第一話 (14) 寒月
さて、父である信虎を追放する事を決断した晴奈の顔は、いつもの凛々しさ以上の輝きを放ち、その違いは、温泉の外で待機していた馬場が話しかけるのを躊躇したくらいであった。
晴奈と馬場は、馬に揺られている。
寒月が出ていたが、晴奈は寒いと感じなかった。
「晴奈様。今日は随分と長く浸かっておられましたね。途中、なにやら物音と、晴奈様の笑い声が聞こえましたが」
「うん?ああ、少し転んでしまったな。間抜けな自分に笑っていた」
馬場は驚いて晴奈の顔を見る。
晴奈が転んで、ましてやそれに、声を出して笑っていたなど到底信じられなかった。
「本当に、間抜けだったな・・・・・・私は」
しみじみと呟く晴奈は、月の光を浴び、馬場には一層、凛々しく映った。
晴奈は、これからを考える。
明日から動かなければならない。先手を打ったとばかりに呑気な信虎は、昼間、猿楽師を招き、ずっと眺めている。
その間に、家臣達を説得しなければならない。
まず説得すべきは、家老にして晴奈のかつての守役である板堀信方だろう。その次は、信虎に次の当主にと言い渡された妹の信繁。そのかつての守役にして重臣、泉虎定。家老の天海虎泰、重臣の児玉虎昌といったところか。
その他の家臣達には、板堀達が説得に当たるだろう。
家臣達を説得し終えた後は、今川梅岳への書状。
今川梅岳と、その軍師である太原雪原に、晴奈ではなく、信虎を人質とした方が得であると思わせなければならない。
つまり、信虎よりも晴奈の方が与し易い相手と思わせなければならない。晴奈が信虎以上の無能だと思わせなくてはならない。
これについては後日、晴奈は相木を通じて、勘助が雪原の食客、いや、食客というよりは使い勝手のいい道具という立場である事を知り、この情報操作は勘助に任せている。
晴奈の天下への道は、まずはここからであった。
一方、二人で天下を目指すと誓った勘助の方はというと、相木と別れた後、月を見るなどという風情なことはせず、家へと急いだ。
興奮が止まらなかった。
周りの気温は低く、吐かれる息は真っ白、吸い込む息は肺を凍てつかさんばかりであったが、不思議と寒いとは感じなかった。
(仕官だっ!!遂に!遂にっ!!夕希の奴に自慢してやらねばっ!)
晴奈への仕官の話を夕希に話せば、どんな顔をするのか。どんな反応をしてくれるのか。
勘助は、この子供染みた楽しみ方を享受するために帰路を急いでいる。
寒さなど、感じている暇もない程であった。
勘助が村に帰ると、勘助の家だけ明かりが点いていた。
興奮している勘助は特に考えていなかったが、勘助が温泉に行くきっかけとなったのはそもそも、夕希が勘助を問いただし、勘助がそれに腹を立てたためであり、この時勘助の家の明かりが点いていたのは、普段は早寝の夕希が、後悔し、どう謝ろうかとずっと悩んでいたためであった。
反省をしていながらも、勘助の家に勝手に居座っているところは、なんとも夕希らしかった。
夕希が勘助の家にいるという事だけは想像していた勘助は、明かりを見て確信し、自宅の戸を乱暴に開けた。
「夕希っ!!」
「うおっ!?」
突然戸を乱暴に開けられた挙句、大声で名前を呼ばれて驚いた夕希は、続いて困った。
(あっちゃ〜。勘助がこんな大声出すなんて、相当怒ってるな〜。参ったなぁ。どうしよ)
自分がまだ自宅に居座っている事が火に油を注いだのかもしれない。そんな事を考え、眉を困ったように寄せる夕希をよそに、勘助はまくし立てる。
「仕官だっ!遂に、仕官が決まった!!」
「えっ!?」
「そうだ夕希!仕官だ!遂に家臣だ!」
「えっ!?えっ!?」
「しかもなぁ、直臣だっ!俺はあのお方を、天下人にして見せるッ!」
「え・・・・・・。勘助、あのお方って?」
勘助は口元をニヤリとさせる。
「聞いて驚け!なんと、武郷、晴奈様だ!あのお方が俺のお屋形様だ!」
夕希は驚いた。
その間抜けな表情を見た勘助は、笑った。
「え、でも勘助、武郷は好かないって」
「馬鹿者!俺が好かないのは信虎だ!晴奈様は違う!」
「そっ、そっか」
夕希としては、勘助がどこかに仕官したら板堀の元から去り、勘助の家臣として側に仕えるつもりだったので手間が省けたわけだが、いくつか疑問点があった。
「あのさ、勘助」
「うん?」
「晴奈様がご廃嫡されたっていうのは・・・・・・」
「そのことか!実はな、俺とお屋形様は天下を共に取ろうと誓い、信虎を追放することにしたのだ!他言無用だぞ?」
「う、うん。そっか。それじゃあさ、勘助。勘助はどこ行ってたの?」
「言っていなかったか?温泉に浸かりにだ」
「晴奈様とはどこで会ったの?」
「温泉に行ったと言ったのだから、温泉に決まっているだろう?」
「へ、へぇ〜。まさかだけどさ、勘助。入浴中の晴奈様を覗いてたの?」
「馬鹿者ッ!そのような恐れ多い事が出来るかっ!」
「だ、だよね〜!温泉の近くで会ったんだよね〜」
「いや、晴奈様がどんなお方か気になり、見に行ったのだ」
途端、勘助の顔面に夕希の足裏が迫り、勘助は吹き飛ばされる。
「なっ、何をするっ!」
「あとさ、勘助。勘助温泉に浸かったように見えないんだけど、本当は何のために温泉に行ったの?」
「それこそ恐れ多いっ!晴奈様が浸かったお湯に入れるわけがなかろう!」
「覗きはやるくせに?」
「覗きではないっ!人聞きの悪い事を言うな!気になって見に行っただけだ!」
「ごめん。違いがわからない」
夕希の視線は冬の夜空より余程冷たく、勘助を見ている。
(何という目を・・・・・・)
やがて夕希はため息を吐き、「ま、いっか。寒かったでしょ?暖まりなよ」と言って尻餅をつく勘助を起こすのを手伝うと、一言。
「おめでとう。勘助」
と言って、祝ってくれた。
それから勘助の話は、しばらく続いた。
夕希はお祝いだからと団次郎の酒を持ってきてくれて、気分のいい勘助は湯水の如く酒を飲み、夕希から見てもややみっともないくらいに酔ってしまった。
話の内容は主に、晴奈の事であった。
「晴奈様はなぁ、俺の顔を見て、恐ろしくないと言ってくれたんだ!」
「・・・・・・へ〜」
「俺の顔を見ても恐ろしくないと言ってくれた
「〜ッ!」
「・・・・・・?あのお方は、俺を家臣にしてくれると約束してくれた!共に天下を目指そうと言ってくれた!」
「ほんとに、よかったね。勘助」
「おう。本当にな・・・・・・」
そう言って今度は泣き出してしまう勘助を、夕希は優しい眼差しで見つめた。
「そうだ、夕希!初陣はどうした!初陣!すると言っていただろう!」
酔っ払い特有の急な話題転換であった。
夕希は困った。あまりこの話題は話したくなかった。
「どうした?まさかまだ行ってないのか?」
「いや〜、行ったよ。行ったんだけどね〜」
「そうか!お前のことだ、敵将を討ち取ったか!」
「あ、あはは」
困ったように笑った夕希を見て勘助は、何を思ったか妙な提案をし出した。
「酔い覚ましに夜風でも浴びながら、温泉にでも行くか!」
「え?勘助、さっき行ったじゃん」
「しかし入っておらん!」
「覗いてたんだもんね〜」
「ともかく!ほれ!行くぞ!」
「はいはい。分かった分かった」
夕希は仕方がないといった様子で、ふらつく勘助の分も準備をし、勘助に肩を貸して、外に出る。
「うわっ!さっむ〜」
「なんの!くっつけばどうという事はない!ほれ、もっとくっつかんか!」
「あっ!ちょ、ちょっと、今日の勘助、強引過ぎ〜!」
「ははははははははっ!」
愉快そうに笑う勘助を見て、夕希の頭に懐かしい思い出がよぎり、感慨深い気持ちになる。
勘助がこれほど愉快そうに笑ったのは、彼がまだ少年の頃、飼っていた白猫と一緒にいた時だけであった。
勘助が、「晴奈が入浴した湯には入れない」というので、わざわざ少し遠い温泉にやってきた。
真っ直ぐ歩けない勘助に肩を貸し、温泉までやってきた夕希の体力は、やはり並外れたものがあると言わざるを得ない。
温泉に着くと勘助は、さっさと服を脱いで湯に浸かりに行ってしまった。
夕希も服を脱ぎ、湯に行くと、勘助は背を向けて湯に浸かっていた。
「お邪魔しま〜す」
そう言って夕希は湯に入り、勘助と背中合わせに座った。
「相変わらず、傷だらけだね〜。勘助」
「うん?そうか?」
「生きてるのが不思議だよ〜」
そう言ってしばらく湯に浸かっていると、勘助が酔っているとは思えない程はっきりとした口調で話しかけてきた。
「それで、初陣で何があった」
「・・・・・・勘助はさ、初めて人を殺した時、どうだった?」
「さあな。俺は今まで、夢に向かって必死に走り続けて来た。そういった事を考える暇は、無かったな。そしたらいつのまにか、人を殺す事に慣れていた」
「さっすが、勘助らしいね」
「必死になればいいというものでも、ないのかもしれないな。必死になればなるほど、大切な事を見失う。だが、俺は後悔はしないぞ」
「あたしはさ、大切な人を守りたいと思った。だから戦に出て、人を殺した。その時は必死だったけどさ、寝る前になって、悪い事をしたな〜って、思えてきちゃってさ」
「・・・・・・」
「人を守るための手段でも、人を殺す事には変わりないじゃん?だからさ、いろいろ考えちゃうんだよね・・・・・・」
「・・・・・・何を甘ったれた事をぬかしているのやら」
「勘助?」
「いいか?お前は余程恵まれている。幸せ者なんだぞ?」
「幸せ者・・・・・・?」
「そうだ。お前は武勇に恵まれている。俺が欲しかったものを、持っているではないか!」
「でも、あたしは・・・・・・」
「大切なものを、自分の手で守ることが出来るんだぞ?この世おいて、大抵の人間には出来ないことが、出来るんだぞ?守りたいものを自ら守るすべのない者は、守りたいものが他者に壊されるか、他人に委ねるしかなくなるんだ!これが幸せでなくて、何になる!甘ったれるなっ!」
「・・・・・・」
「殺したくて殺したわけではないのだ。相手とて同じこと。後悔してても、仕方あるまい」
夕希は、しばらくの呆気にとられた後、仕方がないといった風に笑い、呟いた。
「ホント、勘助はぶれないね〜。でも、うん。そうだね。なんだかスッキリしたかも。ありがとね、勘助」
恵まれた者には、恵まれた者にしかない、悩みというものがあるのかもしれない。
おそらく夕希は、人を殺す事に慣れることはないだろう。しかし、少なくとも戦いの最中において、迷うこともなくなったのかもしれなかった。
「そろそろ上がろっか?勘助」
「・・・・・・」
「勘助?」
「・・・・・・」
「寝ちゃった?全く、世話がやけるな〜。勘助は」
気付けば空は、暁になっていた。
夕希は熟睡した勘助をおぶって帰った。
帰りもくっついていたためかどうかは定かではないが、寒くはなかった。
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