第7話 立春 (2)

日没が早いこの時期は、仕事も早く終わってしまう。買い物をするついでに、私は桜ちゃんを駅まで送っていくことにした。

コーヒーカップを流しに運びながら、桜ちゃんに声をかける。


「そろそろ送っていくけど、準備は良い?」

「あっ、私、洗います」


テーブルの上のカップとお皿を運ぶと、そのままスポンジを取って洗ってくれた。


「ありがとう」

「いえ…」


はにかむ横顔が可愛らしくて、ついついからかいたくなる。


「桜ちゃんは彼氏いるの?」

「いえ、いないです」

「そうなんだ。じゃあ、好きな人はいないの?」

「!?」


その質問を聞いた途端、彼女は持っていたカップを落としそうになり、慌ててスポンジを掴んでいた手で押さえた。そのあまりに分かりやすいリアクションに、思わず笑ってしまった。


「可愛いね」

「…」


俯いて、赤くなる桜ちゃんに、自分にはない初々しさを感じてそう告げると、赤い顔のまま、逆に問い返された。


「水瀬さんは、付き合っている人はいないんですか?」

「私?いないよ。残念ながら」

「水瀬さんは、どんな人が好きなんですか?」


好奇心よりも、どこか真剣な眼差しに、笑いを引っ込めて少し考える。


「…好きになった人がタイプかな?」

「そうですか…」


釈然としない態度で、考え込む桜ちゃんに疑問が浮かぶ。軽いガールズトークだった筈なのに、何を彼女は真剣に考え込んでいるのだろう?

食器を洗い終わった彼女にお礼を言ってから、私達は揃って家を出た。

車庫のバイクに目を止めた桜ちゃんは、懐かしそうに見ている。私と視線が合うと、彼女はにっこりと微笑んだ。


「バイク、凄く楽しかったです。また乗ってみたかったな、と思って…」

「それは、良かった。高校を卒業したら、免許を取れば良いよ」

「まだまだ先の事ですよ」

「高校三年間なんてあっという間だよ」


そう言って笑う私を、桜ちゃんは見つめていた。


「水瀬さん。いつでも良いから、また後ろに乗せて貰えませんか?」


「…良いよ。じゃあ、暖かくなったらまた行こうか」


少しだけ考えた後、返事をした。約束するという事は、彼女とこれからも関わりあっていくという事。ふと、私の脳裏に桜ちゃんを後ろに乗せて、山道を走る光景が思い浮かんだ。あの道の先にあるのは―


「本当ですか?」


大喜びする彼女の声に、思考が戻る。その笑顔が眩しくて、何だか無性に触れたくなり、彼女の頭にぽんぽんと手をおいた。


「桜ちゃん、私達もう友達でしょう?

涼で良いよ」

「ふぇっ!?」


途端に赤くなる彼女に、にやりとしながら提案すると、案の定、彼女は恥ずかしそうにもごもごと「急には、無理です…」と呟いた。


「良いじゃない?

恥ずかしいのは最初だけだよ。ほら、言ってごらん?」


「…り、涼さん」

「!?」


赤い顔の桜ちゃんに、名前を言わせただけなのに、彼女が私を見上げて名を呼んだ瞬間、私の胸はどくんと跳ねた。


お互い見つめあい、視線が反らせない。ほんの数秒だけの沈黙の後、無理矢理笑顔を作ると、止まっていた時間が動き出した気がした。それでも、しばらく私の胸は高鳴ったままだった。



駅に着くと、「ここで大丈夫です」と言われ、桜ちゃんは車を降りた。見送ろうかと思ったが、自分の事をあまり話さない彼女はもしかすると、まだ知られたくない事情があるのかもしれないと考え直し、そのまま別れることにした。


「今日は色々ありがとうございました」

「私も楽しかったよ」


何か言いたげな桜ちゃんの言葉を待つと、彼女は視線を泳がせた後、恐る恐る訊ねた。


「あの、また、遊びに来て良いですか?…涼さん」


「うん、またおいで」


笑って返事をすると、ぱっと嬉しそうな表情に変わり、私はそんな彼女を微笑ましく思いながら見つめた。

そのまま手を振って、駅に入る桜ちゃんに、私も手を振り返して車を発進させる。


「あっ」


しばらく進んだところで、彼女と連絡手段を取る方法がないことを思いあたった。


「夏樹さんに、頼めば良いか…」


これからがの日常が少しだけ楽しくなって、私は車のラジオをつけて、町に向かった。


【改ページ】

春休みに入り、私は高校三年生になった。受験生と言われてもまだ全然実感は湧かなくて、だけど、何となく焦ってしまう…そんな生活が始まり、私は今日も図書館に向かう。


「こんにちは」

「いらっしゃい」


立木さんと挨拶を交わして、中に入る。涼さんとは相変わらず会えなかったけど、きっと会えると分かっているから、いつも通りに机に向かう。


あの人に出会って、本当に良かった…私を絶望の淵から救い出してくれて、私の目標のヒントを与えてくれ、私に初めての恋を教えてくれた人。名前で呼ぶ事はまだ全然慣れないけれど、心の中ではいつも呼んでいる。


涼さんに会いたいけれど、それと同じくらい会うことが怖い。会うほどに、自分の感情が怖いくらいあの人に引き寄せられていくのが分かるから。だけど、私を見る眼差しが、からかう表情が、笑い顔が、その怖さを嬉しさに変えていく。今の私には、どうすることも出来ないこの感情を、いつか受け入れる事が出来るのだろうか?

そんな事をぼんやり考えていると、不意に名を呼ばれているのに気がついた。


「早川さん?」

「…は、はい、何ですか?」

「これ、涼さんから。あなたに渡してくれって…」

「?ありがとうございます…」


二つに折られた一枚のメモ用紙を受け取り、広げてみると、'水瀬涼'という名前の下に携帯電話の番号が書かれていた。


「!!」


たったそれだけの事で、私の胸は嬉しさで一杯になる。あの人は私とのやり取りをその場限りで終わらせず、きちんと受け止めてくれていた。子供扱いされる事も多いけど、一人の人間として扱ってくれる。そんな優しさがたまらなく好きで仕方がない。

スマホに番号を入力して保存する。友人でも恋人でもないあの人との不思議な関係にグループ欄を何にするか悩んだ末、結局新しくグループを作り、そこに当てはめた。涼さんだけのグループ欄に、つい嬉しくてにやけそうになる頬をおさえて、メモ用紙ごと大切に保存した。


日中の気温がぐんぐん上がり、仕事で汗ばむ日が続くと春を感じるようになる。自分の仕事以外にも、他の農家の繁忙期の手伝いに行ったりして、毎日くたくたになるまで働いた。体を動かすことは好きだったし、外仕事も楽しい。そんな毎日に最近少しだけ変化が訪れた。私の連絡先を書いたメモ用紙を、桜ちゃんに渡してもらうよう、夏樹さんに頼んだのだが、ある日、スマホに見知らぬ番号からメッセージがあった。

'先日はありがとうございました'という一言に添えられた携帯番号と'早川桜'の名前に、きちんと届いた事を安心する。

ほとんど使わないアプリに悪戦苦闘して、何とか返信すると自分が、ずっと微笑んでいたことに気がついた。今まで一人でも全然気にならなかったのに、彼女と過ごすことが楽しく、出来ることならまた会いたいと思ってしまう。だけど、学生でしかも受験生の女の子に、そんな事が言える筈もなく、画面を閉じるとスマホをしまった。


やがて、桜が満開を迎える頃、久しぶりの雨にようやく休みが訪れる。春先の雨は霧のように細く、柔らかく降り注いでいて、外に出てもあまり濡れる様ではない。暖かな気温に誘われて、私はバイクで町に向かった。

生ぬるい風を体に受けて、バイクを走らせる。何も考えないようにしてひたすら走る道は気持ち良く、色々な道を通った。桜があちこちに咲き乱れる滝の公園に向かう山道は、平日なのにやけに人通りが多かった。

折角だからと、図書館まで足を伸ばす。もうすぐ昼の休憩時間になる頃だ。夏樹さんと一緒にご飯でも食べようかと思い、中に入ると、桜ちゃんが目についた。私を見て驚きながら、どこか嬉しそうな表情にくすぐったさを覚えて、手を振った。


「やっほー、夏樹さん」

「いらっしゃい」

「相変わらず、誰もいないね」

「何言っているの。早川さんがいてくれているでしょう」

「桜ちゃん以外に、だよ」

「もうすぐ休憩時間だからよ」

「ふふ、そういう事にしておくよ」

「ふふふ」


利用者名簿に名前を書きながら、そんな話で笑い合う。一ページに、数日分の利用者が記入出来るこの名簿には、確かにこの数日幾人かの名前が記入してあった。何気なくページを捲ると、必ず見つかる名前…彼女は毎日ここに訪れているらしい。


視線を感じて、顔をあげると、夏樹さんが私を見ていた。何も言わない彼女は、にこりと微笑んだだけだったが、物言いたげな彼女の表情に、自分の感情を見透かされた気がして、「…分かってる」と小さく呟くと、桜ちゃんの方に向かった。後ろで小さく笑っているに違いない夏樹さんを簡単に想像出来るから、恥ずかしくて仕方ない。後で、必ずからかってやろうと心に誓って、机の上を片付けている桜ちゃんの隣に座った。


「こんにちは」

「こんにちは…」


私が隣に来た途端、落ち着かなくなる桜ちゃんに、笑いかけ、そう言えば…と思い出して、桜ちゃんに訊ねてみる。


「もしかして、今、春休み?」

「はい」

「そっか、だから人が多いんだね」


一人で納得した私を、不思議そうな表情で見つめる彼女に説明する。


「今さっきね、滝の公園近くを走って来たんだけど、平日なのにやけに人が多いな、と思ったの。皆、お花見に来ていたんだね」

「お花見ですか…」


どこか羨ましそうな彼女に、考えるより先に言葉が出た。


「一緒に、見に行こうよ。桜ちゃん」

「えっ、良いんですか?」

「あっ、でも、勉強が忙しいかな?」

「いえ、行きたいです!!」


こちらが驚くくらいの必死さで、アピールする彼女にぽかんとした後、笑い出してしまった。桜ちゃんも恥ずかしそうにしているが、笑いがしばらく収まりそうにない。彼女が、少し涙目になりそうなところで、慌てて笑いを引っ込めた。


「ごめん、ごめん」

「良いですよ…全然気にしてないですから…」


「っ!?」

「ごめんなさい。笑いすぎました。

だから、怒らないで?ね?」


言葉とは裏腹にむくれた彼女の頬を、両手でつんつんすると、声にならない悲鳴が上がる。柔らかな彼女の頬に手を当てたまま、話しかけると、みるみるうちに赤くなった桜ちゃんが「分かりましたから…手を…」と小声で抗議する。


「ああ、ごめん」

「…」


未だ赤い顔の桜ちゃんに、前から気になっていたことを訊ねる。


「桜ちゃんて、誰にでもそんな感じなの?」

「…何がですか?」

「他人に触れられ慣れていない事。

つい反応が面白くて、からかっちゃうんだよね」

「…」

「あれ?

ひょっとして、気にしてる?」


押し黙った彼女を覗きこむと、泣き顔になっていて、ひどく驚いた。


「えっ、あの、ごめん!桜ちゃん…」


「…涼さんだからです」

「えっ?」

「涼さんじゃなきゃ、こんな気持ちにならない!!」

「桜、ちゃん?」


泣き顔のまま真っ直ぐ見つめられて、私は動けなかった。涙を袖で乱暴に拭った後、桜ちゃんは私に向かって告げた。


「涼さん。私、貴女の事が好きです」


桜ちゃんは、突然の告白に混乱している私に向かって「今日は、もう帰ります」と会釈して、飛び出すように出ていった。


「…」


外のドアが閉まる音が聞こえても、動けずに呆然とする私の肩を、ぽん、と優しく叩かれて振り向くと、夏樹さんが傍にいた。


「…大丈夫、ちょっと驚いただけだから…」


「涼さん、事務室に行かない?

コーヒー淹れるから…」

「ああ、うん…」


図書館の事務室とは、名前ばかりの部屋で、実際は、小さな台所とテーブルが置かれただけの四畳部屋だった。夏樹さんは私を座らせると、目の前にコーヒーを置いてから、向かい側に座った。

何も言わずにコーヒーを飲む彼女に、ぽつりと呟いた。


「告白されちゃった…」

「うん」


「私、あの子がそんな事を思っていたなんて、全然気付かなかった…」

「…私は、驚かなかったよ」

「えっ!?」


夏樹さんの言葉に、驚いて顔を上げると、彼女は私に微笑んだ。


「早川さん、いつもここにいたでしょう。涼さんに会った時の彼女の顔がね、普段と全然違うの。嬉しくて嬉しくて仕方がないっていう表情してたから…何となく、涼さんに好意は持っているんだなって思ってた」

「だって…」

「そうでなくても、涼さんの一言を信じて、半年以上ここに通い続けたんだよ。いつ会えるかも分からなかったのに」

「…」


夏樹さんの言葉に、まるでパズルのピースが埋まったかのような気がした。触れる度に赤くなるのも、好きな人を聞いて動揺したのも全て、私が原因だったからだ。


「どうしよう…」


思わず頭を抱えると、偽ざる本音が零れる。桜ちゃんから向けられた気持ちを、私はどう返せば良いのだろう?


「私、友人として見ていたのに、急にあんな事言われても…」


「ふふふ」


夏樹さんの笑う声に、思考が止まる。彼女は嬉しそうに私を見ていた。


「良かった。涼さんが、きちんと彼女の気持ちと向き合ってくれて…」

「!それは、当たり前でしょう?

桜ちゃんだって、冗談で言った訳じゃないだろうし」

「だから、安心したの。だって、早川さん、高校生でしょう?

あの頃なら、同性に憧れもあるじゃない?」


まるで、自分の事の様に話す夏樹さんを見つめる。そう言えば、彼女も…


「そうだよね。だけど、結局、私も桜ちゃんの事を大切にしたいって思っているんだ。放っておけないっていうか…一緒にいるとね、凄く楽しいんだ。

不思議だよね、年も離れているし、学生と社会人だし、共通点なんて何もないのに…」

「あら、私も涼さんと一緒よ?」

「夏樹さん、綾乃と幾つも離れていないでしょう?

私と夏樹さん同い年じゃない」

「えっ!?」


当たり前の事を言っただけなのに、夏樹さんはひどく驚いた。


「綾乃から聞いてない?

私、綾乃より年上だよ」

「知らなかった…涼さん、大人っぽいなとは思っていたんだけど」

「まあ、昔からの付き合いだから…」


話題がいつの間にか、自分達の事にすり代わっていたが、おかげで少しだけ、肩の力が抜けた気がした。コーヒーを一口飲むと気分も落ち着いたようだ。


「夏樹さん、ありがとう。

桜ちゃんの事、少し考えてみるね」

「ううん、私、大したことしていないし…」

「とりあえず、ご飯食べなよ。休憩時間も決まっているんでしょう?」

「あ、うん。涼さんは、お昼は?」

「持ってきた。とりあえず、食べようかな…」

「うん、一緒に食べよう」


買ってきたパンを出すと、夏樹さんもお弁当を広げた。二人で「いただきます」と言ってから食べ始める。夏樹さんのお弁当に目をやると、小さなお弁当箱の中身が相変わらず美味しそうだった。


「夏樹さん、それで足りる?

パン一つあげるから、おかず一つと交換しようよ」

「ふふ、交換しなくても良いわよ」


そう言って、鶏肉のおかずを分けてくれた。遠慮なく頂くと、ピリ辛で美味しい。


「美味っ!これ、どうやって作ったの?」

「ケチャップの隠し味に、コチュジャンとお砂糖が入っているの」

「へぇ、今度作ってみよう」

「涼さん、辛い物好きだものね」

「まあね」


「ねぇ、夏樹さん、今度うちに泊まりで、作りに来てよ」

「ふふ、綾乃ちゃんと一緒なら良いわよ」

「だよねー」


二人で食べる食事は美味しくて、いつしか笑顔が戻る。私は、桜ちゃんと過ごす時間とは別の、居心地の良さを感じていた。

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