第12話 大暑 初候 (2)
寄り添う様に立ち去る二人を見て、複雑な感情が身体を巡るのを感じる。動揺、羨望、そして嫉妬…同性の友人同士なら抱きついたりする事もあるだろうし、私も経験はある。だけど、友人といる桜ちゃんは、私の知らない彼女だった。よく考えれば当たり前の事なのに、私と彼女の住んでいる世界は違うということをまざまざと見せつけられた気がして、彼女が急に遠い存在になる。
私が彼女と関わる事が、彼女にとって良いことなのか分からない…
混乱する頭を抱えたまま、自分に言い聞かせるようにぽつりと呟く。
「桜ちゃんが学校で楽しく過ごせるなら、それで良いか…」
彼女には支えてくれる友人がいる。そして、私にも綾乃や夏樹さんがいてくれる。それ以上何を望むのだろう…
ちくりと刺す胸の痛みに気づかない振りをして、無理矢理自分を納得させ、その場から離れた。
帰宅してテレビをつけると、天気予報が映っていた。予報では大型の台風が発生したらしい。ぼんやり眺めているとやがて、バラエティー番組が始まったのでテレビを消し、外に出てみた。
玄関の明かりを点けなければ外は真っ暗で、空には一面の星空が見えた。息をのむほど綺麗な星の数に、心が洗われるようだ。夜空を見ていると、足下にするりと猫が寄ってくる。普段殆ど構ってあげれないのに、私の足下から離れない猫を抱き上げて撫でてやると、ごろごろと喉を鳴らした。一人と一匹で見る夜景に苦笑しながらも何となく嬉しくて、私はしばらくその場に佇んでいた。
数日後、いつもの様に日暮れ前に仕事から戻ると、玄関に見慣れぬ紙袋が掛けてあった。中を覗くと封筒と紙箱が入っている。不思議に思い封筒を開くと、便箋が一枚入っていた。
'一年前の今日、貴女が助けてくれたから、私は今日ここにいます。本当にありがとうございました。 桜'
紙箱には手作りらしいクッキーの詰め合わせが入っていて、慌てて玄関の中に紙袋をしまうと、車を発進させた。桜ちゃんがいつ紙袋を置いていったか分からなかったが、電車を利用する彼女が歩いてここまで来たのなら、まだ近くにいるかもしれない。急く心を抑えて、国道に出ると桜ちゃんを探した。もう少しで街に近づくという所で、制服姿の彼女を見つける。
「桜ちゃん!」
振り向いた彼女は少し照れくさそうにしていたが、笑顔で手を振った。車を路肩に止めて、彼女に歩み寄る。
「こんにちは、涼さん」
「…あの、手紙とお菓子ありがとう。
歩いて家まで来るのは大変だったでしょう?」
「涼さんの家って結構遠かったんですね。私あの時、本当に何も感じていなかったから、驚きました」
「電話してくれれば、迎えに来たのに」
「ううん、私が自分で行きたかったんです」
彼女は笑ってそう言ったが、額からは汗が滲み、頬は赤くなっていた。夏の夕暮れとはいえ、長距離を歩くのは大変だったに違いない。そんな彼女に、心とは裏腹の言葉がこぼれた。
「ねぇ、桜ちゃん。
私、貴女が思っているような立派な人間じゃないよ?」
「…涼さん?」
「何もかも中途半端だし、桜ちゃんの事だって自分の都合でしか付き合っていない。桜ちゃんは可愛いし、性格だって良いじゃない。仲の良い友人だっている。
だから私より、自分の事を大切にしなよ。私の事はもう忘れてくれても構わないんだよ」
「…」
驚いた様に見つめる彼女に、精一杯無理矢理笑いかける。
私ははっきり自覚したのだ。彼女に友情以上の感情を抱いている事に。
だけど、もうすぐ離れてしまう桜ちゃんに忘れられて傷つく事を恐れている。酷く傷つくくらいなら、傷は浅い方が良い…
「…私が、子供だからですか?」
震える声で桜ちゃんは呟いた。真っ直ぐ私を見る瞳から涙がこぼれている。
「私が子供だから、涼さんはいつも私から距離を取ろうとするんですか!?」
「違うよ!私は…」
返そうとする言葉は喉まで出かかったが、私が彼女に何を言えるのだろう。結局、そのまま何も言えない私に桜ちゃんは、小さく笑い、「良かったら、クッキー食べて下さい」とだけ言うと、ぺこりと頭を下げて歩き出した。
「桜ちゃん!!」
私の呼びかけに前を向いたまま足を止める彼女に、すがるように頼んだ。
「お願い!
…せめて、駅まで送らせて」
「…」
言葉はなかったが、少しだけこくりと頷いたのを見て、ほっとする。駅まで向かう車内はずっと無言で、彼女は窓の方を見つめた ままだった。いつもの駐車場に着くと、「ありがとうございました」と言って桜ちゃんは車を降りた。誤解を解くなら、まだ間に合う…そう分かっているのに声が出せなくて、私は桜ちゃんが立ち去るのをずっと見守っていた。
どのくらいそこにいたのだろう、桜ちゃんの去った方向を見ていると、聞き覚えある声で「涼さん」と呼び掛けられた。
駐車場の傍に夏樹さんがいて、私を見ていた。そういえば、夏樹さんも通勤に電車を利用しているのだった。
「どうしたの?」
「…何でもないよ」
無理矢理笑って誤魔化したのに、夏樹さんは私を心配そうに見ている。早くここから逃げ出したいのに、彼女を見つめることしか出来ない。
「涼さん、一緒にコーヒー飲まない?」
にこりと笑いかけると歩み寄り、そっと私の手を取った。すぐ隣にいてくれる彼女から、柔らかな香りがする。彼女の優しさに甘えて、車を離れた。
夏樹さんが自販機でコーヒーを二人分買うと、駅から少し離れたベンチに腰を下ろした。
「はい、どうぞ」
「うん…ありがと」
「ごめん、夏樹さん。こんな時間まで…」
「ううん、大丈夫よ。私、予定ないし」
彼女の家で待っている綾乃の事を謝罪したのに、わざと気づかない振りをしてくれる彼女に感謝して、少しだけ笑った。
「…夏樹さんは、自分が嫌で、何もかも投げ出したくなった時がある?」
「勿論、あるよ」
隣に座る彼女は優しく笑って答えた。
「だけどね、ある人に言われたの。
私が悩んで苦しんでいる時、同じくらい貴女の為に悩んで苦しんでいる人がいたのよって。
それを聞いた時に思ったの。
きっと自分が気づかないだけで、誰かが私をいつも支えてくれている。
だから、自分を否定するのは、私を想ってくれる誰かを否定する事と同じだって…」
「…私、桜ちゃんを傷付けたくなかったのに…」
彼女の言葉が胸に突き刺さる。結局私は桜ちゃんを傷つけて、彼女の想いを否定したのだ。だけど、これは私が望んだ事の筈だ、そう言い聞かせてぐっと溢れそうな涙を堪える。夏樹さんにまで心配かけるわけにはいかない。そんな私の手を取ると、彼女は優しく握ってくれた。
「忘れないで、涼さん。
貴女がそんな顔をする理由は聞かないけど、私と綾乃ちゃんは貴女を一人にはしないから。
だから、辛い時や悲しい時は甘えて良いんだよ」
「夏樹さん…ありがと」
「うん」
少しだけ潤んだ瞳をごしごし擦り、立ち上がる。私は彼女に何度助けられただろう。綾乃が彼女に惹かれたのも納得できる。
「夏樹さんは凄いよね。本当に尊敬するよ」
「あら、私は涼さんの事を尊敬しているわよ」
「へ?どこを?」
ぽかんとした私の言葉に、夏樹さんは笑った。
「自分の好きな事を仕事にしているところ。どんなに大変でも一生懸命なところ。それに…」
「いや、もう言わなくて良いから!
だって…それは夏樹さんも同じでしょう?」
「私は涼さんに出会って、貴女みたいな生き方に憧れて司書を始めたの。だから、私の憧れは貴女よ」
「…」
自分の顔が赤くなるのを自覚したが、今度こそ本当に彼女に向かって笑いかけた。
「私、貴女が友人で本当に良かった」
そんな私に、彼女も嬉しそうに返してくれた。
「私もよ、涼さん」
帰宅して玄関に入ると、クッキーの箱が目についた。箱の中は様々な種類のクッキーが入っていて彼女が一生懸命作る姿が思い浮かんだ。緩みそうになる涙腺を堪えて居間に運ぶと、コーヒーを淹れて一枚かじる。さくさくの食感と優しい甘さが口に広がった。
「美味しい…」
毎回私に付き合ってデザートを食べてくれた桜ちゃんを思いだし、少しだけ涙の味がするクッキーを大切に食べた。
【改ページ】
次の日から、私はがむしゃらに働いた。夏は仕事がたくさんあったし、一頭残った母牛が分娩も近かったから、朝早くから、暗くなるまで身体を動かして桜ちゃんを忘れようと努力した。私の心の中の彼女の存在は大きくて、ぽっかりと穴が開くという表現がぴったりだと納得した。そうして、虚しさを抱えながらその日を送る日々が続いた。
ある日の夕方、いつもの様に小屋に行くと母牛がそわそわしていた。予定日より少し早いが陣痛が来ているかもしれないと思い、世話を終えてから、分娩の用意をした。ロープ、水の入ったバケツ、タオル、滑車を準備しながら、牛をさりげなく観察する。
餌を食べる様子にまだ時間がかかると考えて、一度家に帰って自分の食事を済ませた。ライトを手に持って再び小屋に行くと、牛が横たわっている。そっと光を当てると仔牛の足と口が見え、逆子でないことに一安心した。時間を確認してからしばらく見守る。ライトをつけたまま小屋の隅に座ると、虫の声と牛の呼吸だけが聞こえた。時折苦しそうにいきむ声に仔牛の様子を確認するが、なかなか頭が出てこない。滑車をセットしてから、ロープを持ち、牛を刺激しないようにそっと後ろに回ると、仔牛の足にロープを掛ける。いきむ声にあわせて少しだけロープを引いてみると、仔牛はそれほど大きくないようで頭の半分くらいは自力で出てきた。
「これなら滑車は要らないかも…」
母牛の裾が切れて傷付かない様に、仔牛の頭が出てくるタイミングで広げていき、力を込めて引っ張る。一度だけでは出てこれなくて、もう一度両足を踏ん張ってロープを握りしめる。
「お願いだから、今は立たないでね…」
母牛が大きくいきみお腹に力を込めて、仔牛を出そうとする瞬間にぐっと引っ張る。頭がぬるり、と出てきたのを見て急いでロープを引き寄せ身体を出した。顔と身体に張り付いた羊膜を剥がして仔牛の顔にバケツの水をかけ、ざっと鼻の周りを拭ってやる。驚いた様にぷるぷると震えながら頭を上げるのを確認すると、母牛に声を掛けて立たせ、自分は仔牛の傍から離れる。
母牛がくんくんと匂いを嗅いでから、仔牛を舐め始めるのを見てようやくほっとして、座り込んだ。汗と緊張と羊水で身体中がどろどろになり、手足も震えてがくがくしていたけど、無事に産まれてほっとした。
ふらふらしながら家に戻り、玄関で何もかも脱ぎ捨ててから風呂場に直行する。汚れを落として一息ついてから、もう一度親子の様子を見に行った。仔牛は既に綺麗に舐められてよろよろしながら母牛のお乳を飲もうとしていた。不安定な足取りでようやく母牛の元にたどり着くと、ちゅっ、ちゅっと初乳を飲む音が聞こえて、安心する。気がつけば、深夜近くになっていた。
「後でもう一度見に行けば良いか」
真っ暗で涼しい草の中を踏みしめて帰ると、再び玄関で服を脱ぎ捨てて布団に飛び込み、あっという間に眠りについた。
翌日、母子共に元気に過ごしているのを見て、新しい命が産まれた事に安堵した。跳ね回る仔牛を見て、桜ちゃんがいたらきっと喜んだだろうと、つい思ってしまう。
牛のお産は基本的に自然分娩で、仔牛が大きかったり、異常がみられるときは管理者が手を出す。獣医師を呼ぶのは最終手段だ。牧場で何度も経験したからこそ落ち着いて臨めたが、命を扱う事は毎回真剣勝負だ。全てのお産が無事にいくわけでもなく、助からなかった事も何度となくあった。だけど、やっぱり私はこの仕事が好きだった。
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