第15話 白露 (1)

先生の急用でいつもより少しだけ早く帰れた放課後、私は一便早い電車に乗った。


(涼さんに会いに行こう)


窓の外の景色を眺めながら、唐突にそんな考えが浮かんだ。なぜだろう、行かなければならない気がする。

歩いて往復するとかなり遅くなってしまう為、親に遅くなることを連絡してからスマホをしまった。

残暑が残る中を、てくてくと歩いていく。鞄を置いてくれば良かったのだが、駅にはロッカーがなかった。しかもつい最近変えた革靴が硬くて、少しだけ足が痛む。遠い道のりを少しずつ進んでいくと、やがて、長いなだらかな坂道になった。

いよいよここから登り坂だ。頬を流れる汗に構うことなく歩く。涼さんに会えるか分からないし、また否定されるかもしれない。だけど、私と涼さんはいつも約束することないまま、可能性だけを信じて待っていた。あの人を半年待ったことに比べれば大したことではない筈だ。この先を曲がれば、あの人の家だ。


やがて見えてきた懐かしい光景に胸が詰まる。家の傍まで来たとき、ごまの吠え声が聞こえた。いつもと違う声に不思議に思い近づくと、必死で何かを訴えているようだ。


「ごま、どうしたの?」


問いかけても鳴くばかりのごまに困って辺りを見ると、水入れが転がっている。手に取ると、一層鳴き声が激しくなった。


「涼さん、いないのかな…」


水入れを持ったまま敷地に入ると、車庫が傾いていて驚いた。とりあえず、水を汲んでごまにあげると勢い良く飲みだした。車庫の傍に、軽トラが置いてあることから涼さんは家にいるのかもしれない。牛の所かも、と思ってそちらを覗いてみて、私は更に驚いた。


「何、これ…」


小屋は全壊して何もいなかった。何があったのだろうと不安が募る。家に向かい玄関に手をかけると、すんなり開いた。


「こんにちは…」


呼び掛けても家の中はがらんとしている。


「涼さん」


返事は聞こえなかったが微かに物音が聞こえ、再び呼び掛けたものの、やはり声は聞こえない。


「涼さん、上がりますね」


心配でどきどきする胸を押さえて呼び掛けた後、家に上がった。家の中はどんよりとしていて、居間に作業着が乱雑に脱ぎ捨てられ、台所は使った形跡がまるで無かった。


「涼さん!返事をして!」


几帳面なあの人の身に何かあった事は明白で、私は大声で呼び掛ける。あの人がいなくなってしまうかもしれない恐怖が身体を襲う。

一番奥の客間の襖に手をかけたとき、中から掠れた声が聞こえた。


「来ないで!!」


「…涼さん?」


反射的に声をかけたけど、返事の代わりに小さな声で「私の事はほっといて…」と聞こえた後は静かなままだった。


「涼さん、どこか具合が悪いの?」

「…」

「何かあったの?」

「…」


返事のない襖に向かって声を掛け続ける。


「私、あの小屋を見たんだ。牛はどこに行ったの?」

「…いない」

「えっ?」

「帰って!!」


悲痛な声がして、小さくすすり泣く声が聞こえた。


「涼さん…」


私はただ呆然とあの人の声を聞いていた。


何も出来ないまま、涼さんの家を出た。私があの人に出来ることなんて何も思い付かなくて、自分の未熟さが悔しくなる。涙がこぼれそうになるのをごしごし拭うと、必死で今出来ることを考えた。こんな時立木さんなら、私と違って、涼さんに優しく寄り添ってあげれるのだろうと考えてからふと思いつく。


「立木さんを呼びに行こう…」


スマホで時間を確認すると、あと二十分くらいで閉館時間を迎える。それまでに図書館にたどり着けば立木さんに会える。

鞄を車庫に置くと、私は走り出した。早く図書館に行かなければと、ひたすら下り坂を降りていく。息が切れ、足も痛むけれど、なりふり構わず走り続ける。運動は得意な方ではなく、長距離は苦手だ。だけど、私が出来る唯一の事は、立木さんに助けを求める事だけだった。街までもうすぐという所まで来て、石に躓き転倒した。乱れた呼吸が苦しくて、息を整えながらスマホを取り出し時間を確認した。閉館まで数分なのに、図書館はまだ先だ。


「ど、どうしよう…」


今から走っても絶対に無理だ。だけど、諦めたくはない。こんな事なら、立木さんの連絡先を聞いておけば良かった…もう一度走り出そうとして、立ち止まった。


「図書館に電話すれば良いんだ」


急いで、ネットを開き図書館を検索する。閉館時間を迎え、焦る心から、打ち間違いを何度か起こしてしまう。私が図書館に来なければ、立木さんは早く帰宅してしまうかもしれない…

ようやく検索して、電話番号が分かると直ぐに電話を掛けた。


「お願い…繋がって…」


呼び出し音が何度か鳴るも、通話にならない。立木さんはもう帰ったのだろうか…十回以上コールが続き絶望しかけたその時、不意に音が切れた。


「はい、こちら〇〇町立図書館です」


電話の向こうの立木さんの声に、力が抜けて座り込む。


「もしもし?」

「立木さん…」


「…桜ちゃん?」

「立木さん…」

「どうしたの?」


安心して泣きそうな声の私を、心配して呼び掛ける立木さんに、やっとの思いで伝えた。


「お願いします…

涼さんを、助けて…」

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