第6話 立春 (1)

水瀬さんに駅まで送って貰い、落ち着いて考えると、顔から火が出そうだった。きっと、水瀬さんも、私に泣きつかれて困ったに違いない。何度も思い出しては、ベッドの上や、部屋の中を転げ回ったけど、今さら取り返しはつかない。


次の日、いつものように図書館に向かったが、水瀬さんと会った時、どんな顔で会えば良いのか分からない。入り口の前で悩んでいると、「こんにちは」と後ろから声がかかった。驚いて飛び上がりそうになった私に、司書の女性が慌てた声で謝った。


「ごめんなさいね。そんなに驚くとは思わなかったから…」

「いえ…私の方こそすみません」


「良かったら、どうぞ」


ドアを開けて、室内に促してくれる女性にぺこりと会釈して、中に入る。昨日と何も変わらない光景がそこにあった。いつもの席で教科書とノートを広げて、ふと思う。水瀬さんに会えて、私は満足した筈なのに、どうしてここにいるのだろう?


また会いたいから?あの人と会って、どうしたいのだろう?


考えても答えは出ない。だけど、ほんの数分でも良いから、あの人に会いたい。結局、この図書館が、水瀬さんに会える唯一の場所である限り、私はここでこれからも過ごすことにした。


それから何日か経った後、閉館時間が近づき、机の上を片付けていると、司書の女性が声をかけてきた。


「早川さん?」

「!?は、はい」


どうして私の名を知っているのかと、少しどきどきしながら返事をすると、「あの、利用者名簿に載っていたから…」と恥ずかしそうに告げられた。


「涼さんの知り合いだったのでしょう。知っていたなら、もっと早く涼さんに連絡するのだったけど。ごめんなさいね」

「いえ、私が勝手に待っていただけですから…気にしないで下さい」

「そうなの?」

「こちらこそ、この間はすいません。気を使って頂いて」


私の言葉に、水瀬さんとここで初めて会ったときの事を思い出したのだろう。少しだけ恥ずかしそうに「ううん」と笑った。


「私、立木夏樹。涼さんとはつい最近、友人になったばかりなの」

「えっ、そうなんですか!?」


二人の話す雰囲気を見たとき、とても仲良さげに見えた。とてもつい最近知り合ったとは思えなかった。


「涼さんは、私の恩人だから…」


どこか懐かしむように立木さんは呟いた。何も言えなくて立木さんを見ていると、私と目が合い、にこりと笑った。


「毎日、図書館を利用してくれる人が、涼さんの知り合いで、とても嬉しいの。ここの事で、何か困ったときは遠慮なく言ってね?

プライベートな事には答えられないけれど…」

「はい、ありがとうございます」


何となく少しだけ親しくなった雰囲気のまま、気がつけば閉館時間を過ぎている。戸締まりをする立木さんを手伝ってから外に出た。


数日間雨が続き、凍えるほどの寒さが身にしみる。雨が止んだ合間に、急いで走って図書館のドアを開けると、暖かい空気が迎え入れてくれた。


「こんにちは」

「いらっしゃい」


いつしか挨拶も親しく出来る程、通い続けた図書館には、今日はカウンター前に先客がいた。


「こんにちは、桜ちゃん」

「こ、こんにちは」


私を見つけて、笑いかけられるだけで、心臓がばくばくなっている。上手く話しかけれないもどかしさと、水瀬さんに会えた嬉しさで胸が苦しい。私を見る眼差しがいつも優しいのは、きっとそんな私の事など、水瀬さんにはお見通しだからなのだろう。少しだけ雑談をした後、思い出したかのように水瀬さんが私を見る。


「桜ちゃん、春には三年生になるんでしょう?

進路は決まっているの?」

「いえ、特には…一応、進学校なので大学を目指すようには言われてますけど…私、やりたい事もないし…」

「そうなの」


何となく重苦しい空気になるのが嫌で、無理矢理話題を変えた。


「あの、水瀬さんは、何のお仕事されているのですか?」

「私?」

「はい」

「…えっと、ね。簡単に言うと農業、かな」

「農業?」


イメージが湧かない私の表情に困った様子の水瀬さんは、隣の立木さんを見る。立木さんはくすくすと笑っているが、何も言わなかった。


「私の仕事が知りたいなら、一度遊びにおいでよ」

「えっ!?」

「明日なら、天気が悪いから都合が良いんだけど…

桜ちゃんは、忙しいかな?」

「いえっ!明日は休みですし、全然忙しくないです!」


半ば前のめりになって否定すると、水瀬さんは苦笑した。


「それなら、明日の昼から遊びにおいで。

ここに来れば、迎えに来るから」

「はいっ」


「それじゃ、また明日ね。勉強頑張って」

「はい、ありがとうございます」


「じゃあね、夏樹さん」

「ええ、またね」


水瀬さんはそのままドアを開けて出ていった。夢見心地でぼうっとしていると、立木さんに声をかけられ、はっとする。机に向かうも全く手につかない。


(嬉しい…!)


まさか、また一緒に過ごすことが出来るとは思わなかった。明日の事で頭が一杯になり、その日はあっという間に終わった。


緊張のあまりなかなか寝付けず、朝、時計を見て驚くと、慌ただしく支度を整えて、急いで図書館に向かった。水瀬さんの言っていた通り、外は昨日の雨の影響でどんよりとして、底冷えする日だったが、私には全く気にならなかった。約束の時間より少し早めに着くと、中に入るか迷ったが、結局、玄関の横のスペースで待つことにした。


どきどきする胸を静めようと、吐く息が白くなるのをぼんやり眺めていると、一台の軽トラが目の前に停まった。


「お待たせ」

「こんにちは、お邪魔します」


窓を開けて笑いかける水瀬さんに、緊張しながら挨拶を交わした。


「寒かったでしょう?車に乗って」

「は、はい」


促されて、助手席に乗り込むと、水瀬さんは図書館に向かって手を上げた。何気なく見ると、室内のカウンターから立木さんが、手を振っていた。私も会釈すると、立木さんは笑ってくれた。そんな彼女を見る水瀬さんは、何だか嬉しそうで、少しだけ気になった。


「それじゃ、行こうか」


車をゆっくり発車させて駐車場を出る。水瀬さんはパーカーとジーンズという格好で、背の高い彼女には中性的な雰囲気を醸し出していた。CDもラジオもない車中で、静かな沈黙が降りる。緊張して、話題を探す私に、前を向いたまま水瀬さんが声をかけた。


「寒くない?」

「いえ、大丈夫です」


こちらを見ることはなかったけど、少しだけ微笑んだ様に見えて、それだけで嬉しくなる。そのまま車は、水瀬さんの家まで走り続けた。


【改ページ】

家に帰ると、ごまが一声鳴いた。桜ちゃんは、もう驚くことなく、笑っている。車から降りて、こちらに近づく猫にも喜ぶ姿は無邪気で可愛らしかった。


「雨上がりで、滑りやすいから気をつけてね」


一声かけてから、小屋に向かう下りの畦道を進む。後ろの桜ちゃんに何気なく注意をしていると、案の定、「きゃっ」と声が聞こえた。


「大丈夫?」

「は、い…」

「ほら、手」


覚束ない足取りの桜ちゃんを見兼ねて、片手を出すと彼女の手を掴んだ。小さな細い手がすっぽりと私の手の中に収まる。


「手、小さいね」


笑いながら桜ちゃんを見ると、顔を赤くしていた。私としては、可愛らしくて褒めたつもりなのだが、また対応を間違ったのだろうかと心配になる。道が滑りやすい事も事実だし、手を離すわけにもいかず、繋いだまま小屋に入った。


「わぁっ」


中に入ると、桜ちゃんは驚いた様に声を上げた。目の前に、二頭の黒い牛が、興味深そうにこちらを見ている。


「凄い…私、初めて近くで見ました」

「そうだよね、町中にはいないからね」

「触って良いですか?」

「良いよ」


きらきらした目で、ゆっくりと牛に近づく桜ちゃんに、二頭は首を伸ばしてじっと見ている。驚かせないように近づいたものの、手を伸ばすと後ろに避けられて、残念そうにしている。


「怖くないの?」

「あまり、怖くはないです。私、動物好きなので」

「へえ」

「家では生き物は飼えないから、飼っている友達が羨ましかったです」


そう話す桜ちゃんは、生き生きとしていて凄く楽しそうだった。何とかして触れたいらしく、ちらちらと牛に視線を送るも、なかなか寄ってこない。


「水瀬さんは、牛の仕事をしているのですか?」

「うん、牛と、他にも色々しているよ。本当は、牛の仕事だけでやっていければ良いんだけど、まだ数が少ないから、今は他にも仕事をして生活しているの」

「一人でしているんですか?」

「うん、基本一人」

「毎日、大変じゃないですか?」

「…この牛も、家も本当は祖父の物なんだ。私、小さな頃から良くここに来て過ごしていてね。

何となく農大に入って、初めて大学付属の牧場を見たとき、'牛に関わる仕事がしたい'って強く思ったんだ。それから牧場に就職して、四年くらい働いたときに、祖父が体調を崩して入院することになってね、その時に、牧場を辞めてここに来たの。親にも祖父にも反対されたけど、生き物がいる以上、誰かが世話をしないといけなかったし…


仕事は確かに大変だよ。だけどね、自分の好きな事だし、自分で選んだ事だから、辛くはないかな」


話終わって、はっとする。こんな事を話すつもりじゃなかったのに、と、桜ちゃんを見ると、真剣な表情で私を見つめていた。


「あ、ごめん。何だか、重い話になって…」

「いえっ、あの、感動しましたっ!」

「へ!?」

「何だか、水瀬さん、格好良いです」

「ちょっ、ちょっと!?大した事じゃないから」


慌てて否定するも、桜ちゃんに見つめられて顔が熱くなる。私よりもっと大変な思いを持った友人もいるのに、自分が褒められるとは思わず、恥ずかしい事この上ない。


「あー、もう、この話は終わり!

ほら、外に出よう」


小屋の外に出ると、びゅっと強い風が吹いた。寒さが一気に押し寄せる。桜ちゃんが身震いするのを見て、とりあえずお茶を飲むことにした。


「桜ちゃん、ここは寒いから、家でお茶を飲まない?」

「えっ、良いんですか?」

「うん、美味しいケーキを買ったんだ。一緒に食べよう?」

「ありがとうございます」


来た道を引き返し、玄関に入るとそれだけでほっとする。「お邪魔します」と挨拶する桜ちゃんを促して、居間に座らせる。ストーブを入れてお湯を沸かす間に、冷蔵庫からケーキを出しておいた。昨日急遽決まった来客用にと買ってきたケーキは、前から食べたいと思っていたものだった。一人で食べるには味気なく、なかなか買う機会がなかったのだが、ようやく食べることができて、嬉しい。


「何かお手伝いしましょうか?」


桜ちゃんが、ひょっこりと台所に顔を出した。ケーキを見つけて「わぁ」と声を上げる。


「これ、持っていってくれる?」

「はい」

「桜ちゃん、コーヒー?紅茶?ココア?」

「あっ、コーヒーでお願いします」

「了解」


二人分のコーヒーを準備して、居間に戻ると桜ちゃんと一緒にお茶を楽しんだ。綾乃のオススメだけあって、確かに美味しかったケーキを桜ちゃんも嬉しそうに食べているのを見て、ほっとする。


「桜ちゃん、甘いものは好き?」

「はい、好きです」

「良かった。これ、ずっと前から食べたかったんだけど、一緒に食べてくれる人がいなくてね」

「立木さんは食べないんですか?」

「夏樹さんは、好きなんだけど、彼女の恋人がね…甘い物が苦手なの。だから、なかなか食べる機会がなくてね…」

「そうなんですか、立木さんと二人では行かないんですか?」


その言葉に、綾乃の顔が思い浮かんだ。夏樹さんの前では隠しているようだが、彼女は結構寂しがり屋だ。私と夏樹さんが二人で出掛けても、何も言わないだろうが夏樹さんも落ち着かないだろう。


「なかなか都合が合わなくてね。甘いものは誰かと一緒に食べたいのよね」

「ふふふ」


小さく笑う桜ちゃんに笑い返して、のんびりとお茶を楽しむ。話は尽きなくて、色々な事をお互いに話した。緊張していた桜ちゃんも自然に笑みがこぼれ出す。高校生らしい感性と優しい性格の彼女を見て、不思議だな、と思う。彼女と過ごす時間は心地よいのだ。あっという間に時間は過ぎ、夕方が近づくとそろそろ牛の世話をしなければならない。


「桜ちゃん、牛の餌をあげてみる?」

「えっ、良いんですか?」

「夕方の餌やりの時間なんだ。寒いけど、一緒に行く?」

「行きます」


立ち上がり、外に出ようとする彼女を呼び止めた。


「待って、そのままじゃ寒いし、汚れるから。これを着ると良いよ」


買ったばかりの大きめの防寒着を背中から被せた。外は未だ風が強く、桜ちゃんが風邪を引いたら困る。


「あ、ありがとうございます…」


大きめのサイズの防寒着に覆われた桜ちゃんは、もこもこのファーの間から顔がちょこんと見えていてとても可愛らしい。あまりの可愛さに、思わず頭を撫でるのをこらえた。


小屋に向かい中に入ると、牛達はもう待っていた。いつもの様に異常がないかチェックしてから、餌を運ぶ。興味深そうに見ていた桜ちゃんを手招きして、餌を渡すと餌箱の中に入れるように言った。彼女がそっと餌を入れると、牛が近づいて餌を食べ始めた。


「…」


餌を食べている牛を驚かせないように、静かに観察する彼女は、私が小屋で他の仕事をしている間中、ずっと牛を見ていた。


「桜ちゃん」

「あ、はい」

「お待たせ、仕事終わったよ。帰ろうか?」


どこか夢から覚めたように立ち上がる桜ちゃんに声をかけ、私達は小屋を出た。

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