第三話 (7) 同族

 岩間大右衛門いわま おおえもんが目付に任じられて一月ひとつき

勘助はこの日も晴奈に呼ばれ、近習に案内された館の一室に入る。


(今日は信繁様はいないのか)


どうやら、この日呼ばれたのは勘助のみらしい。

勘助は晴奈を待つ間、既に何十度も訪れた一室を眺めながら、しみじみと思った。


(この部屋も随分と見慣れたものだが・・・・・・、お屋形様は、なぜ俺をここまで信頼するのだろう)


 勘助としては不思議で仕様もない。

自分でも認識していることではあるが、勘助はさほどに愛想がいいわけではなく、見てくれも悪い。むしろ自分の容姿ほど醜いものはこの世にないと思っているくらいであった。


聞いてみるか、と思った。


晴奈は現れるなり微笑むと、


「どうした、勘助?」


と聞いてきた。

勘助は驚き、


「こ、これは、顔に出ておりましたか?」


と、自分の口元を手で覆った。

勘助は日頃から、相手に表情を読まれないよう努めている。

人をなかなか信じる事のできない性格を持つ勘助は、自分の心の底を見透かされることを好まず、更に言えば、恐怖すら感じている。


晴奈は楽しそうに笑い、


「私とお前の仲だろう」


と、事も無げに言った。


 なるほど、例えば子供の時からの付き合いのある夕希であれば、勘助のちょっとした感情の機微に鋭く反応し、勘助を戸惑わせる。

しかし、晴奈とはそれほどの時を共に過ごしたわけでない。

幼い頃から友などほとんど作らず、人間関係に興味もない勘助は、晴奈の言葉にひどく戸惑った。


 人と人との関係ほど、不思議なものはない。例えば勘助のように大勢に嫌われるような人間にも、気が合って勘助の事を深く知ろうとしてくる人間はいる。しかもその人間は、必ずしも勘助と性格が似通っているわけではないのである。

勘助の友である馬場晴房などは、暗い性格の勘助とは性格が全くの正反対と言っていいだろう。しかし、互いにそれを尊重し合える間柄なのである。

が、勘助はそれを深く考えたことがない。悲しいかな、この男には利害を超えた友情というものを本能的に行なっている事はあっても、信じる事は出来ないのである。


無論、本能的に動けるのであれば、それこそが友情の本質であるわけだが。


「話してみろ」


晴奈に見つめられ、狼狽うろたえた勘助は、話を逸らそうと考えた。


「い、いえ、つまらぬ話ゆえ、お屋形様の方から・・・・・・」


「いいから、ほら」


晴奈に急かされ、勘助は渋々、なぜ晴奈が自分をそこまで信頼するのか不思議でならないと言った。


「まだそんな事を言っているのか?」


晴奈はやや呆れたように苦笑した。


「や、しかし!それがしはこのように愛想も良くなく、決して一緒に居たいと思われるような人間では・・・・・・」


「誰にでも愛想の良い人間より余程良いではないか」


晴奈はこの話はもう終いとばかりに言うと、なにやら紙を広げ出した。


「それは?」


勘助が興味深そうに聞くと、晴奈はそれを広げ終え、勘助に渡した。


「これは・・・・・・」


「岩間大右衛門からあがってきた報告だ」


見れば、紙には幾人かの家臣の名前と、その不正や失策が事細やかに書かれている。


(よくぞここまで・・・・・・)


と、勘助は関心せざるを得ない。

しかしすぐに顔を報告書から晴奈に向け、


「お屋形様。こういった物を他人に見せるのは、あまり関心致しませぬぞ」


晴奈は苦笑し、


「板堀のようなことを言うな、勘助。私とて誰彼構わず見せているわけではない」


と言った。が、勘助は厳しい顔を横に振り、


「お屋形様がそれがしのことを信じるのは勝手。しかし、こういった物を無暗に人に見せるものではありませぬ」


と、説教した。

これにはさすがに晴奈も居心地悪そうに座り直すと、


「今後は、気を付ける」


と漏らした。

勘助も「あっ」と漏らし、


「い、いや、それがしの方こそ、ご無礼を・・・・・・」


と謝った。


「いや、勘助。こうして私に諫言してくれるから、お前のことが信頼できるのだ。今後も遠慮は無用だぞ」


「は、はっ」


勘助は額に汗が浮かぶのを感じながら、本日の要件を聞いた。


「岩間の報告書、その最後を見てくれるか」


言われて勘助は、最後に書かれている人物を見た。

そこには、驚くべき人物の名が書かれていた。


「これは・・・・・・」


勘助は顔を苦々しく歪めた。


面倒な、と思った。


 名は、板堀信憲いたぼり のぶのりと書かれている。

家老・信方の娘であった。


そこには、続けてこういった内容が記されている。


 先の低遠攻めの際、低遠方の支城を攻める小川田 信茂おがわだ のぶしげに合力する筈であった板堀信憲は、仮病で出陣を怠り、信茂は空しく日を送らざるを得なかった。


(板堀様のご息女が、このような怠慢を?)


 勘助は疑わざるを得ない。というのも、信憲の父である信方は極めて真面目であり、現に今も白樺郡代しらかばぐんだいとしてその任を全うしているではないか。


「小川田殿から、訴状は?」


「出ていない」


無論、信憲の父が家老の信方であるため、訴状を出すことを控えた、という事も考えられる。


「板堀は私が幼い頃より世話になっているし、さらに言えば父だとも思っている。とても、信じられないのだ・・・・・・」


 仕事のできる人間が子育ても得意、というのは話が別なことであることを晴奈も分かっているが、晴奈の感情としては、やはり信じがたかった。

誤報かどうか、勘助に調べてもらいたいのであろう。

勘助はそれを察し、


「では、それがしが調べてみましょう」


と自ら名乗り出た。



 勘助は、兎にも角にも、当事者である信憲のぶのりの元に行くことにした。

信方は白樺郡代として上山城うえやまじょうに常駐しており、娘の信憲は留守の峡間にある屋敷を預かっている。

そのため勘助は、館を出るとそのまま板堀家の屋敷に向かった。


 勘助がぶらりと門前に立つと、屋敷の番卒は、「何者か」と聞こうとしたが、その風貌を見て勘助だと分かったらしく、


「山森殿であられますな?」


と聞いた。

勘助は頷き、


「信憲殿とお話がしたいのだ」


と言うと、番卒は「お待ちくだされ」と言って中に入っていった。


 勘助の容姿も、この辺りでは既に知らぬ者がいないほどに見慣れたものになっていた。

片足を引きずり、肩を大きく左右に揺らして歩くさまは、後ろや遠目から見てもすぐにわかるし、前方から見れば歩き方よりも、顔に目が行く。それほどの異形であった。左目を覆う真っ黒の眼帯、顔は黒く傷だらけ、無精ひげを生やし、表情は常にむすっとしている。

また、供の一人も連れていないのが、特徴的であった。連れている時の方が珍しいくらいである。


 しばらくすると、信憲は勘助を出迎えにわざわざ門まで出てきた。そして出て来るなり勘助に近づくと、いきなりその手を取った。


「わざわざお出で頂き、ありがとうございます。さぞかし喉も乾いているでしょう。さあ、中でお茶でも」


 好々爺然としている信方に似て、ニコニコとした穏やかな顔で現れたが、その表情はどこか嘘っぽい。

丸顔で目が大きく、鼻は低いが可愛らしい顔つきで、頭にはお洒落に緑色の髪飾りをつけている。

そういった造形の顔が、勘助を上目遣いに見ている。

見る人が見れば、立ちどころに籠絡ろうらくされてしまうだろう。そういった雰囲気があるし、その活かし方も心得ているようですらあった。


 勘助にしてみれば、その笑顔が、気味が悪い。


そんな勘助の感情を知らない信憲は、笑顔で続ける。


「しかし嬉しいですよ!まさか山森先生が私とお話しがしたいだなんて!」


「先生?」


勘助は露骨に顔をしかめたが、信憲は意に介さず続けた。


「はい!知ってますよ?お屋敷で兵法を教えているとか!いや~、私も是非とも参加してみたいと思っていたんですよ~。あっ!今度、お邪魔してもよろしいですか?」


「・・・・・・ああ」


勘助は、


(ますます気味の悪い娘だ)


と思った。

勘助に兵法を教わりたいなどと、嘘であろう。本当であればっくのうに屋敷に訪れているはずである。


 ともかく、勘助は信憲に手を引かれ、茶室に通された。


「それで、本日はどのようなお話を?」


茶室に着いてお茶が出されるなり、信憲は本題を聞きたがった。

勘助は眼光鋭く、低遠攻めの際の信憲の怠慢を述べ、最後に、


「返答次第では、どうなるか覚悟致すよう」


と言ってその罪を問いただした。


しかし信憲の反応は、何の変哲も無いもので、涼しい顔でお茶をすすっている。

あまつさえ、


「熱っ。いや~、私、猫舌なんですよね~」


などと言って、舌を出す始末であった。


「返答を」


と、勘助が催促すると、信憲は顔を傾け、


「え、なんでしたっけ?すみません。物忘れがひどいもので」


と言ってとぼけようとし出した。

勘助は流石にムッとなり、今一度大声で罪状をのべようとすると、信憲はそれを見越したようにケラケラと笑い、


「冗談ですよ~。やだな~、山森先生も熱いお人だ」


と言って手を団扇うちわのようにして勘助を扇いだ。

すると、唐突に笑顔を止め、


「淹れたてのお茶は熱くて、本当に厄介ですよね。そんなんじゃ、誰にも飲んでもらえませんよ~。お茶は、少しぬるい方がいい。ね、山森先生?」


と言った。

言外に、勘助の刺々しさを言っているらしい。

もう少し性格を柔らかくしなければ、勘助など誰にも相手にされず、やがては冷め切って捨てられるお茶のように朽ちていくぞ、と言いたいのだろう。


「熱いお茶が好みの人間もいる。余計なお世話だ」


と、勘助が言うと、信憲はすぐさま顔をニコっとさせて、


「ですよね~。私も、好きですよ?熱いお茶」


などと言って、すでにやや温くなっているお茶を飲み干した。


「さて、低遠攻めの時の話でしたよね?」


勘助が頷く。

信憲は一言、


「誤報でしょう」


と言った。


「誤報?」


勘助が聞き返すと、信憲は頷き、


「はい。確かに私は、先の戦さにおいては小川田さんに合力し出陣する事が出来ませんでした。しかし、それは私が風邪をこじらせ、熱に倒れてしまったが為ですよ。とても兵の指揮が出来る状態ではありませんでした。小川田殿にも、その件はしっかりと謝罪しています。現に、小川田殿から訴状などは出ていないはずです。まったく、世の中には暇な人がいるもので、テキトーな事を抜かす人がいるんですよ」


信憲はやれやれといった表情でため息を吐いた。


「しかし、仮病であったと報告が上がっているが?」


勘助が信憲の顔を見つめると、眼があった。

驚くほどの鋭い眼光で、勘助を見つめている。


「誰が、そんな報告したんです?」


「・・・・・・」


「山森先生は、その讒言ざんげん者をしっかりと調べましたか?」


確かに、勘助は岩間大右衛門の報告をそのまま鵜呑みにして信憲の元に来てしまった。

勘助としては、少し強めに問罪もんざいすれば、罪を認めるだろうと考えていた。


勘助には、相手を過小評価する癖がある。


信憲はいつのまにかニコニコとした表情に戻っている。


「ダメですよ~?問罪するなら、しっかりと証拠を持って来ないと」


その後、勘助は挨拶もそこそこに、屋敷を出ようとした。すると信憲は、「あ、門まで送りますよ!」と言ってついてきた。


「すみません。ろくなおもてなしも出来ないで・・・・・・」


と、わざとらしく肩を落とす信憲に、勘助も形だけで、


「いや、俺の方こそ突然訪ねてきて、申し訳ないことをした」


と言ってやると、


「いえいえ、平素からお客様をおもてなしする事を怠っていた結果です。これからは鍛錬せねばなりませんね。・・・・・・あっ、お屋形様には、言わないでくださいね?これでも、真面目で通ってるんですから」


と返し、ニコっと微笑みながら勘助を見上げた。


(小娘が。なにを白々しい)


勘助はこれ以上この娘と話す気にはなれず、足を速めた。

信憲もそれに合わせてついて来ると、


「私、山森先生のこと、尊敬してるんですよ?」


と、唐突に言ってきた。


(俺にこびを売っておこうという魂胆こんたんか)


勘助はそう思い、そうはいかないぞ、という意味が伝わるよう、極めて淡泊に、


「あ、はい」


とだけ返した。

信憲はぎょっとした顔で勘助を見ると、苦笑した表情を見せた。

勘助は初めて、この娘が本当に笑った所を見たようであった。


「なんですか、その返事?信じてないのがバレバレですよ?」


勘助としてはそのつもりで返事したので、何もおかしくない。


「やだな~、山森先生を尊敬しているのは、本当ですって」


勘助としては、


(まだ言うか)


としか思わないが、信憲は至極真面目な顔であった。


「山森先生は不思議な人ですね~。大して人間関係に興味もないのに、構築には抜け目がない。本当に勉強になります」


「なにが言いたい?」


「知ってるんですよ?山森先生は暇さえあれば、武郷家の家臣の方々のお屋敷を訪ねられて、『戦さの極意を教えてくれ』って頼み込んでるって」


「・・・・・・」


「それだけ知識があれば、そんな必要もないでしょうに・・・・・・。本当に、抜け目がない」


確かに、信憲の言う通りであった。

勘助は極めて打算的な考えで、屋敷を回っては教えを乞い、そのつど、「流石です。勉強になり申した」と心にもないことを言って、彼らの自尊心を満足させてやっていた。


 したり顔で隣に立つ信憲に腹が立った勘助は、その意図を教えてやることにした。

判ったような口をきくな、と教えてやろうとしたのである。


「抜け目があっては、困るのだ」


勘助の呟きに、信憲が興味深そうに耳を澄ました。


「平素からあの自尊心の高い合戦屋かっせんやどもの心を満足させてやるのは、いざ合戦という時に、俺の策謀通りに動いてもらうためだ。策謀には、」


勘助の眼と、信憲の眼が、再び交差する。

しかし今回、その眼光に震え上がったのは、信憲であった。


元手もとでがいるのだ」


信憲はしばらく呆気に取られると、やがてニヤリと顔を歪め、


「やっぱり、山森先生は、私と似てる」


と言って、嬉しそうに笑った。


 なるほど、勘助は自らの策を円滑に進めるために人間関係を周到に構築し、信憲は自分の好き放題に物事を進めるために、その容貌と知恵を使い、周りに媚を売り続けてきた。

似ているといえば、似ているだろう。どちらも、人間関係というものを心の底ではどうでもよいと思っている。利用できるから利用しているに過ぎない。


しかし勘助としては、似ていると言われることを快く思わない。


勘助の感情では、例えやっていることが同じであっても、中身の神聖さは違う、と言いたいのであろう。


(糞と味噌を一緒にするな!)


と叫びたかった。

が、勘助はここで考える。


(思えば、この娘を相手にした俺は、どうにも感情的すぎる)


勘助は冷静に考え、やがて気づいた。

皮肉なことに、信憲の『似ている』という一言で、初めて気づかされたことである。


(なるほど、同族嫌悪であったか)


信憲が勘助を出迎えに現れた時、勘助はとっさに、「気味が悪い」と思った。それもそのはず、勘助も他の諸将と会う時、似たような態度をとっていた。あまりに似ていたため、気味が悪かったのだろう。


「山森先生」


先生、というのは、信憲が勘助を手本にしているため、あながち間違いではなかった。

信憲はまたも作ったような笑顔で、


「これからも、よろしくお願いしますね」


と、勘助に笑いかけた。


気づけば、門には随分と前に到着し、長い事話し込んでしまっていた。茶室での会話より、ここでの立ち話の方が長いほどであった。



 勘助は信憲と別れると、その足で、小川田信茂の元に向かった。


(あの生意気な小娘は、才がある。さすがは信方様のご息女だ)


その生意気な小娘が、勘助について探りを入れていたのは、恐らく信方の指示であったろう。勘助はそれに全く気付くことがなかった。なるほど、見事である。

が、その誤算は、信憲が勘助の行動を見て勝手に師事してしまったことであろう。二重遭難のようなものである。


(信方様は、信憲殿についてどこまで把握しているのだろうか)


勘助は、ふと気になり、後で信方に会いに行くことを決めた。



 勘助は、小川田信茂の屋敷を訪れた。

番卒は先ほどの信憲の時と同様に、勘助に「しばしお待ちを」と言って屋敷内に入っていった。


 しばらくすると、小川田家の役人が現れ、勘助を案内した。

勘助が一室に入ると、信茂は胡坐をかいて面倒そうに座っている。

適当に勘助の応対をしようというのが、態度から見える。


 信茂は優秀という言葉にそのまま手と足をつけたような人物で、戦さの能力も申し分なく、さらには所領が国境に近い場所にあるため、南科野の今川氏、東科野の羽柴氏との外交役を担っている。

信虎時代からの家臣としては若手で、年齢は勘助と近い。


「なんの用だ、勘助」


と、信茂は大儀そうに本題を聞き出そうとした。


「まあまあ、水くらい飲ませてくだされ。それがし、もう喉が渇いて」


 信茂の態度に腹が立った勘助は、話を焦らした。

信茂は忌々しそうに水を用意させてやると、勘助はゆっくりとそれを飲んだ。


「まだ飲み終わらぬのか?勘助、申せ」


と、信茂は話を焦らされ、ウズウズと聞きたがった。

勘助はようやく一服し、


「先の合戦での信憲殿のことです。なぜ、訴状を出されないのでしょう」


勘助が信茂を見据えると、信茂は嫌そうに顔を歪め、


「そのことか」


と、漏らした。


「板堀信憲の行動、明らかに怠慢でありましょう」


「いかにも」


信茂は頷いたのち、「しかし、」と続けた。


「俺が訴状を出すか否かは、俺が決めること。他人にどうこう言われるものではない」


「では、先の合戦における小川田殿の隊のおびただしい数の死傷は、小川田殿の失策であったと?」


「そうは言っておらん!」


「では、なぜ?」


信茂はため息を吐き、吶々とつとつと語りだした。


 小川田隊は、いくら催促しても一向に合流地に現れない信憲隊を待ち、時を無駄にして過ごした。無論、この間も兵糧は減り続けるし、士気は下がっていく。

遂にしびれを切らした信茂は、自ら信憲隊の陣に何度か赴くが、信憲は「風邪をひいて寝込んでいる」の一点張りで会う事も出来なかった。

そうこうしている内に、信茂が攻めるべき城の者たちは、信茂の隊が動かないのを見て、首を討とうと城を打って出て信茂の野戦陣に攻め込んだ。このため、小川田隊は尋常でない被害を受けている。


 信茂は段々と頭に血が上ってきたらしく、声が大きくなってくる。


「さしもの板堀殿のご息女とはいえ、俺は許すことができなんだ!だから、あの小娘の元に乗り込んだ!」


 終戦後、怒り狂った信茂は、


「俺はあの娘に会わなければならん!会ってその罪を糾弾せねば、死んだ者達に合わせる顔がない!」


と言って屋敷を飛び出そうとした。

家臣たちは、「殿!落ち着きあれ!拙者が代わりに行って参りましょう」と言ったが、信茂は、「間に人を挟むとろくなことが起きぬ!俺が自らあの小娘の性根を叩きなおしてやる!」と叫び、単身、板堀家の屋敷に乗り込んだ。


信茂は番卒が止めるのも聞かず屋敷内に殴り込むと、食事を運ぶ女が見えた。


「おのれっ!呑気に食事かっ!」


信茂はその女の後を追っていき、音を立ててその部屋を開けた。

そこには、信憲が正座をして座っている。

しかし驚くべきは、信茂の分の食事も用意されていたことであった。


驚愕に固まる信茂をよそに、信憲はニコリと笑うと、


「信茂様、お待ちしておりましたよ?さ、こちらへ」


と言って近づくと、信茂の手を握って上座へと案内した。

怒り狂っていた信茂も、いきなりの事で戸惑ったし、なによりも好色な男だったため、その可愛らしい美貌に脳内を犯されてしまったらしい。

抵抗もなく座らされてしまった。この時点で牙を抜かれてしまったといってよいだろう。


「信茂様とは、以前からお話ししたいと思っていたんです。さっ、お酒を」


と言って、信茂の酒器にしゃくをした。


「う、うむ・・・・・・」


 信茂が信憲をチラリと視ると、信憲は慣れた手つきで手酌をし、一気にそれを飲み干してしまった。

それを見れば、信茂も負けていられない。杯になみなみと注がれた酒を、全て飲み込んだ。

すると、途端に胸が熱くなり、風景がゆっくりと回りだす。


「こ、こんなに強い酒を、飲んでおるのか?」


「はい!父は酒よりも煙草ですが、私は断然、これですね!」


信茂も酒に弱いわけではなかったが、こんなに強い酒は飲んだことがなかったのだろう。すでに酔いが回っているらいく、目をパチパチと開閉している。

信憲はその様子を見ると、甘えた声で、


「信茂様~、このお酒、気持ちいいでしょう?もう一杯、どうです?」


と問いかけた。

信茂は何が何だかわからず、


「う、うん?」


と、生返事をした。


 信茂の返事を聞いた信憲は、すぐさま信茂の杯になみなみと酒を注いだ。

次に自分の杯にほんの少し酒を注ぎ足し、それを信茂の前で豪快に飲み干す。

信茂は信憲の杯にも同じほどに酒が注がれているものと思い、一杯目と同じ量の酒を負けじと飲み干す。


「いや~、私も病み上がりですから、本当は止めたいんですけどね~」


「病み上がり・・・・・・?なんだ、そなた、本当に風邪をひいておったのか?」


「はい・・・・・・。本当に面目ないです・・・・・・。やっぱり私、ダメダメですよねぇ・・・・・・」


 しょんぼりとして見せる信憲が、今の信茂には妙に可愛らしく見える。

それに、自分のことを卑下する女を見ると、男心で、「そんな事はない」となんの責任も持たずに励ましてやりたくなる。

信茂も、その男のさがに従順であった。


「いや、良いのだ。風邪ならば致し方あるまい。俺も大人げなく怒鳴り込んで、悪かった。今後は共に、精進しようぞ」


すると、途端に信憲は顔を輝かせ、机に身を乗り出し、目一杯に顔を信茂に近づけた。

顔に息が当たりそうな距離である。


「本当に?信憲のこと、許してくれるんですか?」


いつのまにか、一人称が変わっている。が、信茂には只々ただただ、可愛いという感情しか頭にない。


「当たり前らろう?俺をられらとおもっている」


段々と呂律ろれつが回らなくなっている信茂の杯に、間断なく酒が注がれる。


 その後も、あれよあれよという間に信憲の怠慢はなかったことにされ、訴状等は出さないという誓紙まで書かされてしまった。

信茂はやがて寝てしまい、朝になってようやく、


「やられた」


と悟った。が、信茂の苛立ちはすでに満足していたため、これ以上の動きはなかった。


 信茂の話を最後まで聞いた勘助は、冷たい目で見つめている。

勘助としては、


(こんな男が外交を担っていて大丈夫なのだろうか・・・・・・)


と思わざる得ない。


「なんだ勘助、その顔は?」


「・・・・・・生まれつきです」


「そうか・・・・・・」


沈黙が流れた。

信茂は大げさに咳ばらいをし、


「とにかく、今回の件はこれ以上の詮索は無用ぞ」


 勘助としてもこれ以上この件についてなにか言うつもりはない。

信憲は風邪ということを信茂も認めて示談が済んでいる以上、勘助がどうこう騒いだところで武郷家にとって災いにしかならない。

勘助はそう判断した。

問題は、信憲に勝手をこれ以上させないことであった。


勘助が難しい顔で思案に暮れていると、


「勘助」


と信茂が真剣な顔で近づいてきた。


「おぬしが思案しておるのは、信憲のことであろう」


「小川田殿は、信憲殿のこと、どう感じ申した」


「可愛いと思った」


「・・・・・・」


勘助が心底軽蔑した顔をして見せると、


「冗談だ」


と言って、信茂は歯を見せた。


「あの娘は、才がある」


信茂の顔は真剣なそれに戻っている。


「ただの七光りの阿呆であれば、『自分は何某の娘ぞ』と騒ぎ立てるだけであろう。しかし、あの娘は全て自分の力だけでこの俺を言いくるめおった。あの娘は、」


信茂の眼は鋭い光を放っている。

外交などをしている時は常にこういった目つきで事に当たっているのだろう。


「厄介ぞ」



 後日、勘助は晴奈に、


「小川田信茂、板堀信憲、双方に事情聴取して参りましたが、既に和解は済んでいるゆえ、今更掘り返すこともないとか」


「仮病は事実であったか」


「恐らく」


 勘助は情報元の岩間にあたり、確かな情報を得ている。信憲は戦時中、宿に使っていた民家に籠り、家臣たちと賭博に興じていたらしい。

しかし、この件にはこれ以上関わるべきでないという判断を下している勘助は、そこまでの詳細を言わない。言えば、さしもの晴奈も、信憲を裁かざるえなくなる。


 この問答で、晴奈は信憲が信茂を言いくるめたことを悟った。


晴奈は一言、


「ご苦労だった」


と言って頷いた。

晴奈の胸中は、勘助には判らない。


「お屋形様。それがし、しばし板堀殿の元に行き、今後の方針を練りたいと思いまする」


晴奈は頷き、


「わかった。板堀によろしく伝えてくれ」


と、認めた。

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