それでも、夏樹さんの顔は思い浮かんだけど、どうしても電話出来なかった。本当に会いたかった人は別にいたから…
だけど、彼女の声を聞いた途端、怖くなった。彼女にこれ以上弱い自分を見せたくない。だから、咄嗟に出た言葉は拒絶だった。立ち去った彼女を思い、枯れた筈の涙が滲んだ。
私はもう何もかも失ってしまった…
どのくらいそうしていただろう。ふと、外で物音が聞こえた気がした。玄関が凄い音を立てて開き、どたどたとこちらに走ってくる足音が聞こえる。襖がぱーんと開いて、綾乃が凄まじい表情で立っていた。あまりの勢いに、ぽかんと彼女を見る。
「涼、具合が悪いの?」
低い声で尋問されるように聞かれ、思わず首を横に振った。彼女の声は、本気で怒っている時の声だったから。
「何があったの?」
「…」
黙る私に近寄ると、彼女は私の襟元を掴んで引っ張り上げ至近距離で見つめた。彼女の視線が痛くて、目をそらしてぼそぼそと打ち明けた。
「台風で…」
「台風で?」
「小屋が潰されて…二頭とも…駄目だった…」
「…」
「それで?」
「えっ?」
綾乃の質問の意味が分からずに、思わず見返した。
「どうして涼はここにいるの?」
「だって…!」
綾乃を振りほどくと、怒りに任せて見返した。
「もう何もかも失ったんだよ!!どうすることも出来ないじゃない!!」
「…辛いならどうして相談しなかったの?」
「…っ!?」
一番聞かれたくない事を問われて、言葉に詰まる。無言で私の返事を待つ綾乃の沈黙が怖くてぽつりと呟いた。
「だって、皆に弱い自分を見せたくなかったから…」
その瞬間、パンっという乾いた音と、左頬に痛みが走った。呆然とする私に「やめて!!」という叫び声と柔らかい感触が当たる。そこで、ようやく綾乃が私に平手打ちをしたのだと気付いた。
「あんたね…」
彼女は少し震える声で、真っ直ぐ私を見る。
「私はともかく、夏樹さんの事までそんなに信用していないの?
私達、それだけの関係だったの?」
「違う!!」
思わず綾乃の腕を両手で掴んで否定したが、彼女は全く動じなかった。
「違わない!!涼はいつも自分の弱みを見せたがらないじゃない!他人が困っているのは簡単に助けられるのに、自分が困っているのは、どうして助けてって言えないのよ!!
ねぇ、涼。
涼が辛いのは分かるよ。だけどね、私や夏樹さんがいつも一緒にいる訳じゃないんだよ。
…麗みたいに突然いなくなったりするかもしれない。涼は、変わらなきゃいけないんだよ。
夏樹さんに言われたんでしょう?私や夏樹さんは涼を一人にしないって。例え、弱い涼でも嫌いになる筈ないじゃない。
もう自分から逃げないで。自分の弱さを見せる勇気を出しなよ」
「…」
綾乃の真剣な声が私の中に染み込んでいく。そして、もう会えない大切な友人を思い出した。そんな私の手を振りほどくと、ちらりと私を見た。
「私が言うのもおかしいけど…
とりあえず、涼が変わる最初の一歩として、きちんと向かい合ってみれば良いじゃい」
「…何を?」
私の問いかけに呆れた顔をして、私の下を指さす。
「私達が気がつかないとでも思っているの?あんたの気持ちに。
誰よりも涼の事を心配して、あんたの異変に気がついて、拒絶されても傍にいてくれる人がいるじゃない。
好きなんでしょう?その子」
視線を下ろした私と、私を庇うように抱きついていた彼女が顔を上げるのは同時だった。
「!?」
「えっ!?」
動揺する私と、何を言われたか分からない様子の桜ちゃんを見て、綾乃は立ち上がった。
「私、外にいるから。後は頑張りなよ」
そのまま振り返りもせずに立ち去る綾乃を見ていると、小さく「本当ですか?」と声がした。抱きついたまま私を見つめる桜ちゃんは酷く真剣な様子で返事を待っている。
「…うん」
「それなら、どうしてあんな事言ったのですか?」
彼女の真っ直ぐに見つめてくる瞳に負けるように、俯いて呟いた。
「だって、大学に入れば、桜ちゃんはここからいなくなるじゃない。そうなれば、きっと私の事なんか忘れてしまうって思ったら…」
「涼さん」
桜ちゃんの呼ぶ声に顔を上げる。彼女は私の両手を取るときゅっと握りしめた。私は彼女の両手が少し震えている事に気かついた。
「私、農大を第一志望にしているんです」
「えっ?」
「涼さんに出会って、牛の勉強をしたいって思うようになったんです。私は大学に入ったら、確かに涼さんから離れてしまいます。
だけど、私は将来、牛に関わる仕事をしたい。そして出来ることなら、貴女の隣に立てるような大人になりたいんです。
私、必ず戻って来るから、待っていてもらえませんか?」
「…本当に?
本当に戻って来てくれるの?」
震える声の私の問いかけに、桜ちゃんは大きく頷いた。
「はい、約束します」
その言葉に、涙が溢れだす。桜ちゃんは私を抱きしめると、背中を擦ってくれた。彼女の細い身体の中で、私とひたすら涙を流し続けた。
外はいつの間にか真っ暗で、街灯のないここでは何も見えない。いつの間にかすり寄ってきた黒い猫が足元に座る。乗ってきた車の傍で、ぼんやりとしているとこちらに歩いてくる足音が聞こえた。
「…綾乃ちゃん」
「…」
振り返らなくても分かる、彼女の足音。そして、私を心配してくれる優しい声を…
「涼についてあげなよ。夏樹さん」
「ううん、大丈夫。桜ちゃんがいるから」
そう言って、握りしめた私の右手をそっと取った。
「痛かったのは、綾乃ちゃんも同じでしょう?」
優しい彼女の言葉が、胸に突き刺さる。
夏樹さんから電話を受けて'涼が大変らしい'と聞いてから、車を走らせ、彼女とそして以前話に聞いていた高校生を迎えに行った。道端に座り込んでいた彼女を乗せて、事情を聞いてから涼の家に行ったのだ。
部屋の中を見た途端、髪はぼさぼさで、顔に覇気がなく、酷い状態だった涼を見て、私は涼が落ち込んでいるだけだ、と分かった。以前、一度だけ似たような事があったから。
身体中の怒りが爆発しそうなのを堪えて、涼に話を聞いた。涼は、他人の痛みにはあれ程敏感なくせに、ぎりぎりまで自分の感情を表に出さない。そんな事を思い返していると、つい言葉がこぼれた。
「悔しいじゃない…」
「…」
「何も言わなかった涼も、涼に気がつかない自分も…」
「それを言うなら、私も同じでしょう?」
「一人で自分を責めないで」
右手に触れる彼女の手が、握りしめた指をそっとほどく。
彼女の言葉に、暗い中笑って見せた。
「大丈夫だよ。私には傍にいてくれる人がいるから…」
彼女が微笑んでいるのが分かり、隣の身体に頭を預ける。優しい香りに、ささくれだった心が少しずつ穏やかになっていく。
「綾乃ちゃん、上を見て」
驚いたような声に導かれるように、見上げた空は一面の星空だった。
「凄いね…」
私達は身体を寄せ合って、しばらく星空を見上げていた。
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