第9話 清明
新学期が始まると、平日も放課後に補習が入るようになり、図書館に行くことは週末のみになった。告白の一件以降、しばらく行くことを控えていたのだが、やっぱり落ち着かなくて、久しぶりにドアを開けた。
「いらっしゃい。早川さん」
「こんにちは」
何も変わらない笑顔で、私を迎えてくれた立木さんにぺこりと挨拶して、利用者名簿に名前を書く。いつもの机に向かうと少しほっとして、ノートを広げた。閉館時間になり、片付けを始める立木さんをいつものように手伝うと「ありがとう」と微笑まれた。
「ねぇ、早川さん」
「はい…」
どきりとして、ぎこちない返事を返す私に、少し困ったように立木さんは微笑んだ。
「私、誰にも言うつもりはないから、心配しないでね」
「…」
その一言が何を指すか分かり、どう答えれば良いのか分からずに口ごもる。そんな私に、明るい口調で立木さんは続けた。
「貴女の想いは、きっと無駄にはならないと思うから…」
「…ありがとうございます」
優しい励ましに、胸が詰まり、お礼を伝えるだけで精一杯な私に、にこりと笑った彼女は、どこか嬉しそうだった。
こうして週末のみだが再び図書館通いをするようになった私は、天気をこまめにチェックするようになった。雨が降ると、涼さんは大体仕事が休みになり、図書館を訪れる。だから、私はいつの間にか雨が好きになっていた。だけど、望んでいても、なかなか雨は降らず、降っても平日だったりして、やきもきする日々が続いた。
そんな中で、三年生最初の進路相談が行われた。前もって提出しておいた用紙を前に、先生は私に告げた。
「早川さんは、二年生の時の進路と大きく目標を変えたようだけど、何か心が大きく影響されるような事があったのかい?」
「はい。私、自分がやりたいと思える事が見つかったんです」
「そうか…」
普段、言葉少ない私が真っ直ぐ見返して話す様子に、先生は少し驚いたような表情を浮かべたが、何も言わなかった。
「それなら、後は目標に向かって頑張るだけだな」
「はい」
進路指導室から出た後、何となく窓の外を見る。時刻は夕方なのに、初夏の緑はみずみずしく、校庭の桜は涼さんとあの時見た木とは全く違う様子を見せている。
この空の下で、あの人は今日も仕事に汗を流しているのだろう。
「涼さん」
小さく呟くと、それだけで心が温かくなった。
目標を決めたきっかけは不純だけど、それでも初めて自分の将来に興味が湧いた事には違いないから…
例え、あの人とこの先関わる事がなくなったとしても、学びたい事がある。
「桜、早かったね」
声をかけられて振り向くと、三年生になってから仲良くなった友人がいた。
「夕貴、待っててくれたんだ」
「当たり前でしょう」
クラス替えで以前の同級生とばらばらになり、気持ちを一新して望んだ新学年の最初、一人でいた彼女に初めて自分から声をかけたことがきっかけで、私達は友人になった。まだまだぎこちない関係だけど、彼女となら仲良くなれそうな気がする。
「ありがとう」
「どういたしまして」
笑いあって、鞄を持つと玄関に向かう。
「どうだった?」
「目標が決まったなら、後は頑張るだけだって言われた」
「げ?桜、もう志望校決まっているの?」
「うん、一応」
「マジか…焦るわ。因みに、聞いて良い?」
「私、農大に行きたいんだ」
「は?
農大、って…農業の大学?」
顔に疑問が浮かぶ友人に、笑いかけた。
「うん、私、牛の勉強をしてみたいんだ」
「お疲れ様ー」
対面の二人とグラスをあわせて乾杯すると、カクテル風味の炭酸飲料を一口飲む。本当はアルコールが飲みたいのだが、バイクで来ている以上無理だと分かっている。せめて風味だけでも、と思って頼んだのだが、やっぱりジュースだった。気を取り直して食事を楽しむ事にする。
「それじゃあ、涼の家にいる牛は一頭しかいないの?」
「うん」
「自分で新しく牛を買うの?」
「買いたいんだけどね。お金がなくて、まだまだ無理そう」
「そうなんだ」
私と綾乃の会話をずっと聞いていた夏樹さんが、不意に口を開いた。
「ねぇ、涼さん」
「ん?」
「自分で育てた牛を売るんでしょう?
悲しくないの?」
「悲しくないよ」
即答する私を不思議そうに見る夏樹さんに、グラスを置いて微笑んだ。
「牛はね、経済動物なんだ。母牛やお肉になることがあの子達の仕事なんだよ。私の仕事は、その為に丈夫で良い子牛を育てる事。だからその子牛が大きくなって、母牛やお肉になってくれるのなら、むしろ嬉しいよ。悲しいのは、病気や怪我で大きくなるまでに育てられずに、死なせてしまうことかな」
「…難しいんだね」
感心する夏樹さんに、はっと我にかえる。また喋りすぎてしまった。
「…まあ、一応、私はそう思ってるけど、他の人はまた別の考えがあるのかもしれないよ」
つい熱く語ってしまった事が恥ずかしくて、ぼそぼそと補足すると、綾乃がにやにやしているのが見えて、無性に腹が立った。
「…何?」
「何でもないよ」
「…」
「久し振りに聞いた気がしたね~。涼の話」
「あんたには言わなくても分かるじゃん」
「だから久し振りって言ったの」
「それはそうでしょう。だって…!」
途中で口を閉ざしたため居心地悪い雰囲気になり、しまったと思いつつ私はグラスを再び取った。こんな時、アルコールがあれば良いのにと、つくづく思う。そんな私の言葉に、綾乃が優しく返した。
「私の友達に教えた時以来だから…6、7年位前かな」
「そうなんだ…」
夏樹さんがそれだけ言うと、微笑んで綾乃を見た。綾乃はそんな彼女を見て笑い返すと、穏やかな表情で続けた。
「あの頃は、涼も初々しい女子高生だったんだよ。…こう見えて」
「ぶっ!!」
思ってもみなかった綾乃の言葉に、口に含んだジュースを吐き出しそうになり、慌てて押さえた。気管に入り、げほげほと咳き込む。
「何やってんの?涼。
そんなに噎せて?」
「大丈夫?涼さん」
一言冷たく言っただけで放っておく綾乃に対し、ハンカチを出して、慌てて背中を擦ってくれる夏樹さんに「ありがと」と言うと、何故か綾乃が「夏樹さんに介抱されるなんて、何て羨ましい…!」と意味不明な呟きをしていた。
「元はと言えば、あんたが変な事を言うからでしょう!!」
「良いな~、涼。
ねぇ、夏樹さん、私が今度同じ事になったら、優しく背中を擦って、'大丈夫?'って聞いてくれる?」
「?うん、勿論よ?」
「やった!!それじゃあ、出来れば晴次さんが一緒にいるときにしてね?」
「晴次さんがいるときに?
…別に、いつでも良いけど」
「ねぇ、お願い!!」
「こら、綾乃!!人の話を聞け!!」
「ごめん、涼。今、大事な話をしているから後で」
「え?これって大事な話なの?」
わいわいと再び賑やかになる事にほっとしながら、気分を変えるため料理に手をつける。前に座る綾乃も、普段通りの表情を浮かべていた。
笑顔を見せる旧友を眺めながら話題を変えようと、先程の会話にあった知らない名前が気になって訊ねた。
「さっき言っていた'せいじさん'って誰?」
「涼は一度会っているでしょう?長谷さん」
「あぁ、夏樹さんの友人のあのイケメンか」
「涼、紹介しようか?料理上手だし、性格も良いよ」
以前一度だけ会った長谷さんを思い出すが、確かに人当たりの良さそうな人だった。恋人…と考えて、不意に、桜ちゃんに告白された事を思い出した。
「…遠慮しとく」
「どうして?」
「何となく」
「もしかして、涼に恋人が出来たから?」
「はぁっ!?」
自分でも驚くくらいの声が出て、その事に動揺すると、綾乃はにやにや笑いながら嬉しそうに続けた。
「おや、涼、動揺してたみたいだけど…
この間の高校生と何かあったのかな?」
「…」
綾乃を無言で睨み付けて心を落ち着かせると、隣で夏樹さんがはらはらしているのが見えて確信する。これは綾乃の罠だ、と。夏樹さんは、綾乃に何も話してはいない。それだけの事を一瞬で考えてから、反撃をする。
「あの子とは、今も変わらず友人だよ」
それから、夏樹さんに向かってさりげなく問いかけた。
「話は変わるけどさ、夏樹さん、カレーを作るときに隠し味って入れる?」
「えっと…私は、あまり加えない方かな…?」
きょとんとしながらも、夏樹さんは質問に答えた。
「私も、あまり入れないんだけどね。昔、高校の調理実習で、調理は面倒くさいって言って、全然参加しなかったくせに、仕上げの段階になってから'隠し味を入れてコクを出そう'って主張した子がいてね、その子何を入れたと思う…」
横目で綾乃が、さあっと顔色を変えたのが分かった。
「ちょっと!?涼!!
ごめんなさい!!からかいすぎました!!」
形勢逆転となり余裕の私に対して、たじたじの綾乃。このまま続けようか考えたが、彼女が私の口を手で覆ってしまったので、取り敢えず許してあげた。
「全く、油断も隙もない…」
「それはお互い様でしょう」
ぼやく綾乃に返す私を、夏樹さんがおかしそうに見ていた。
食事を終えて帰る涼さんのバイクを見送りながら「格好いいね」と呟いた声を、綾乃ちゃんが聞いていたらしく、ふふ、と笑われた。
「涼に頼めば乗せてくれるよ」
「綾乃ちゃんは乗ったことがあるんでしょう?
どんな感じなの?」
「私、乗った事ないんだ」
「え!?そうなの?」
驚く私に、バイクの消えた方向を見ながら、彼女は続ける。
「ありがとう。夏樹さん」
「うん?」
「涼と私が変な空気になりそうだった時、止めてくれて」
綾乃ちゃんの友人の話をした時、涼さんは一瞬辛そうな表情を浮かべた。対面に座った綾乃ちゃんもその表情を見たとき、少しだけ、身体が強ばったのを感じて、思わずテーブルの下で、綾乃ちゃんの手を繋いだ。驚かさないように、指を絡めて微笑むと、彼女の身体から力が抜けるのを感じたのだ。
「ううん、あれで良かったかな?」
「ばっちり。流石夏樹さんだね」
おどけた口調とは裏腹に、彼女の瞳はいつしか優しく私を見ていた。
「私と涼にはね、もう一人仲の良い友人がいたんだ」
「…」
「三人で、良く色々な事をしたよ。あの頃は凄く楽しかった。
だけど、その友人、麗は高校生の時に交通事故で亡くなったんだ」
「!?」
思いがけない話に息をのむ私の表情に、苦笑しながら彼女は続けた。
「そんな顔しないで。もう、私は彼女の事をきちんと受け入れているから、大丈夫だよ。
事故の事も、私達は後から知ったんだ。私や涼が関係していた訳じゃないから」
「そうなの…」
「…だけど、涼はあの子と関わるようになって、色々思い出すことがあったみたい」
「あの子って、…早川さん?」
「うん」
綾乃ちゃんは、私の手を取った。彼女の細い指を、私の指に絡める。それから、にこりと笑った。
「夏樹さん。
涼とあの子、何かあったんでしょう?」
「えっと…」
彼女達の事を話すべきか困り口ごもると、それだけで、綾乃ちゃんには十分だったらしい。
「答えなくて良いよ。今日久し振り会ったとき、涼の雰囲気が随分変わっていたんだ。だから、何となく思ったの」
「ごめんなさい。私…」
「ううん」
謝罪の言葉を遮られて、絡めた指にぎゅっと力が入る。
「ありがとう。涼の傍にいてくれて」
「私、大したことしていないよ?
たまにお喋りするくらいだし…」
「涼はね、他人に自分をなかなか見せれないんだ。
だけど、夏樹さんと話す涼は楽しそうだった。きっと、夏樹さんと過ごす事が楽しいんだよ」
「…」
複雑な思いのまま、綾乃ちゃんを見つめると、彼女は嬉しそうに微笑んで、それからいたずらっぽく囁いた。
「だけど、私にも、もっと構ってくれたら嬉しいな」
そんな綾乃ちゃんに、安心して私も笑った。
「勿論、たくさん構ってあげるよ」
「本当に!?」
予想以上の反応に少しだけ戸惑ったけど、それでも私の気持ちは変わらない。
「大好きだよ」
自然と口から出た言葉は、彼女をとびきりの笑顔にした。
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