第4話 大寒 (1)
「ふぅ」
小さくため息がこぼれて、はっとする。私の他に利用者はいないが、カウンターの中の司書さんに聞かれなかったか心配になる。ちらりと見ると、何か記入しているようで安心する。
最初は、きっとすぐに会えると思っていた。あれからのお礼を言いたくて、だけど、あの人の家に行くには勇気がでなくて…ずっと考えて思い付いたのが、この図書館の事だった。
'この図書館で働いている友人に会いに行く'と言う話を思い出し、ここに行けば、あの人に会えるかもしれない、そう思った。だけど、図書館なんて利用したこともないし、本も読まなかったから、初めて来たときは凄くどきどきした。開館しているのに、誰も利用者がいなくて、なかなか入る勇気が出ず、やっと思いきってドアを開けると、カウンターの中に綺麗な女性が座っていた。
「こんにちは」
「こ、こんにちは…」
黒髪の冷たそうな感じの女性は、にこりと笑うと、凄く柔らかな雰囲気に変わった。
(この人が友人かな…)
そう考えるも、初対面の人に訊ねることなど出来なくて、そのまま中に入った。一番近くが絵本の棚で、本が低い棚に見やすく並べられてあり、傍にクッションやマットが置いてあって寝転んだままでも読めるようになっている。
中央には大きなソファーが幾つも置かれていて、傍で静かにラジカセが、洋楽を流していた。窓際には勉強机が並んであって、それぞれが仕切られている。とりあえず、本棚を見て回るも全く分からない。これから、あの人に会うまでずっと居続けたい私にはどうすれば良いのだろう。
「何か探し物?」
「!?」
不意に声を掛けられて、びくっとした。振り返ると、すぐ後ろに幾つかの本を抱えた先程の女性が立っていた。
「いえ、あの、…私、本を読まないんですけど、借りなくちゃいけないんですか?」
咄嗟の事で、つい本音が出てしまい慌てる私に、女性は微笑んだ。
「ううん。騒いだり、他の利用者の迷惑にならなければ、あなたの好きなように過ごしてくれて良いわよ。私もここに一人でいるよりは、誰かがいてくれれば、嬉しいから」
「はい…」
「私の事は気にしないで、ゆっくりしてね」
優しい物腰と口調に安心して、私は窓際の席に座った。ぼんやり外を眺めていたが、ふと鞄を持ってきている事に気がつき、学校の課題を済ませることにした。いつもは面倒で後回しになっているが、いつ来るか分からない人を待つにはちょうど良い。
なかなか解けずにうんざりして、背伸びをしながら後ろの棚を見ると参考書が並んでいた。棚に近づき、手にとって幾つか捲る。先程の問題と似た例題が見つかり、本を参考に問題を解いた。
「そろそろ閉館なのだけど、良いかしら?」
いつの間にか、外は暗くなっていて、傍で女性が申し訳なさそうな表情をしていた。
「あっ、すいません」
「ううん、ゆっくりで良いから。
折角集中していたのに、ごめんなさいね」
「いえ…」
慌てて片付けると、お礼を言って外へ出た。
「結局、初日は会えなかったな…」
呟きながら、スマホを見ると、閉館時間を二十分以上過ぎている。私をずっと待っていてくれたのだと思うと、申し訳なく少しだけ嬉しかった。明日は時間に気をつけようと思って、駅に向かって歩き出した。
それから毎日の様に図書館に通った。週末になると、利用者も少しはいたが、平日は大抵私一人だけだった。司書の女性と挨拶して中に入り、閉館まで勉強して過ごす。その繰り返しの日々で、何人か利用者が訪れることはあったが、あの人は現れなかった。
利用時間が違うのかもしれない、そう思うが、諦めきれずにずっと待った。司書の人に聞けば良かったのだが彼女も物静かな人で、挨拶以外に言葉を交わすことなく、引っ込み思案な私には、なかなか言い出せなかった。
半年が過ぎても、私はずっと通い続けた。何度行ってもあの人に会えなくて、もう諦めようと思ったのも一度や二度ではない。会って忘れられているかもしれないし、もうそれっきりかもしれない。だけど、どうしても、もう一度会いたかった。その気持ちだけが、私をあの場所に向かわせた。
いつものように、窓際の指定席となっている場所で、課題に取りかかる。ここに通うようになって、下から数えた方が早かった私の成績は少しずつ上がるようになった。最低でも一時間はここにいるため、必然的にそれが学習時間になった。私を心配していた両親は、成績が上がるにつれ娘が図書館に通って勉強する事を喜び、何も言わずに送り出してくれるようになった。不純な動機が、成績向上に繋がることにいたたまれなくなった私には、その事が少しだけ有り難かった。
「こんにちは」
ぼうっとしていた為か、利用者が来たことに気付かなかった。若い女性の声にはっとして、顔を上げる。入り口を見た私は、息をする事すら忘れたように見つめた。
「いらっしゃい」
「久しぶり」
司書の女性が、いつもよりずっと親しげに見せる笑顔に、出迎えられた人は、くすぐったそうに笑った。私が見つめるなか、その人は何かに気がついたように小さく息をのんだ。そして、いたずら顔で何かを女性に囁く。女性の顔が真っ赤になり、首元を押さえているのを楽しそうに眺めた時、ようやく、私が彼女達を見つめていることに気がついた。
初め一瞬、私がどうしてここにいるのか分からないような表情を見せたその人は、女性から耳打ちされた途端、驚いたようだった。
もし、もう一度会うことが出来たなら…ずっと伝えたかった事はたくさんあった筈なのに、全て頭から消えてしまった。
無言のまま見つめる私に、その人はゆっくりと歩み寄る。まるで、初めて出会った時のように。
いつの間にか立ち上がっていた私は、会いたかった人を見て名を呟いた。
「水瀬さん…」
私より頭ひとつ分高い身体、短めに揃えられた栗色の髪、片耳だけのピアス、少し怖い雰囲気のその人が、とても親切で、本当は笑顔が素敵な人だということを私は知っている。彼女は私の前に立つと、ぽんぽんと頭を撫でた。にこりと笑う彼女は、私の記憶の中の彼女と何も変わらないまま、私の名を呼んでくれた。
「久しぶり、桜ちゃん」
「はい…」
「元気だった?」
「はい」
「そう…良かった」
それだけの会話なのに、私の心はこれ以上ないくらい満たされた。きっとこの人は、私の事を分かってくれていたのだ。
私はこの瞬間、水瀬涼という女性に恋をした。
「涼さん」
司書の女性の、控えめな呼び掛けに、はっとする。
「何?」
「私、書類の整理で事務室にいるから、何かあったら呼んでくれる?」
そう言って立ち上がった女性は、手に書類を持ってカウンターを出た。
「…ありがとう、夏樹さん」
お互い視線を合わせて、ふっと笑うと女性はドアを出ていった。室内は他に誰もおらず、私はその時、女性が私達に気を使ってくれたのだと分かった。
頭は真っ白で何を話せば良いか分からないまま、もじもじしていると、水瀬さんは隣の椅子に腰かけた。
「とりあえず。座れば?桜ちゃん」
「は、はい」
「制服姿可愛いね、流石、女子高校生」
「…」
制服姿を誉められて、何と返せば良いのか困っていると、水瀬さんは、そんな私の態度がおかしかったかのように、くすくすと笑った。
「毎日、ここに来ていたの?」
「あ、はい」
「…」
「あのっ、私、お礼を言いたかったんです。
ここに、たまに来るって聞いたから」
「ああ、ごめんね。ずっと待って貰って」
申し訳なさそうにに謝る水瀬さんに、私はバックの中からスマホを取り出した。
「違います!私が、勝手に待っていただけですから。
あの、これを見て欲しくて…」
「…!?」
スマホを操作して、画面を開く。差し出したスマホを見た水瀬さんは驚いた表情を浮かべた。
「…行ってきたんだ」
「はい」
「そっか…」
言葉少なめだが、水瀬さんの画面を見る姿に、自然と言葉がこぼれた。
「…私、二年生になってすぐ、クラスでいじめを受けるようになったんです」
「うん」
「学校が嫌で嫌で、でも、親には相談出来なくて。あの朝、ふと思ったんです。もう、何もかもから逃げたしたいって」
「うん」
「本当は…岬に行ったら…」
口ごもる私に水瀬さんは、視線を合わせると、にこりと笑った。
「言わなくても良いよ。
桜ちゃんが帰ってきてくれて良かった。それだけで十分だよ」
「水瀬さん…」
今までの全ての感情が爆発したみたいに、私の中から涙となって溢れ出した。そんな私を、水瀬さんは少し困ったように見つめて、よしよしと、頭を撫でてくれた。それが嬉しくて、もっと泣き続ける私に「参ったな」と呟いた後、おずおずと背中に手を回し、優しく抱き寄せてくれた。水瀬さんの温かい身体と、彼女の匂いに包まれて、私はしばらく、涙を流し続けた。
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