第10話 芒種

梅雨に入り毎日雨が降りだす頃、就寝前に久し振りに桜ちゃんにメッセージを送った。


'こんばんは。久しぶりです。

仕事が詰まっているので、しばらく図書館に行けそうにありません。

ごめんなさい'


送信すると、あっという間に彼女に届く。言い訳じみた連絡が何だか恥ずかしく、すぐにアプリを閉じた。夏樹さんから、桜ちゃんが週末のみ図書館に通っていると聞いて、会えない事へのお詫びのつもりで送ったのだが、これではまるで、私が彼女と約束しているかのようだ。

窓の外に視線を移して、春休み以降会えない彼女に思いを馳せる。梅雨時期にも農作業はあるわけで、丁度農繁期に入る作物の手伝いを引き受けて毎日通っている。雇用主の家族は親切だし、綾乃や夏樹さんとも食事に出掛けたりして、楽しく過ごしている筈なのに、ふと、思い出すのは桜ちゃんだった。


彼女と過ごす時間は、他の誰とも違う様な気がした。友人という関係の綾乃達に対して、私の隣にいてくれる彼女に、いつしか友情とも愛情とも分からない複雑な感情を覚える。きっと、彼女が見せる真っ直ぐな好意が、知らず知らずのうちに心地好いのだろう。


(私、寂しいのかな…)


そんな考えが頭をよぎった。だからといって、桜ちゃんに迷惑をかけるわけにはいかない。彼女は高校生だし、しかも、受験生だ。どこの大学を志望しているか聞いたことはないが、この辺りに大学はないから、来年になれば、きっと出ていくのだろう。そうすれば、すぐに私との事など忘れてしまうに違いない。

私はまた一人になるのか…


'涼。私、約束するから'


昔そう言われた事を思い出して、ほろ苦い気持ちになった。


「…結局、守れなかったじゃない」


これ以上思い出したくなくて、冷蔵庫からアルコールを取り出すと、プルタブを開けて流し込んだ。



「はぁ」


何度目かのため息をこぼすと、手元の紙を見つめた。どれだけ見ても結果は変わらないし、記された事も暗記出来るほどなのにやっぱり見てしまう。

先日受けた模試の結果はあまり良くなかった。あまりというか、全くと言って良いほどの無惨な結果に流石に落ち込んだ。自分でも学力不足は痛感しているけど、数値となって返ってくると、見たくない現実を突きつけられたような気分になる。ベッドに寝転がったままスマホを開いて、先日突然来た涼さんからのメッセージを開く。


「…会いたい」


出来ることなら毎日会いたいし、せめて声だけでも聞きたい。だけど、私とあの人では何もかも違いすぎる。ふと以前、涼さんに言われた言葉をふと思い出した。


'高校生でも子供だよ。まだたくさん甘えなさい'


(本当に甘えて良いのかな…)


時計を見ると、夜の九時前を指していた。流石にこの時間ならまだ眠っていないだろうと思い、電話のボタンをタップしようか考えた。あの人は戸惑うだろうか、それとも、もう眠ってしまっただろうか、電話に出てくれるだろうか…通話ボタンを押せずに悩んでいると、指先が触れたらしく、電話に繋がった。


「えっ!?あっ!!」


慌てた弾みでスマホを落とし、起き上がって画面を見ると丁度接続されて、通話中になった。


「もしもし?」

「あっ…」


久し振りに聞く涼さんの声は懐かしく、私の心拍数は一気に上がった。頭の中は真っ白で何も思い浮かばない。


「…桜ちゃん?」

「は、はいっ」


心配そうな声で呼ばれて、反射的に返事をした。


「久し振りだね」

「あの、ごめんなさい!」

「?どうして謝るの?」

「私、間違って電話ボタン押しちゃって…」

「ああ、そういう事」


向こう側でくすくす笑う声が聞こえて、顔が赤くなった。


「すみません…」

「全然構わないよ。久し振りに話せて嬉しかったから」

「…」

「勉強大変じゃない?」

「あのっ、涼さん!」

「うん?」


顔を見なくても穏やかな口調で、私の言葉を待ってくれるあの人が思い浮かぶから、思い切って口を開いた。


「会いたいです」

「!?」


息をのむ声が聞こえたけど、一度言葉にすると止められなかった。


「涼さんが忙しいって知っているし、私の我が儘だって分かっています。だけど、少しだけで良いから会いたい…」


自分の気持ちを抑えられなくて、最後は泣き声になった私に、涼さんは即答した。


「良いよ。桜ちゃんの都合が良い時に迎えに行くよ」

「…本当に?」

「うん、私も会いたい」


その言葉に涙がますますあふれてきて、声にならない私を、受話器の向こうから心配する声が聞こえる。

結局、後で連絡するという事で一度通話を切ると、ベッドに顔を押し付けて、喜びを噛み締めた。


【改ページ】

外は生憎の雨模様で、今日はバイクで迎えには来れなかった。彼女が伝えた場所はいつもの駅だったが、時間は相談して私が決めた。学校に差し障りのない土曜日の夕暮れ、私服姿の桜ちゃんは、私を見ると嬉しいような、不安を滲ませたような表情を見せた。そんな顔を見せる彼女が心配で、思わず駆け寄りたくなる。


「桜ちゃん?」

「涼さん…」

「どうしたの?」

「ごめんなさい…お仕事、忙しいのに…」

「…車で、話そうか?」


泣きそうな表情の彼女の手を取ると、桜ちゃんに笑いかけて、車に乗せた。二人きりの空間になってから、彼女に頭を優しく撫でる。


「電話でも話したでしょう?

私も会いたかった、って」

「だけど…」


自分の我が儘に罪悪感を感じている桜ちゃんは、謝罪しようとする。そんな彼女が可愛くて、思わずそっと抱きしめた。素直に身体を寄せる彼女は私の胸に顔を埋めて目を閉じていた。


「泣かないで。私は楽しみにしていたんだよ?

桜ちゃんに会えるのを」

「本当、に?」

「本当だよ」


「…私、早く、大人になりたい」


腕の中で嗚咽をあげながら、唐突に告げられた言葉に、「どうして?」と聞き返す。


「会えないって思ったら、もう、どうしようもなくて…私の我が儘で涼さんに迷惑かけたくないから我慢していたのに…結局、駄目だった。大人になれば…きっと我慢できると思うから…」


静かに涙ぐむ彼女に、私は声をかけてあげれなかった。代わりに、ぎゅっと彼女を抱き寄せる。


「…ごめん」


腕の中の彼女に頭を寄せて呟く。私は今まで何をしていたのだろう。彼女が好意を寄せているのを知っている事に甘えて、自分の都合で振り回していたのではないだろうか?友人でも恋人でもない中途半端な関係を望んだのは私であって、彼女は望んでいなかったのかもしれない。だけど、私は、いつか去っていく彼女を受け止める勇気がどうしても出ない。

自己嫌悪で胸が苦しい。誰か私を、詰って、責めて欲しい。


「…涼さん」


腕の中で桜ちゃんが私を見上げた。涙に濡れた瞳が、真っ直ぐに私を見つめる。


「会ってくれて嬉しいんです。だから、謝らないで下さい」


にこりと笑った彼女に目が離せなくて、身体が痺れたように動かせなくなった。どうして、彼女はこんな私を、いつも喜んでくれるのだろう。私は私が嫌いなのに…

そんな事を思っていると、桜ちゃんが、驚いた様に私を見る。


「…どうして、泣いてるの?」

「えっ?」


言われた事の意味が分からずに、訊ね返した私におずおずと手を伸ばし、彼女は指で頬をそっと拭う。その時初めて私は自分が泣いている事を知った。


「泣かないで…私、涼さんの事、嫌いになんてならないよ」


まるで、私の心を見透かしたような言葉と何度も涙を拭ってくれる桜ちゃんの優しさに我慢できずに、今度は私が抱きしめた。



少し落ち着いてから、私達はファミレスに行って二人で食事をした。食後のデザートを頼んで仲良く食べながら、色々な話をした。私の牛を売った事、桜ちゃんの模試の結果が悪かった事…お互いの話を聞いているうちに時間はあっという間に過ぎていく。午後9時半を過ぎた頃、私は彼女に声をかけた。


「桜ちゃん。送って行くから、もう帰った方が良いよ」

「えっ、…でも」


未練がありそうな表情に、苦笑した。私だって出来ることなら一緒にいたい。だけど彼女は高校生だ。そんな思いを表情に出すことなく、ふわふわの頭に手をおいて、笑いかける。


「親御さんだってあまりに遅いと心配するよ。

…それに、また会えば良いでしょう?」


「…はい」


少しだけ明るい表情になった彼女は、私を見上げた。


二人分の会計を済ませると、恐縮する彼女を車に乗せて、駅に向かう。雨は止み、明日は久しぶりに梅雨の中休みとなりそうだ。車を停めて、桜ちゃんと並び駅のホームに入る。相変わらず誰もいないホームは雨の匂いが強く残っていた。


「涼さん…」

「うん?」

「…また、電話しても、良いですか?」

「勿論、夜ならいつでも良いよ」


彼女の表情が恥ずかしがりながらも、嬉しそうに変わるのを見て、ふと、いたずら心が生まれた。


「桜ちゃん」

「何ですか?」


「さよならのキスはしなくて良いの?」

「ふぇっ!?」


みるみるうちに赤くなる彼女に笑いを堪えながら、手を柔らかな頬に伸ばした。指先が触れただけで、びくっと震えた彼女は、それでも赤い顔のままじっと私を見つめていた。


(あれ?

もしかして…待ってる?)


そう思った途端、心拍数が一気に上がった。冗談のつもりで触れた指さえ動かせなくて、見つめあう。キスもその先も初めてじゃないのに、柔らかそうな彼女の唇を意識した途端、触れることが怖くなった。

頭上で踏み切りの警告音が響き、弾かれたように身体を離す。どきどきする胸を抑えて桜ちゃんを見ると、彼女もまた赤い顔で私を見ていた。


「…電車、来たね」

「はい…」


電車の光が彼女の横顔を照らしていくのを、見つめていると、停車した車両のドアが開いた。触れていた手を離して、電車に乗り込む彼女を見送る。私が手を振ると、笑って小さく返してくれた。動き出す電車をずっと見送る私の胸は、ずっとどきどきしたままだった。

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