第11話 大暑 初候 (1)

今年の梅雨は短かい、とテレビの気象予報士が言っていたが、本当にあっという間に梅雨があけた。あっという間というのは、私だけがそう感じていただけかもしれない。気温が上がるにつれ、徐々に忙しくなっていくのは私だけではないらしく、模試や勉強の為、桜ちゃんもあまり電話は掛けてこなかった。その代わり、私達は月に一度か二度お互い都合の良いときに、二人で会うようになった。夕方待ち合わせて、ご飯を食べて、駅まで送るだけだったが、それだけでも桜ちゃんはいつも嬉しそうで、そんな彼女を私は見守っていた。

本当はもっと一緒にいたいし、色々な場所に連れていきたい…だけど、大学受験を目指す彼女の妨げになりたくはなかった。


「やりたい事が出来たんです」


彼女に進路を訊ねとき、一度だけそう告げた桜ちゃんは、初めて会ったときのような不安な顔ではなく、真っ直ぐ未来を見ていて、私にはそれが眩しく映った。


7月に入ると、夏休みはもう目の前だ。夏休みといっても、受験生には関係なく、うちの学校も課外授業として朝から夕方まで授業が入っている。それでも、普段より少しだけ早く下校出来る事は嬉しかった。


「あ~あ、明日から夏休みなのに、また学校か…」

「本当だね」

「桜、折角の夏休みだし、息抜きに一度くらい遊びに行こうよ」

「うん、良いよ」

「やった、それなら、今度の夏祭りはどう?」

「あ、…大丈夫だよ」

「もしかして、予定入っていた?」

「…全然大丈夫」

「本当に?例の'りょうさん'は?」


にやりと笑って私を見る夕貴の視線に、目を合わせることなく俯いて答えると、ますます愉快そうに彼女は笑った。


「約束してないし…忙しそうなんだもん。言えるわけないよ」

「はいはい、そんな寂しい顔をしないの」


頭をぐしゃぐしゃにされて、むっとすると、両頬を摘ままれた。


「私が代わりに行ってあげるから、我慢しなさい」

「別に我慢している訳じゃないよ。夕貴と行くの楽しみだもの」

「本当に?」


頬をむにむにされながら、会話を続ける。涼さんと会うとき、両親に'仲の良い友達と遊びに行く'と言った手前、どうしても夕貴に協力してもらうことが必要で、私は事情を打ち明けた。彼女に伝えたのは、年上で社会人の涼さんの事が好きだという情報だけであったが、身代わりを快く了承してくれた彼女は、時折、こうやって私をからかう。友人に頬を触られても何も思わない私を、涼さんが見たら、どんな風に思うのだろう?


「それなら、決まりね」

「うん、時間は任せるから」

「よっしゃ、夏休みの楽しい予定が一つ決まったね」

「じゃあ、私、図書館に行くから」


話が終わり鞄を持って立ち上がると、夕貴が呼び止めた。


「待って、私も一度行ってみたい」

「どこに?」

「桜の行きつけの図書館」

「へ?」


私より薄い鞄を持って隣に並ぶ彼女は、面白そうに笑った。


「だって、図書館に行く時の桜、いつも楽しそうなんだもの」

「別に、ただ勉強するだけだよ?」

「良いじゃん。今日は時間あるし。

私、家にいても勉強しないんだよね。図書館なら冷房効いているだろうし…それとも、一人が良い?」

「私は、構わないけど…。

だって、夕貴は勉強しなくても余裕じゃない」

「それとこれとは別よ」


そう笑って彼女は、私を催促するかの様に手を引いた。


「行こう、桜」

「うん」


いつも一人で利用する電車も、大通りも自分以外の誰かと一緒にいるだけで、見える風景が全然違う。暑いアスファルトの中を日向を避けるように進み、図書館のドアをくぐると、その涼しさにほっとした。


「こんにちは」

「いらっしゃい、早川さん」


いつも通りに挨拶をして、利用者名簿に名前を書く。私の後ろで興味深そうに、夕貴が中を覗いていた。


「あら、早川さんのお友達?

こんにちは」

「あっ、こんにちは」

「ゆっくりしていってね」


笑いかける立木さんに、しどろもどろで挨拶をした夕貴にペンを渡し、名簿に名前を書くように伝える。いつもの席に座り、鞄を下ろすと、隣に座った夕貴が少しだけ興奮した様に、声を潜めて話しかけてきた。


「ねぇ、桜。受付の人、凄い綺麗な人だね」

「あー、立木さんか。確かに綺麗だよね」

「桜、仲が良いの?」

「仲が良いって言うか、挨拶くらいだよ。

それより、夕貴は今からどうするの?」

「そうだね。とりあえず、今日配られた課題でも済ませようかな」


自分達の課題を取り出して、早速取りかかる。なかなか進まない私に対して、すらすら解いていく隣のシャープペンの音に少しだけ焦りながらも、黙って進めていると、遠くで雷の音が聞こえた。顔を上げて窓の外を見ると、正面に入道雲が真っ黒くそびえていた。

このところ雨が降らず、土日関係なく仕事に行っていると話していた事を思い出し、少しだけ胸がどきどきした。


(お仕事、早く終わるかな…)


雨が降れば、きっと図書館に来てくれる…そんな考えが頭から離れず、集中出来なくなる。


「よし、とりあえず終わり」


夕貴の声に、はっとして我に返ると、彼女は机の上を片付けていた。


「えっ!?もう良いの?」

「うん、とりあえず一区切りしたから、今日はおしまい」

「夕貴、帰る?」

「帰らないよ。桜が終わるまで待っとく」

「私に気を使わなくて良いんだよ」

「別に気を使っていないよ。だって、もうすぐ閉館でしょう?」


そう言って、夕貴は受付の所にあるプレートを指差した。


「私、寝るから。終わったら起こしてね」

「…分かった」


机にタオルを乗せて枕にすると、頭をくっつけて嬉しそうにうつ伏せになる彼女に苦笑しながら了承する。窓の外は雷が聞こえるけれども、いつの間にか雨雲は遠ざかっており、今日も雨は降らなさそうだ。

隣でいつしか静かに寝息が聞こえてくる事に、おかしさを噛み締めてシャープペンを動かしていると、夕貴が少しだけ身震いした。


(冷房、寒いかな?)


バックから大きめのタオルを取り出すと、彼女の肩にそっとかけてあげる。


「早川さん、これ使って?」


小さく声が聞こえて振り返ると、立木さんがおかしそうに笑っていて、彼女の手には膝掛け用の毛布があった。毛布を受け取り夕貴に掛けてあげると、立木さんと二人で思わず微笑んだ。


「あの、…すいません。ありがとうございます」

「ううん、折角気持ち良さそうに眠っているのだもの。風邪をひいたら大変よ」

「ふふふ」


その後、何となく穏やかな雰囲気の中で静かに過ごし、閉館時間になった。立木さんの手伝いをしてから、礼を言って膝掛けを返すと、自分のタオルを鞄に押し込み、未だに熟睡して起きそうにない夕貴を揺り起こした。


「夕貴、帰るよ」

「…ん?」

「ほら、起きて。終わったけど、大丈夫?」

「眠い…」


寝ぼける彼女が心配で、鞄を二人分片手に持つと、ふらふらする夕貴を抱き抱えるように支えた。ドアを開けてくれた立木さんに礼を言って靴を履き、夕貴が履いたことを確認すると、「桜、抱っこ…」と目をとろんとさせたままで甘える夕貴に「はいはい」と肩を貸した。外のむっとする空気に思わず息を吐くと、離れた場所で名前を呼ばれた気がして夕貴を抱いたまま振り向いた。


「!?」


そこには涼さんが立っていて、思わず鞄を落としそうになる。疚しい気持ちはないのに抱きつかれたまま動揺する私に、普段通りの様子であの人は笑いかけた。


「今日はここに来れたんだ」

「あの、今日は終業式だったので…」

「そっか、明日から夏休みか」


何気ない口調で話す涼さんに対して、私は身体がすくんだ様に動けない。あの人は、友人に抱きつかれた私を見て、何も思わないのだろうか、私は彼女にとってそれだけの存在でしかないのだろうか…


「…桜?」


動かないでいる私の様子に気付いたらしい夕貴が、顔を上げる。抱きついたまま私の視線の先に誰かいることに気付くと、ようやく身体を離した。


「こんにちは。桜ちゃんの友達?」

「あっ、はい。そうです」


どきん、と心臓が跳ねた。夕貴には涼さんが同性だとは伝えていない。だけど、彼女が目の前の人物を、私の想い人だと気付いて驚く様子は簡単に想像ができた。私が夕貴に嫌われるのは構わない。だけど、どうしてだろう、私には、涼さんが私の事に責任を感じて、自分以上に傷つくような気がしていた。


「涼さん!ごめんなさい。

この子送っていかなきゃならないから、もう行きますね」


話を一方的に終わらせると、にこりと笑って見せた。そんな私に少し戸惑うように「ああ、ごめんね」と笑うあの人に、手を振ると夕貴の手を取り、駅の方に歩き出した。


「ちょ、ちょっと!桜!?」

「後で話す。今は何も言わないで」


強引な私に色々と驚く夕貴を小声で制すと、その場を去った。駅まで歩き電車に乗り込んだ途端、手を離して大きく息を吐く。


「桜、もしかしてあの人が…」

「うん、ごめん。

夕貴、驚いたでしょう?」

「…驚いた」


私を見てぽつりと呟く友人を、苦笑しながら見返した。


「私の事、嫌いになっても構わないよ?

無理して友達でいなくても良いから」

「は?何でそうなる訳?

私は、桜の好きな人が女性で、しかもあんなに綺麗な人だった事に驚いた訳で、同性を好きになったからって、桜を嫌いになるはずなんてないじゃない」


「…本当に、嫌いにならないの?」


彼女の言葉に驚く私を、優しい表情で夕貴は笑った。


「当たり前でしょう?

桜は桜だから。私は桜が好きだよ」

「ありがとう…」


夕貴に嫌われても仕方がないと思っていたけど、やっぱり心のどこかで彼女を失いたくない私がいて、彼女の言葉に感情が一気に溢れ出した。泣きそうな私を「よしよし」と撫でてくれる彼女に甘えて、少しだけ泣いた。

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