第二話 (4) 準備 前編
武郷が本格的に動き出すのは、1年後になるだろう。それまでに戦に対するあらゆる備えをしなければならない。
晴奈はまず、領内の整備を行った。民たちは常に様々な不安を抱えている。特に峡間の民といのは、それが顕著であろう。先代の信虎から家督を継いだ晴奈はまだ若く、悪名高い信虎の娘というのは、それだけで人々を不安せしめた。ただでさえ峡間は、その地理的な問題で常に貧困といものに喘いでいるのだ。それらを払拭しなければ、戦に勝つなど到底不可能であろう。
峡間は内陸国の山間地域であったが、その中心は平野になっており、周囲を山に囲まれたそこは、峡間盆地と呼ばれている。
峡間盆地は東西に長い逆三角形のような形をしており、底辺にあたる部分を山で侵食されたそれは、例えるのであればじゃんけんのチョキのような形である。
この盆地は夏から秋にかけて集中豪雨に見舞われ、川の水が増して勢いよくあふれ、洪水という形になって人々を苦しめていた。
特に水害が酷かったのは、チョキに見立てた時の中指にあたる部分にある、
縦に流れる釜有川に、増水した御田井川が西からほぼ真横に合流するため、勢いを抑えきれずにその対岸、釜有川の東側に氾濫するというわけであった。
晴奈は板堀とともにこの問題に対処しようと考えたが、とても堤防程度で防ぎきれるものではないということは、火を見るよりも明らかであった。
堤防工事を行う専門家集団である
晴奈は、板堀信方と馬場晴房を連れ、川を見て歩いている。先頭を晴奈が行き、その後ろを二人がついてきている。晴奈は「護衛はいらない」と言ったが、二人は勝手について来てしまった。
「しかし困りましたな、お屋形様。川除衆もお手上げとなると、もはやこれは・・・・・・」
「板堀様、諦めるのが早くはありませんか?」
板堀は馬場を睨んだ。
「では馬場よ。おぬしであればどうするというのじゃ?わしは先代の信虎様の時からこの問題について頭を悩ましておるのじゃ」
「植林はどうですか?」
「既にやった。効果なしじゃ」
「では、巨大な堤防を作るというのは?」
「それも考えた。しかしのう、川除衆が不可能と言うとるんじゃ」
「行いもせずに不可能とは・・・・・・川除衆め、たるんでいる。しかし板堀様も板堀様です。それで納得して引き下がったのですか?」
「川除衆はわしらなどより、よほど知識も経験も多い。その川除衆が無理と言えば、無理なんじゃろう」
「だから諦めるのですか?荒れ狂う川の氾濫に、どれほどの民が苦しめられているのか、板堀様は理解しているのでしょうか?死人すら出ているんですよ!」
百姓出身の馬場は、こういった事に、ことさら厳しかった。
馬場の言葉を聞いた板堀は、憤怒した。
「馬場!わしがその現状を把握しておらんと、本当にそう思っているのかッ!」
馬場と板堀は、互いに真剣な視線を交わした。
やがて馬場は、頭を下げた。
「申し訳ありません。言葉が過ぎました」
「・・・・・・わしも、怒鳴って悪かった。許せ」
晴奈はその間、無言で先に歩いて行ってしまっていたため、二人は急いで合流した。
晴奈は二人が追いついたのを確認すると、口を開いた。
「二人は、真面目だな」
「はっ。ありがたきお言葉にござりまする」
板堀が礼を言い、馬場も頭を下げた。それを見た晴奈は、くすりと笑った。
「だが、真面目過ぎるのもよくはない」
「「?」」
板堀と馬場は、不思議な顔をした。
「真面目過ぎると、視野が狭くなる」
「はあ」
板堀は生返事をし、馬場は難しい顔をした。
それから三人は無言で歩く。
しばらく歩き、板堀が口を開いた。
「お屋形様。そろそろ帰らねば、皆が心配いたしまするぞ」
すると、急に晴奈が立ち止まった。
「お屋形様?」
晴奈は、川辺で川に向かって石を投げている男女を見ていた。恰好からして、近くの村の者だろう。
歳は15歳くらいだろうか、背の低い少女の声が、晴奈たちの所まで聞こえてきた。
「板堀様は偉い人かと思っていたが、愚劣極まるッ!」
少女の言葉を聞いたもう一人のひょろながの青年は、急いで少女の口を塞いだ。
「滅多なことを言うな!誰に聞かれているか、わかったもんじゃないぞ」
少女は暴れ、青年に肘で一撃を見舞い解放されると、顔を真っ赤にさせて、すぐさま怒鳴り上げる。
どうも少女は、短気な性格らしい。
「構うもんかッ‼」
そんな会話を聞いて顔を怒らせたのは、馬場であった。
馬場は走って二人に近づき、怒鳴り上げる。
「お前たちッ!今の話、聞こえたぞ!」
怒鳴られた二人は驚き、肩をびくりと震わせて振り返る。
馬場の姿を見た青年はビクついたが、少女は意に介した様子を見せなかった。
「私は武郷家家臣、馬場晴房。お前たちの名は?」
少女が口を開いた。
「
隣の青年は恐怖で震えており、それをみた黒島が、代わりに答えた。
「こちらは
そこで晴奈と板堀が、馬場達に合流した。
板堀が口を開く。
「こちらにおわすお方は、武郷晴奈様じゃ」
晴奈の名を聞いた二人は、ほとんど反射的に膝をついた。
「わしは武郷家家老、板堀信方じゃ」
板堀の名を聞いた松岡は、ビクッと震えた。
一方で黒島は、平然としている。
馬場は心中、「たいした度胸だ」と、称賛を送った。
「先の話、わしの耳にも聞こえておった。教えてくれぬか?わしのなにが愚劣なのかを」
板堀は穏やかな口調であった。事実板堀は、ただの少しも怒っていない。
しかし松岡は、板堀の話を聞き、反射的に口を開いた。
「申し訳ございません!どうか此度は、寛大なご慈悲を!こいつは昔から、相手が誰であろうと、言いたいことを言ってしまう性格なんです!」
「おいっ!」
黒島は松岡を睨んだ。
馬場は小声で、「全く助け舟になっていないぞ・・・・・・」と呟いた。
板堀はそこには触れず、優しく話しかける。
「わしは謝罪が欲しいのではなく、理由を聞いておるのじゃ。おぬしらとて、理由もなく人を罵ったりはしまい?」
板堀は優しく笑いかけた。
黒島が口を開く。
「恐れながら板堀様は、ご先代の信虎様の時からこの釜有川と御田井川の合流地点の氾濫対策を担当されているとか」
「うむ」
「それで現状この様では、愚劣と言わずして、なんと言いましょう?」
板堀は目を見開いて驚いた。まさか家老である自分が、ここまではっきりと言われるとは想像もしていなかった。
やがて板堀は、真剣な表情で口を開く。
「そうか。すまぬのう。わしの力が足らぬばかりに、おぬしら百姓に、苦労を掛ける」
板堀は頭を下げた。
松岡は驚きおろおろとしたが、黒島は平然としており、黒島の次の発言は、松岡を更に驚かせた。
「そうでしょう?」
これには晴奈含めた全員が驚いた。
固まった場の空気など気にせず、黒島は晴奈の方を見た。
「お屋形様。私にいい案があります」
「お前、いい加減に、」
怒鳴りかけた馬場を、晴奈は手で制した。
「聞こう」
晴奈は微笑を浮かべて黒島を見た。
黒島はこれに若干驚くと、説明を始めた。
「私が考えるに、川の流れを無理に止めようとするから失敗するのです。ですからいっそのこと、川の流れを変えてしまえば良いのです」
板堀が口を開く。
「流れを変える?たしかにそれは考えておらなんだが・・・・・・。どこに変えるというのじゃ?増水した御田井川の勢いは凄まじい。流れを変えたところで、結局は別の場所が氾濫するだけではないのか?」
「現在の合流地点より少し北、釜有川の川上側その東岸に、
西からぶつかる御田井川の流れを変え、崖で止めてしまうというのは、たしかに良い案のように思えた。
三人は早速、黒島と松岡に案内してもらい、辰王の高岩を見に行った。
「なんと・・・・・・」
「これは・・・・・・」
板堀と馬場は驚いた。あまりにも絶好というにふさわしい崖が、そこにはあったからである。
現在の合流地点よりさほど距離もないところにあるそれは、高さはおよそ15メートルあり、それがおよそ50メートルにもわたって続いている。
しばらく崖を眺めていた晴奈は、黒島の方を向いた。
「ありがとう、黒島。良いことを教えてくれた。君は度胸があり、賢いな」
「い、いえ。お褒め頂き、光栄です」
黒島はあまり褒められることに慣れていないのか、照れてしまったようだった。
晴奈は早速、治水に取り掛かった。この治水事業はおよそ3年ほどかかったが、それ以後、峡間の民が洪水に苦しむというようなことはなくなった。この時に造られた
季節は夏となっている。武郷は、晴奈を侮り盟約違反を犯した白樺頼重への制裁の準備を、着実に進めている。
その日板堀は、屋敷で煙草を吸っていた。板堀はいわゆるヘビースモーカーで、暇さえあれば煙草を嗜んでいた。それゆえ彼の周りは、常に煙草臭い。
そこに現れたのは、天海の家臣であった。なんでも、天海が話があるので来てほしいとのことであった。
(天海殿がのう。珍しいが、恐らくはお屋形様のことじゃろう)
板堀は天海の屋敷に行き、部屋に通されると、天海と児玉は既に話を始めていた。
「おおっ、板堀殿!急に話がしたいなどと、すまぬのう」
「いやいや、わしと天海殿の仲ではありませぬか。児玉殿も、ごきげんよう」
「おう」
板堀は座ると、早速本題を聞いた。
「それで、話とは?」
「それはのう、お屋形様のことじゃ」
板堀は内心、「やはりか」と思った。
児玉が苦笑しながら、口を開いた。その様子から、たいして大ごとではないのは察しがついた。
「板堀殿、また天海さんの心配症じゃ」
「児玉殿っ!前々から言おうと思っておったが、おぬしは物事を過小評価する傾向がある!」
板堀も苦笑し、話を促す。
「それで、話とは?」
「うむ。実はのう」
天海の話は、こうであった。
その日の朝、天海は館から出てきた晴奈と出くわし、また温泉であろうということは分かりつつも、どこに行くのかと尋ねた。
答えは案の定温泉で、天海は、国主である晴奈がお供の一人も連れずに出歩くなど不用心極まる。と、説教をしたらしい。すると晴奈は、「勘助と行くから安心しろ」と言ってのけ、天海を驚かした。
話を聞いた児玉は、笑った。
「ワハハハハハ!お屋形様らしい!天海殿から呼び出しが来たものじゃから、一体どんな話かと思うたが、話は簡単じゃ!家臣を連れて温泉に行く、それだけじゃ!一度目はあまりの肩透かしに、呆気にとられてしまったが、この話を国の一大事のように語る天海さんを見てると、笑いが止まらん!」
児玉は目尻に涙を浮かべ、爆笑している。
「笑いごとではないっ!峡間が栄えるも滅びるも、全てはお屋形様のお力次第じゃ!」
怒鳴る天海を尻目に、板堀は苦笑した。
「お屋形様は用心深いお方じゃ。心配はあるまい、天海殿」
「そこなのじゃ!板堀殿!」
「そこ?」
「おぬしほどの家臣が、なぜ気づかぬ!お屋形様は、あの得体のしれない山森勘助という男を、心の底から信頼しておるという事じゃ!温泉に行く相手が我ら先代から仕えてきた家臣ならまだ分かる!じゃが、相手はあの、山森勘助なのじゃ!」
「つまり天海殿は、勘助がお屋形様を襲う、と?」
「そうじゃ!お屋形様は、あの者に騙されておるのじゃ!この間の軍議もそうじゃ!あの者は口が上手く、小賢しい!お屋形様はわしら家老の意見を聞かず、あの者の策をおとりになられた!」
板堀は難しい顔をした。天海が言っているのは、白樺の盟約違反の報が来た後の、あの軍議の事であろう。あのとき板堀は、すぐに白樺への戦を唱えた天海とは違い、終始無言だった。戦をするという意見も、先送りという意見も、どちらにも利点欠点があり、峡間にとって最も良い手は何か、それをずっと考えていた。
児玉が口を開く。
「それこそ荒唐無稽じゃ!お屋形様には、わしら先代からの家臣に遠慮というものもあるじゃろう。たまにゆっくり休む時くらい、それらを忘れさせてやるのも、わしらの務めじゃ」
「児玉殿。おぬし、あの山森勘助という男を、妙に買っておるのう?そもそもおぬしがあの策をお屋形様に献策しておれば、このような・・・・・・」
「それは無理じゃ。あの策は、山森にしか考えられなかった。わしはあの時、山森の策が出なければ、天海さんや松原の策をとるつもりでおったのじゃ。素早く戦を起こし、短期に決着をつける。そのための策を考えるのが、わしの役目だと思っておった。奈々様の事は、なるようにしかならんと、腹を決めておったのじゃ」
「児玉殿・・・・・・。児玉殿は、悔しくはないのか?わしら先代からお仕えしてきた家臣達より、あの浪人者で新参者の、山森勘助の策が採用されたんじゃぞッ‼」
児玉は、自嘲的に笑った。
「正直なことを言えば、悔しくてたまらんかった」
「ならば、なぜ・・・・・・」
「わしは、軍師じゃ。峡間の家臣じゃ。自分の自尊心などの私事と、国の大事は、変えられん」
「児玉殿・・・・・・」
板堀が口を開く。
「案ずるな、天海殿。お屋形様は決して、我らを軽んじたりなどはしない」
「板堀殿・・・・・・」
「お屋形様はこの前も言っておられた。『天海は私を甘やかすことなく、厳しく
「お屋形様が・・・・・・」
「お屋形様が、本当に間違っている事をしているときに止めることをできるのは、わしらだけじゃ。それは勘助にはできんじゃろう。天海殿、それまではお屋形様を信じて、見守ると致しませぬか?」
「・・・・・・わしは、若いお屋形様が心配で、居ても立っても居られない心境じゃった。じゃが本当は、お屋形様を若輩だと、侮っておったのかもしれぬな。すまぬ。板堀殿。児玉殿。お屋形様にも、後で謝罪しなければのう」
「水臭いですぞ、天海殿」
「なあに、わしらにはわしらにしか出来ぬ仕事がある!わしも山森などに負けてはおれん!気張らねばのう!ワハハハハハ!」
この日三人は、より結束を固め、夜中まで酒を飲み続けた。
時は巻き戻り、板堀たちが集まった日の、朝。
勘助はこの日、特に予定もなく、朝から本を読みふけっていた。
夕希は外で、槍術の稽古をしている。
勘助が読書を楽しんでいると、夕希が血相を変えて部屋に飛び込んできた。
「ちょっ、勘助!勘助~!」
「なんだ、騒々しい。それと、しっかり汗を拭いてから部屋に入らんか」
「え?あたし、そんなに汗臭い・・・・・・?じゃなくてっ!お屋形様が!」
「お屋形様?お屋形様が、どうした?」
「お屋形様が、勘助に用があるって!今、客間に!」
「なに!なぜそれを早く言わん!」
勘助は急いで客間に向かった。
晴奈は姿勢正しく、正座をして待っていた。
「お屋形様!」
「勘助の屋敷は、賑やかでいいな」
「はっ。夕希の奴が、騒がしいもので」
「勘助。家臣は大切にな。今の勘助は、一人でさまよう浪人者ではない。夕希はお前の家臣であり、家族なんだ」
「え?あっ、はっ。しかと、胸に刻みまする」
「うん」
晴奈がそう言うと、しばらく沈黙が流れた。無口な晴奈との会話では、よくある光景であった。
「それで、此度はどのような・・・・・・」
「うん。勘助、一緒に温泉にでもどうかと思ってな」
「温泉?おおっ、それはようござりまするな!」
と言っても、勘助は主君である晴奈と一緒に温泉に入ろうなどとは考えておらず、わざわざ誘いに来た晴奈が、勘助になにかしら話したい事でもあるのだろう。と、勘助は考えての発言であった。
しかし勘助が発言すると、直後に部屋の外で、大きい物音が聞こえた。
勘助は立ち上がり、戸を開けると、夕希が慌てて隠れようとするところだった。
「夕希っ!」
「あっちゃ~。見つかっちゃったか~。ていうかっ、勘助!どういう事!」
「こっちの台詞だ!」
「はあ?」
勘助は睨む夕希を無視し、晴奈に頭を下げる。
「お屋形様。申し訳ござりませぬ」
夕希も急いで頭を下げた。
「お屋形様、ごめんなさい!」
勘助は驚き、夕希を怒鳴った。
「これ夕希!なんという言葉遣いだ!」
「え~。でもお屋形様、前に勘助の服を持って来た時に、無理に敬語は使わなくってもいいって」
「馬鹿者!精進せぬか!」
「勘助」
怒鳴り上げる勘助の名を、晴奈が呼んだ。
「はっ。お屋形様。申し訳ござりませぬ」
「いや、夕希は今のままが良い。堅苦しい言葉遣いは、私も疲れる」
「は、はっ」
「へへ~ん。勘助、ざまぁ」
「夕希」
「へ?」
続いて晴奈は、夕希の名を呼んだ。
「私はそのままでいいと確かに言ったが、他の者もそうとは限らない。最低限の言葉遣いを学び、使う場を選ぶことも、大切だぞ?」
「は、はい」
晴奈は微笑し、夕希も温泉に誘うことにした。
「夕希も、温泉に行かないか?」
「え?あっ、もちろんです!喜んで!」
「よし。なら三人で行こうか」
「ちょ、ちょっと待ってください!お屋形様!」
「うん?」
「いや、その、ね?勘助が行くのは、どうかと・・・・・・」
夕希の言葉を聞き、晴奈は不思議そうにし、勘助がその理由を聞いた。
「なぜだ、夕希?」
「いや、そりゃあそうでしょ!勘助、女の子と一緒の混浴に躊躇ないとか、どうなってんのさ!」
「しかし、お前とは以前、一緒に温泉に行ったとかなんとか、言っていたではないか?」
「勘助すっかり忘れてたじゃん!」
「忘れたのは結果論だろう?」
「ば~か!」
「なんと次元の低い罵り言葉を・・・・・・」
「だいたい!勘助言ってたじゃん!信繁様に釘刺されたんでしょ!」
「うん?そんなこと、あったかな?」
「どんだけ都合よく忘れんのさ!」
「あの時は殴り飛ばされたせいで、よく覚えておらん」
「覚えてんじゃん!」
するとそこで、晴奈が笑い出した。
晴奈は常に優しい顔をしているが、笑ったところは滅多に見ないため、夕希は驚いた。
「おもしろいな。二人は。いいから行くぞ?」
「はっ」
「え?あっ、ちょっ、待って」
こうして三人は、温泉に向かった。
夕希は勘助が一緒に湯に入ることに最後まで反対し、結果的に勘助は、目隠しをされた状態で湯の近くに侍り、話をするだけという形になった。
夕希と晴奈は湯につかり、三人で雑談に花を咲かせる。
やがて夕希は、こんな事を言い出した。
「しかし、驚きましたよ~」
「うん?」
「いや~、あたしはてっきり、また戦になるんだって思ってて」
晴奈は優しく微笑んだ。
「何事も、辛抱第一だ。臥薪嘗胆、今は戦をする時ではない」
「本当にお屋形様は、先代様とは違いますね~」
勘助が、「さすがはお屋形様です」と言うと晴奈は、「勘助に聞きたいことがあった」と言ってきた。
「勘助。勘助は、『孫子』が好きだったな」
「はっ」
「では勘助。『孫子』で一番好きなのは、なんだ?」
「それはもちろん、『兵は詭道なり』です」
「なぜだ?」
「兵法家の役目は、いかに味方の損害を少なくし、益を得るか、ということです。であれば、『兵は詭道なり』は、至高です」
「勘助らしいな。では、他にはないか?」
「他ですか・・・・・・。であれば」
勘助は息を吸い、呪文を唱えるかのようにすらすらと喋った。
「
其の
動かざること山の如く
知りがたきこと
動くこと
「風林火山か・・・・・・」
晴奈は勘助が何を言ったのか分かったようであったが、夕希には意味が分からず、勘助に質問する。
「勘助。なんの呪文?あたしとか呪ってないよね?」
「違う!『孫子』の一部分だ。これを徹底した軍隊というのは、およそ最強といってもよい」
「ふ~ん。意味は?」
「『疾きこと風の如く』というのは、移動するときは風のように素早く、という意味だ。『徐かなること林の如く』というのは、陣容は林のように静かで、近くにいる敵にも見破られることのないように、という意味だ」
「へ~。なかなか難しいこと言うね~」
「戦に勝つとは、それだけ大変という事だ。続けるぞ?『侵掠すること火の如く』は、ひとたび攻撃すると決めれば、火のように勢いに乗って戦い、続く『動かざること山の如く』とうのは、守りを固める時は、たとえ敵がどのような策、攻撃を仕掛けてこようとも、山のように動じないという意味だ」
「なるほど~。まだあるんだっけ?」
「おう。『知りがたきこと陰の如く』というのは、どのような動きに出るのか判らない雰囲気は陰のように、『動くこと雷霆の如し』は、攻撃の発端は雷のように意表を突けというものだ」
「え~?なんか、『徐かなること林の如く』と、『知りがたきこと陰の如く』が微妙に似てない?あと、『侵掠すること火の如く』と、『動くこと雷霆の如し』も」
「まあ、微妙に違うが確かに似ている。簡潔にまとめられている分、字だけではどうしても分かりにくい」
「ふ~ん。なんだか頭使ったら、のぼせてきちゃった。お屋形様。そろそろ出ましょう?」
「うん。勘助はゆっくりと温まるといい。私たちは外で涼んで待っているぞ?」
「はっ」
しかし勘助は、結局湯には入らなかった。晴奈が浸かった湯に入るのは、恐れ多いと思ったのかもしれない。
晴奈は今回の会話から、ある事を思いついていた。
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